第二章 養老渓谷駅から小湊鉄道、JRに乗って横浜へ

 

          一

 

 翌日も朝から快晴で、日中の最高気温は三十六度の猛暑日になるようだ。里志と由美子は九時に旅館をチェックアウトして、粟又の滝まで歩いて行った。と言っても階段を下りて行けば、五分くらいの距離である。朝が早いせいか、人影はまばらである。里志は約四十年前に極東石油製油所の仕事で、市原市に駐在していた時に来たことがある。その時は紅葉のシーズンだったので、大勢の観光客が来ていたことを思い出した。粟又の滝に来ると里志が、

「四十年前に見た時の滝の流れや、たくさんの岩があったことなど、あまり変わっていない気がする」

 と言うと、由美子が驚いた口調で、

「えっ! 本当に。里志さんって、そんなに記憶力が良かった?」

「な~にね。実を言うと、粟又の滝に来るということで家にいた時、四十年前の写真を見ておいたのさ」

「そっか、そうだよね」

 と言って、由美子はバッグからスマホを取り出すと、若い二人連れのうち女性のほうが声を掛けて来た。

「奥様、よろしかったら私が撮ってあげましょうか」

 と、奥様と言われれば由美子は悪い気がしない。すぐに、

「そうですか。それじゃ、主人と一緒にお願いしますわ」

 と言って、由美子はスマホをカメラ画面にして、その女性に渡した。里志と由美子が粟又の滝をバックに並ぶと女性が、

「中々、いいわ。はい! チーズ」

 と言ったので、男のほうは傍らでにっこりと微笑んでいた。里志と由美子は、女性に写真を撮ってもらったので、女性からスマホを受け取ると由美子が、

「どうもありがとう。今度は私が、あなたたちを撮ってあげましょうか」

 と言った。すると女性のほうがスマホを取り出し、同じようにカメラ画面にして由美子に渡した。若い二人も里志と由美子と同じように、粟又の滝をバックに写真を撮ってもらった。由美子がスマホを女性に返すと、

「奥様、ありがとうございました。私たちは夏休みで昨日、大宮から来ました」

「まあ、そうなの。私と主人は横浜の上大岡から来ました。これからバスに乗って、養老渓谷駅に行く予定なの」

 と言うと、女性が連れの男に声を掛けた。

「隆行さん。私たちは九十九里浜に行くのだから、車で養老渓谷駅まで送ってあげましょうよ」

「うん。僕のほうは構わないよ。それじゃ、奥さんとご主人、ご一緒にどうでしょうか?」

 と言われたので、由美子はますます嬉しくなり、

「まあ、里志さん。若い人たちが、そう言ってくださるのだから、お願いしましょうよ」

 と由美子に言われてしまえば、里志は断るわけにもいかず、

「よし、そうしよう。高齢者は黙って従うのが礼儀というものだ」

「それじゃ、あなたたちお願いね。せっかくですから自己紹介をさせていただきますわ。名前は西野由美子で、まだ高齢者になるのは先のことです」

 と言ったところで里志が、

「今の会話で分かるように西野里志です」

「あれ、里志さん。もう終わりなの?」

「だって、由美子が全部しゃべったもの」

「そうだったかしら?」

 里志と由美子の会話を聞いていた若い二人は、顔を見合わせて笑っていた。それから男のほうが、

「それでは先に僕のほうから紹介します。名前は吉川隆行、三十五歳です。高校の教師で日本史と世界史を教えています」

 と言うと今度は女性のほうが、

「私の名前は大谷弘子、三十歳です。仕事はデパートに勤めています。それでは西野さん。駐車場まで行きましょうか」

 と言ったので、里志と由美子は若い二人の後ろについて行った。

 

 駐車場に着くと、隆行と弘子が運転手席に、里志と由美子は後部座席に腰掛けた。隆行が車を発進させると由美子が

「申し訳ないわね。あなたたちのお邪魔をして。養老渓谷駅行きのバスが十一時二十分なのよ。お陰さまで助かったわ」

 と言うと弘子が、

「私たちも素敵なご夫婦と、お会いできて良かったわ。ねえ、隆行さん」

「そうです、西野さん。実を言うと僕には父が、そして弘子には母がいないのです。ご夫婦の中の良い会話を聞いて、とても感心しています」

「まあ、そうなの。こんな年寄りの話を聞いてくださって、嬉しいのは私たちだわ。ねえ、里志さん」

 と、また由美子に言われては、話を合わせるしかない里志は、

「そうです、吉川さんと大谷さん。私たちの息子と娘は、すでに結婚して別々に暮らしています。今日は若い人たちとお話しできて良かったです」

 と言った。暫くしてから由美子が、

「私たちは昨日、上総国分尼寺跡と国分寺、泰安寺、あとは上総牛久にある丸山公園などに行きましたが、あなたたちはどちらに行かれましたの?」

 と訊くと、弘子が暫く考えてから、

「私たちも上総国分尼寺跡と国分寺に行きましたわ。それから朝市が開催されている上総牛久に行って、野菜と果物をたくさん買いました。あとは高滝湖の市原湖畔美術館と飯給駅の世界一のトイレ、最後にN極とS極逆転の場所にも行きました」

