小編第346作「パトロール」 | あべせいのブログ

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楽しく、愉快で、少しもためにならないお噺。

パトロール

                       亜米青

 

 深夜。

 徒歩でパトロール中の警察官が、道路わきの月極め駐車場に入った。

 駐車場に止まっている車の中に、女性の姿を見つけたからだ。女性の車は、30数台分の駐車スペースがある駐車場の、最も車道寄りにある。

「もしもし、ここで何を……」

「わたし?」

 そのとき、運転席にいる女性の顔が、車道を走る車のライトで浮かび上がった。

 「そ、そォ、キミ……、いや失礼、あなた、ここで何をなさっておられるのですか?」

 驚くほどの美形だ。警官は途端に緊張して、ことばを改めた。

 「わたし、待っているンです。いけませんか?」

 「いいえ、いけないなんて。そんなことはありません。恐れ入りますが、免許証を拝見させてください」

 警官は、女性の名前が知りたくなった。職質を利用したプライバシー侵害……。彼の場合は、間々あることなのだが。

 すると、女性は、

 「警察手帳をみせてください」

 当然だろう。警察官の制服を着ていても、偽者だってこともありうる。

 ふだんならヘソを曲げる要求だが、警官は美女を前にして、気分を害するどころか、うれしくなって警察手帳を示す。

 そして、余計なことに、

 「私は、赤塚署地域警邏課の湯河剛志(ゆかわたかし)です」

 「湯河さん。いい男ね……」

 女性は、うっとりしたようなしぐさを加えて応える。

 しかし、湯河はその一言で、平常心を取り戻した。「いい男」なんて、キャバクラでしか言われたことがないから。

 「お嬢さん。もう一度お願いします。免許証を拝見させてください」

 女性はちょっと悔しそうなそぶりをしてから、

 「わたし、免許証は持っていません」

 と言い、ニッコリして湯河を見つめた。

 湯河は美女の笑顔に、怯んだ。これ以上、女性を責めることはできない。しかし、職務上、無免許の者を見逃すことは出来ない。

 「無免許で運転なさっているということですか」

 「わたし、運転はしていません。昔、免許をとろうとしたことはあったけれど……」

 女性は何かを思い出すように、フロントガラス越しに、夜空を見上げた。

 月が出ている。満月だ。星が無数に天空を覆い、キラキラとまたたいている。ここは、東京郊外、空気がきれいな土地だ。

 今夜はいいことがありそう。女性はそんな気分になった。

 「お嬢さん、運転はしない、っておっしゃっておられますが、運転席におられますよ」

 湯河は、警戒する必要があると考え、少し身構えた。

 「この車はわたしのじゃありません。わたし、待っているンです」

 「どなたを、ですか?」

 「ですから、この車の持ち主」

 「……ということは?」

 「そういうことです。男の方と、ここで、この車の中で、待ち合わせたのです」

 ここは、都心ではない。都県境がすぐそばを走り、東京23区のなかでも格段に辺鄙な場所だ。しかも、周りには何もない、月極め駐車場だ。約30台の駐車スペースがあるが、その周囲は畑が広がる。

