この前のブログにマスターの同期からもらったコメント

「宗教に入っていたことを恥じる必要もないし、自分が入っていた宗教を恥じることもないのかな?」

マスターの講師、サトーさんからもワーク中か何かの時に

「エホバの証人でなくてもいい、エホバの証人でもいい」だったかな?

そんな意味のことを言われた。


この二つは私の考え方の偏りを教えてくれた。


私にとって宗教は、人生の貴重な時間や機会を奪ったもの、許し難いもの、人から後ろ指を指されるような恥ずかしいもの、憎しみの対象でしかなかった。

そうやって「エホバの証人」を否定することは、自分が人生の多くの時間を費やして取り組んできたことを否定することになる。

自分を否定することになる。

だから苦しいのだと気付いた。




この宗教で「救われた」という人もいるだろう。

この宗教を熱心に広めて多くの人が「滅ぼされる」のを防ごうとしている人もいるだろう。

現実離れしたことを信じる恥ずかしい宗教と思わない人もいるだろう。

自分たちだけが救われることに罪悪感を持たない人もいるだろう。

人それぞれに価値観があって「エホバの証人」が良いと思う人もいるのだ。

何を大事にして生きるかはその人が決めることだ。




私は自分の人生を狂わせた「エホバの証人」の宗教は「間違い」だと思ってきた。

でも、マスターで教わったように「間違い」ではなく価値観の「違い」なのだと理解することにした。

そう考えたほうがこれまでの自分を大事にできるし、「エホバの証人」であることを大事にしている母親や妹夫婦とも仲良くやって行ける。



「エホバの証人」でもいい。 

 嫌って辞めてもいい。

 どっちでもいい。



これからは「変な宗教」ではなく「少し変わった宗教」と少し表現を和らげて話すことにしよう。

そうすればこれまでの自分を否定せず、今の生き辛さを少し軽くすることが出来ると思う。