東大阪に司馬遼太郎が居住していた。幾つかの著作のある鄭貴文も住んでいた。鄭貴文が司馬遼太郎と近所付き合いをして、順次鄭貴文の実弟の鄭招文そして『三千里』誌グループもその輪に加わる。司馬遼太郎の幾つかの旅行記に出てくる姜在彦などはその流れで捉えると面白い。そしてそこに重要なのは、朝鮮総聯というか、北朝鮮の対日工作が絡んでくるからだ。
北労党は対日工作の主軸に松本清張を据えていた。その成果が金日成の、朴憲永粛清を正当付けた『北の詩人』である。だが、1968年に北労党が金日成の唯一指導を掲げて、日共の宮本顕治との間に溝ができると、松本清張離れを起こす。それを南牛は目前にする。その頃、萩原遼は代々木に呼ばれる。東大阪の李吉炳から、萩原遼は距離を置かざるを得なくなる。
萩原遼は東大阪の済州島グループから距離を置かざるを得なくなる。吉本とも距離を置いた。
屈折した萩原遼の朝鮮感はそれで形成されていく。萩原遼の幾つかのペンネームは、その屈折した朝鮮感から作られている。