 「しかし……、このような寂しいところで、恋人と待ち合わせているとおっしゃるのですか?」

 湯河はわざと踏み込んだ質問をした。

 「そうでしょうか。わたしはそのようには思わずに、言われたまま、ここに来ただけなのです。よくわかりません」

 女性は湯河の問いをはぐらかして、答える。それとも、パトロールの警官と思ってバカにしているのか。

 湯河は、女性に対する予見を抱いた。彼女は犯罪者ではないか、と。

 「ここに来られたとき、車のドアはロックされていましたか?」

 「勿論……」

 「ちょっと失礼します」

 湯河は顔を運転席の窓ガラスに近づけ、ほの少し開いている窓ガラスのすき間越しに車内を覗く。

 あまり、姿のいいものではない。湯河はこの手の捜索は苦手だ。女性が窓ガラスをもう少し、あと5、6センチ下げてくれればいいのだが……。

 車のキーは差込口に見当たらない。

 「車のカギはどこですか?」

 「ここに持っています」

 女性はそう言って、助手席にあったバッグを開け、キーを取り出してみせた。

 「では、そのカギで、ロックされていたドアを開けたということでしょうか?」

 女性は、ちょっと嫌な気分になった。細かいことを尋ねる警官だ、と。警察官の仕事って、こんなものなのだろうが……。

 女性は過去を振り返り、警官とはつきあわないでおこうと考えているが、この程度は許容範囲内しておくべきかと、ふと思った。

 「いいえ、ドアはロックされていませんでした」

 「しかし、さきほど、ドアはロックされていたと……」

 「ロックされていたのは、運転席側のドアで、助手席のドアはロックされていませんでした」

 この警官のおつむはこの程度なのか。女性は、見込み違いをしたのか、と思うとやりきれなくなった。

 「では、そのキーは……」

 「助手席のシートの下にあったのです」

 女性は、そう言ってから、警官の目をジーと見つめた。好意ではない。彼の頭脳の働きを見極めるためだ。

 しかし、湯河は、彼女の色っぽい視線に、心が奪われていく予感を覚える。

 「前に友人から聞いたことがあります。レンタカー会社では、たくさんある車のキーを管理する煩わしさから、運転席のドアはロックして、助手席はロックしない。キーは助手席のシートの下に隠しておく、と。そうすれば、すぐに車が動かせるから……」

 警官のことばに、女性の眼がキラッと光った。

 「湯河さん。あなた、わたしのタイプだわ」

 湯河は思わず、咳き込んだ。こんな美女に好意を寄せられたことがない。しかし、一方で、もうすぐ零時になる、妙なことにならないように、と自戒が蘇る。

 そして、交番にいるもうひとりの警察官の嫌味な横顔がよぎった。同時に、ひとりでパトロールに出てよかった、との思いも。

 「お嬢さん、お名前がわかるものを何か、お持ちではないでしょうか?」

 女性の身元を確かめないと、どうにもならない。湯河は、ふだんの仕事の気分を取り戻した。職質だ。

 車は「わ」ナンバーではない。排気量1200ccの大衆車だ。

 「わたしの名前ですか……」

 女性はゆっくりと、辺りに視線を泳がせる。そのしぐさがたまらなく色っぽい。

 彼女はいくつだろうか。湯河は、交番の同僚から聞いた、1年に1度あるかないかの深夜パトロールの幸運を感じている。

 湯河は、26才。彼女は24、5才にしか見えない。

 「わたし、川瀬山茶花(かわせさざんか)と言います」

 「川瀬、山茶花さん、すてきな名前だ」

 湯河の口から思わず、出たことばだ。しかし、まだ油断は出来ない。

 「名刺か社員章はお持ちではないですか?」

 「わたし……主婦です」

 「エッ!?」

 湯河は愕然とした。結婚しているのかッ。

 では、待っている相手というのは、彼女の夫……。

 「失礼しました。ご主人とのお約束は、何時ですか。こんな夜更けですから、不測の事態も考えられます……」

 ちょっと行き過ぎだろう。しかし、湯河は、山茶花の色香に惑わされ、職分を超えていることが自覚できない。

 「いいえ。わたしが待ち合わせているのは、そういう方ではありません……」

 山茶花はそう言って、含み笑いを見せた。

 「エッー……」

 やはり、相手は恋人か。

 不倫は犯罪ではない。江戸時代ならいざ知らず、男女がいつ、どこで、だれと愛し合おうと警察の関知するところではない。一夜限りの恋だって、ある。

 それはわかっている。しかし、だ。これほどの美女の心を掴ンでいる男に対して、湯河は激しい嫉妬を覚えた。

 「湯河さん。誤解なさっておられるようですが、わたしの夫は昨年秋、重い病で亡くなりました」

 山茶花は、ふっと視線をそらした。目頭に、キラッと光るものが……。

 ロストシングルなら、どこでだれと恋をしようが、だれはばかることもない。

 湯河は、おのれの失態を強く恥じた。だから、おれは女にもてないンだッ、と。もう、彼女にかまわずに、ここを立ち去ろう。

 「失礼しました」

 湯河は、体を15度に傾け、山茶花に対して敬礼すると、踝を返す。

 そのとき、湯河の鼻腔に、ふっと甘い香りが……。これは、捨てて置けない。

 湯河は振り返ると、再び、運転席に顔を近づける。

 「お嬢さん。窓をもう少し、開けていただけませんか?」

 「どうして?」

 山茶花は、親しげに尋ねる。

 「お酒をめしあがっておられませんか?」

 「はい。少し……」

 山茶花は悪びれずに答える。

 湯河は、どう返答していいのか。迷った。

 「いけません? わたし、お酒が大好きなンです」

 「好きはいいのですが……」

 待ち合わせの男性が酒を飲んで現われた場合、車の運転をさせることはできない。すると、女性と男性は、男性の体内からアルコールが消えるまで、この駐車場から出ることは出来ない。いや、そこまでは考え過ぎだろう。

