波瀾万丈の戦後「危機管理外史」を佐々淳行が書いている。佐々淳行は西南戦争で西郷側で戦ったあの熊本藩士の家系なのだろうか?それとも富永健一教授と縁戚なのだろか?と予てから思っていた。
あさま山荘事件は後藤田正晴・佐々淳行とは対極の位置から眺めていた。あさま山荘が陥落した後、知人が京浜安保共闘に関わったことで怯えていた。彼はそ後に某国立大学の教授となって南牛の側去っていった。彼に大丈夫だと言うのが南牛の務めであった。その夫人から、旦那が動揺して困っている、沈めてくれと頼まれたからだ。佐賀藩士族洪氏の家系が自慢であった事で、南牛は佐賀藩に置ける李氏朝鮮人の存在が早稲田大学創設に果たした役割を知った。韓国三星財閥と早稲田大学の関係を洪氏の存在から読んでいる。彼は60台前半、現役の大学教授で亡くなった。気持ちの小さい男であった。夫人は気持ちの大きな女性だった。その夫人も昨年だったか、傘寿で亡くなられた。
後藤田正晴、佐々淳行は、彼を通して身近に感じていた官吏であった。