 と言うと由美子が、

「まあ、そうなの。車だとたくさん行けるわね。私たちも今日はあなたたちと同じように、まずN極とS極逆転の場所に行く。それから何という駅だったかしら、世界一のトイレがある飯給駅。それから高滝湖にある市原湖畔美術館だわ。あなたたちと見る順番が逆転してしまいましたわね」

 と言ったところで里志と隆行、弘子は大笑いしていた。笑いが収まると弘子が、

「素敵なご夫婦だから、きっと養老渓谷駅の三匹の猫が、お出迎えにゃんですわ」

 と言ったので、今度は由美子と里志、隆行が笑っていた。そういうことで、おしゃべりの由美子と弘子は、すっかり意気投合したようだ。

その後も彼女たちは、養老渓谷駅まで会話が続き、里志と隆行は専ら聞き役に回っていた。養老渓谷駅に近付いたところで隆行が、

「もうすぐ養老渓谷駅に着きます。駅の前まで行きますから」

 と言ったので由美子が、

「お陰さまで助かりましたわ。予定より二時間も早く着いたので、ゆっくり観光できるわ」

 と言うと里志も、

「そうだね。これで市原湖畔美術館の見学に余裕が出たようだ」

 と言った時に、車は養老渓谷駅前に着いた。隆行が車を駅前に停めると、

「それじゃ、西野さん。僕たちはこれで」

 と言うと弘子も、

「西野さん。お話しできて楽しかったです。よろしかったら私の携帯電話番号はこれです」

 と言って、メモを由美子に渡した。由美子はメモを受け取ると、

「まあ、嬉しいわ。早速、大谷さんのスマホに電話するわね」

 と言って、由美子はスマホを取り出し、弘子のスマホに電話した。弘子は電話が鳴ったのを確認すると、

「西野さん。家に帰ったら電話するようにしますわ」

 最後に里志が、

「吉川さんと大谷さん。本当に今日はありがとうございました」

 と言って、由美子と一緒に車を降りた。隆行が一礼してから車を発進させると、弘子も一礼した。そして、若い二人を見送るように里志と由美子も軽く頭を下げ、手を振っていた。それから車が見えなくなると由美子が、

「あの人たちのお陰で時間に余裕が出たわ。せっかくだから猫ちゃんの写真を撮りましょうよ」

 と言って、由美子はバッグからスマホを取り出した。里志は黙って見ていたが、由美子が写真を撮り終ると、月崎駅までの乗車券を二枚買った。そして由美子に乗車券を渡すと、

「養老渓谷駅の発車が九時五十八分だから、あと十五分くらいある。まずはコンビニでおにぎりとお茶を買ってからだね」

 コンビニで買い物を済ませると、二人はプラットホームに入って行き、五井駅行きの列車に乗った。

 

          二

 

 左座席に腰掛けると由美子が、

「それで養老渓谷駅メロは、舟木一夫の修学旅行と書いてあるわ。そして上総大久保駅メロは、モンキーズの恋の終列車で、月崎駅メロが、スプートニクスの空の終列車と北島三郎の夜汽車だって」

「あれ、五井駅を出発点として駅メロを決めてあるから、養老渓谷駅から乗ると先に終列車が出てきちゃった」

「本当だわ。駅メロまで逆転してしまいましたわね」

 と言って、由美子が笑った時に列車が発車した。今度は里志が、

「月崎駅は二つ目だから、八分後に着くようだ。磁場逆転の場所までマップで検索すると、約二、五キロメートルある。暑い中、四十分も歩くのはつらいから、駅にある貸自転車で行こう」

「でも、びっくりしたわ。磁場逆転の場所というのは、世界で二カ所しか発見されていないのね。あとの一カ所はイタリアにあるそうよ」

「こうして小湊鉄道に乗ってみると、意外に観光場所があるね。みんな『各駅停話』を読んだおかげだ」

 と言って、二人はYOU TUBEで磁場逆転の動画を検索した。月崎駅に着くと、二人は自転車を借りて、磁場逆転の場所に向かった。暑い日差しの中、自転車をこぐこと十五分ほどで田淵会館に着いた。田淵会館左側の細い道に入り、三分ほど行ったところで二人は自転車を降りた。

