平和都市宣言(つくば市政展望-375) | 安部南牛 | 朝鮮文化資料室

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筑波研究学園都市の概成が整った1982年12月8日、桜村にあった研究交流センター国際会議場で平和都市宣言が採択される。学研労協の福永満男議長などを発起人とする「平和都市宣言採択集会」には100人以上が集まっている。福永議長は組織された労働者こそ、科学技術の軍事利用を辞めさせ、軍事研究を阻止することができる、と高らかに宣言したのである。

この後に行われる桜村の行政へ学研労協は発言力を強化していく。次に谷田部町の行政への口出しを図ろうとするときに、谷田部町農委による福永議長への暴行事件が発生する。だが、松代3丁目に布陣した学研労協茅野徳治事務局長は着々と布陣していく。谷田部町自治労筋から野村文雄職員が出てくる。

佐々淳行の『わが上司後藤田正晴』(文藝春秋、2000年刊)には、後藤田正晴官房長官が旧ソ連圏の対日工作に敏感であったことが記載されている。この82年11月の中曽根内閣で後藤田正晴は官房長官に就任したばかりであった。「竹内君、学研労協の動きは・・・」と就任祝いに駆け付けた後輩にひと言、声を掛ける。

この瞬間から、旧制水戸高校の江戸・後藤田・竹内の学研労協対策トリオが結成されたと見られている。80年代の科学万博開催からつくば市誕生への経緯は、このトリオの動き抜きには考えられない。走狗という表現が許されるならば、渡辺派石浜代貸はトリオの走狗となり、学研労協へ対峙していく。