手元に談志から来た一枚の葉書がある。石原慎太郎との世相巷談のような番組をテレビで見て、息が合ってたね、とても面白かったよと一筆敬上した私の葉書への返事である。

 全文、左記の通り。そのまま写す。

 拝復. 汗顔の至りであります。
 ま. 久し振りに慎太郎氏と(ま. TEL
 はあるが、、、)一夕を、、、向うも嬉んでいた
 いい夜でありました. けど小生もう駄ァ~目
 何をしてもツマラナイ. 病気(肝臓、糖尿)
 か初めての「老人」に精神がイラついているの
 か. 生きてるのが辛い. 困ってる、、、7/13

 日付の翌日、2006年7月14日の投函。

 ま、という間投詞が入るところがいかにも咄家らしい。

 2006年というと、5年前である。その年の1月に70歳を迎えたところだ。すでに病気持ちで、精神的にもうっ屈、もやもやした感情を抱えていたのだろう。

 初めての「老人」ったって、誰だって初めて老人になるのに、、、、。

 日常、深い付き合いをしていたわけではないが、古くからの知り合いだった。紹介してくれたのは気鋭の演芸プロデューサーだった故湯浅喜久治か。1957~58年、昭和32~33年のことだ。

 あのころ、回りから「小ゑんちゃん」と呼ばれていた。柳家小さんの弟子で柳家小ゑんを名乗っていたからだ。

 当時から異端で、古典落語を追求するかたわら、日劇ミュージックホールでヌード・ダンサーと共演したりした。

 おかしいのは、どこかでばったり会うと、ひとつ覚えみたいに「おっ母さん、元気かい?」というのが挨拶がわりだったことだ。その昔(1960年代、後半)、日ごろの罪亡ぼしに母親を連れ、京都に出掛けたとき、夜の円山公園で出会ったことがあったからだ。

 「もう、とっくにくたばってるよ」となんど云っても、この談志の科白はついぞ変わらなかった。

 談志の残した言葉に「落語は人間の業の肯定である」というのがある。まさに至言!

 人間のあらゆる欲望、そこから逃れられないしがらみを認めなければ、落語の世界はなり立たないということだろう。

 咄の中身だけではく、咄家の芸もまた、、、、、。

 天才、異端者、風雲児、彼を語るときのこれらの言葉はみんな当たっている。しかし、私はあえてシティ・ボーイと呼びたい。落語家にふさわしからぬのを承知の上で、、、、、。

 でなきゃ切れのよい啖呵やバンダナが似合うはずはいし、ディック・ミネのジャズや歌謡曲、ビリー・ワイルダー監督の喜劇映画が好きになるはずない。

 ましてや慎太郎と気脈が通じ、息子に慎太郎という名前をつけるなんてことも、あり得ないもの。

 さようなら、江戸前のシティ・ボーイ。




談志からもらった葉書です。
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