 自転車を停めてから鍵を掛け、持って来た長靴に履き替えた。それから二人は歩いて養老川に下りて行った。すでに観光客が十人ほど来ており、二人は会うたびに軽い会釈を繰り返した。地場逆転の場所に着いて、いざ見上げてみても、さほどの感激は訪れてこなかった。それも無理からぬこと、二人とも地質学のことなどは、何も分からないのだから。ただN極とS極が長い地球の歴史において、磁場が逆転するということ。単純な二人は、壁面に取り付けてある緑、赤、黄色のタグに、これから起きるはずもない“人生の逆転”を、お祈りした。

 それから二人は自転車を停めた場所に戻り、長靴をザックに入れ、スニーカーに履き替えた。また二人は自転車に乗り、暑い中をゆっくりとこぎ始めた。田舎の田園風景を満喫しながら、自転車をこいで行くと暑さも忘れるほどの快適さだった。二人は月崎駅に戻り、自転車を返した。里志が腕時計を見ると、十一時半を過ぎていたので、

「由美子さん。次の列車は十二時二十四分発だから、木陰に入っておにぎりを食べよう」 

「そうね。自転車に乗っていた時は、爽やかな風を体に受けていたから快適だったのよね。こういう時は木蔭で休むのが一番だわ」

 と言って、二人は木蔭のある場所に行った。ビニールシートを敷いて、おにぎりと冷たいお茶だけの昼食が済むと里志が、

「こうして夏の暑い日に、木陰で昼食を摂っていると田舎にいた時、両親や兄と一緒に畑に行ったことを思い出すな。採れたてのトマトや胡瓜は、そのまま食べたが、さすがにスイカは生ぬるくて、まずかったような記憶がある」

「そうなの。私の家はサラリーマンだったから、夏は家族で海や山に行っていたわ。今日は私と里志さんで夏の日の恋だわ」

 と言って由美子が笑うと里志も、

「いやー、この暑い日にそんな名曲が出るとは思わなかったよ。よし、早速YOU TUBEで聴こう」

 と言って、スマホをポケットから取り出した。すると由美子が、

「里志さん、イヤホンを使わないで、私も一緒に訊きたいから」

 と言った。夏の日の恋を聴いてから、クリフ・リチャードのサマー・ホリディやラヴィン・スプーンフルのサマー・イン・ザ・シティなどを聴いていた。

 

 それから二人はスマホを閉じて月崎駅に行き、飯給駅までの乗車券を買った。プラットホームに入って行くと、すぐに五井駅の列車が来た。列車に乗って左座席に腰掛けると由美子が、

「次の飯給駅メロは、三橋美智也の哀愁列車だわ。里志さん、懐かし過ぎて涙が出てくるのでは」

「そうだな。両親はラジオで良く聞いていたと思う。自分は専ら東映の時代劇だったね」

「そうよね。TVが普及される前は、ラジオを聞くか映画館に行くことだったもの」

 と、昔話をしている間に飯給駅に着いた。駅舎を出ると里志が、

「由美子さん。世界一大きな女性用トイレがあるから、ゆっくりと行って来てください。自分は一般用のトイレに行ってから、駅舎で待っています」

 と言ったので、由美子は日傘を差してから、

「そのように丁寧に言われると、困っちゃうわ、デートに誘われて、なんちゃって」

 と言って、由美子は世界一大きなトイレがある場所に向かった。由美子が戻って来ると里志は、

「どうでした? 由美子さん。世界一の貴婦人になられた感想は?」

「まあ、里志さん。私をからかったりして。でも、快適だったわ。これも楽しい夏の日の思い出よね」

「次の列車は十四時十七分発だから、まだ一時間もある。駅の反対側に白山神社があるから、そこまで散歩して来よう」

 と言うことになり、二人は暑い中、日傘を差して白山神社に向かった。二人は白山神社を参拝後、少し木蔭で涼んでから飯給駅に戻って来た。

 

          三

 

 二人は高滝駅までの乗車券を買って、プラットホームに入って行った。それから五分後に列車が来たので、二人は列車に乗った。空いている右座席に腰掛けると、すぐに列車は発車した。先に由美子がブログを見ながら、

「次の里見駅メロは、リトル・エヴァのロコ・モーションだわ。そして高滝駅メロは岡元敦郎の高原列車は行くだって。私は二曲とも知らないわ」

「自分もあまり良く知らないよ。歌を聴けば思い出すかもしれない。それじゃ、高滝駅で降りたら、YOU TUBEで検索してみよう。その前にブログを読み直しておこうか」

「それなら私は、市原湖畔美術館を調べておこうかしら」

 と言って、二人はスマホで検索を始めた。しかしながら、ろくに読まないうちに、列車は高滝駅に着いた。

 高滝駅を出た二人は、マップを頼りに暑い中、日傘を差して高滝湖を目指した。市原湖畔美術館に行く橋のたもとに着くと里志が、

「由美子さん。ここでひと休みしよう。そして、ロコ・モーションと高原列車は行くを聴いてから行けばいい」

「それで五井駅行きの列車は、高滝駅十六時二十三分発だから、まだ二時間近くあるわね。湖があるせいか、午後二時半でも涼しく感じられるわ」

 と言って、今度は由美子がスマホを取り出して、まずロコ・モーションから聴き始めた。少し聴いたところで里志が、

「あれ、その歌は携帯電話のコマーシャルでやっていたね」

「そう、私も聴いたことがあるわ」

「そうか。やはり昔、ヒットした歌というのは、メロディがいいのだろう。次は高原列車は行くだ」

 と言うように、二人は二曲を聴き終わると、日傘を差して橋を渡り始めた。それから十分後に市原湖畔美術館に着くと、入館料(大人五百円)を払い、中に入って行った。今は夏休みということで、企画展“小沢剛(つよし)とゾウ館長からの夏休みのしゅくだい”が開催されている。現代美術家の作品や小沢剛の代表作“ペジタブル・ウェポン”などのほか、小学生が描いた原子力啓発ポスターが展示されていた。

 館内は冷房がほどよく効いており、暑い日射しの中を歩いて来た二人にとっては、極楽にいるような快適さだった。木蔭で音楽を聴き、冷房が効いた館内で絵画を見学できるとは、これ以上ない贅沢だなんて里志が思っていると由美子が、

「里志さん。次の高滝駅の発車が十六時二十三分だから、あと四十分くらいだわ。そろそろ行きましょうか」

「うん、そうしよう」

 と言って、二人は市原湖畔美術館を出た。日傘を差しながら高滝湖に来ると由美子が、

「真昼の時よりも、幾分か涼しいような気がするわ。これでも高原にある虹色の湖ね」

「今日は、いろいろとヒット曲が出てくるね。それじゃ、ボブ・ディランの風に吹かれて高滝駅まで、ウォーク・ライト・イン(いけいけドンドン)だ」

 それから橋を渡って山道を歩き、高滝駅に着いた時は発車の五分前だった。

 

          四

 

 二人は五井駅までの乗車券を買って、プラットホームに入って行った。すぐに列車が来たので、二人は列車に乗った。列車内は空いており、二人は右座席に腰掛けた。列車が発車すると由美子が、

「五井駅に着くのが十七時六分だわ。上りの列車は何時かしら?」

 と言って、バッグからスマホを取り出した。里志もポケットからスマホを取り出したが列車ではなく、駅メロのブログを見るためだった。由美子が先に検索が終わったので、

「五井駅発十七時二十四分があるけど千葉駅止まりだわ。千葉駅で乗り換えるには、十七時五十九分発の大船駅行きがあるわ。品川駅に着くのが十八時四十六分だから、上大岡駅には十九時半頃に着くようね」

「上大岡駅に着いたら、スーパーで弁当を買って帰れば、ちょうどいいね」

 里志が言った。今度は里志が駅メロのブログを見ながら、

「上総久保駅メロは、アメリカ民謡の線路は続くよ、どこまでもと書いてあるけど、この歌は子供の時に聴いたことがある。それから上総鶴舞駅メロは、アルマ・コーガンの恋の汽車ポッポで、上総川間駅メロは、ニール・セダカの恋の一番列車と書いてある。この二曲は多分、知らないと思う」

「そうすると私たちは、五曲くらい知らないということね」

「まあ、そんなところでいいのでは。それよりも夏の日の恋とかサマー・ホリディ、虹色の湖、風に吹かれてなどの歌が出てきたのだから、素敵な旅行だったよ」

「これも、ある人がブログで思いつくままに、駅メロが書いてあったからだわ」

「そうだね。その勢いに押されて、俺たちもヒット曲を思い出したし、スマホで懐かしい歌を聴けたのだから」

 そうこうしているうちに、列車が千葉駅に着いたので二人は列車を降りて、総武線と横須賀線の快速ホームに行った。列車は千葉駅始発なので車内は空いていた。二人は右座席に腰掛けると里志が、

「今、思い出したけど、五井や袖ケ浦に日帰り出張の時、この列車に乗ったことがあった。当時はスマホがない時代だったから、小説を読んでいたな」

「そうなの。せっかくスマホを持っているのだから、今度は電子書籍に挑戦しなくては」

「よし、それじゃ、早速、電子書籍のアプリを入れておこう」

 と言った時に列車が発車した。それから二人は、スマホで昨日と今日、見学した場所をネットで検索していたが、船橋駅を過ぎた辺りで心地良い眠りに誘われた。

その3に続く。