 しかし、……、そもそも、こんなところで待ち合わせる、っていうのがおかしい。そんな待ち合わせって、あるだろうか。

 彼女と待ち合わせるのなら、この車の中で待てばいい。彼女が現われるまでに急用ができたのなら、彼女に連絡して待ち合わせ時間を変更すればいい。携帯電話がある時代だ。

 湯河は、山茶花の話が理屈に合わないことに、ようやく思い至った。

 しかし、これ以上、この美女を問い詰める必要があるだろうか。職質の範囲を超えてはいないか。

 湯河が交番勤務になったのは、先月からだ。しかし、4ヵ月後には、異動が決まっている。次は刑事課。警邏課の前は交通課だった。

 キャリアではないが、問題を起こさなければ、5年後には警部補が約束されている。

 パトロールの仕方は、先輩から教わった。しかし、その先輩は今夜も体調が悪いといって、交番の仮眠室でテレビを見ている。それを責めるつもりはない。

 パトロールは2時間。駅前から始め、徒歩で住宅街を巡る。

 今夜のパトロールは始めたばかりだ。2時間後、もう一度、ここに来て、そのとき、彼女の動静を確認する手もある。

 湯河はそう考え、

 「お気をつけて。失礼します」

 敬礼して、踝を返した。

 「待って……」

 女性の声に、

 「ハイッ」

 湯河は、さきほどの決意など知ったことか、と言いたげに、再びくるりと振り返った。

 「なんでしょうか。山茶花さん」

 こんなときに、職質の相手を、名前で呼ぶ、しかも、下の名前で。

 おまえはバカか、と上司が知れば、確実に叱責することを湯河は自覚せずにやっている。

 「湯河さん、お願いがあります」

 「ハイッ、なんでしょうか。わたしに出来ることなら、なんでもおっしゃってください」

 湯河は完全に職務を忘却している。

 時刻は零時を回り、日付けが変わった。

 女性は、ドアを開ける。

 湯河は驚いて、ドアから離れ、彼女が車から出るのを待った。

 女性は、湯河の前に立った。かなりの長身だ。湯河より数センチ高い。ヒールのせいもあるが、スリムでスタイルもいい。

 「運転してくださいませんか?」

 エッ!?

 「もう一度、おっしゃってください」

 聞き違いだろう。そうに違いない。

 しかし、彼女は、嫣然として、

 「わたしは悪い女です。わたしは車の運転はできません。お願いします」

 と言い、眼を伏せた。

 その弱々しい仕草に、湯河は激しく魂を揺さぶられた。

 もう理性なンか、どうでもいい。仕事も職場も、眼中から消えそうになった。

 「しかし……」

 いまは職務中だ。しかし、これほどの美女と夜のドライブができるのなら、こんな楽しいことはない。

 パトロールは本来2人で行う。しかし、もうひとりの、年配の高崎巡査長が交番で休んでいる今夜は、却って好都合だ。もし、高崎巡査長がいれば、こんな美女と長話は出来ない。

 高崎なら、こんなときどうするだろう。湯河は想像する。高崎は、職質を名目に、美女のプライバシーを根掘り葉掘り聞き出す。じくりじくり、と。

 彼には前科がある。深夜、ボーイフレンドと公園にいた女子高生を交番に連れ込み、必要以上に質問責めした。その場から追い払われて腹を立てたボーイフレンドが、女子高生の両親に急報。両親が交番に駆けつけたことから、高崎の行き過ぎは未然に防がれた。

 湯河が彼とコンビを組む前のことで、伝聞だが、大筋に間違いはないだろう。湯河には高崎巡査長の日頃の言動に接していて、わかるのだ。

 彼には家庭がある。6つ年上の妻と10才の長男を頭に4人のこどもがいる。

 年上の女房は金の草鞋を履いてでも探せ、ということわざがあるが、6つは年上過ぎる。しかし、当人は結婚した当初、親しい同僚には、「家に掃除、洗濯をしに来るンだ。追い出すわけにもいかないから、デキちまった」と言っていたそうだ。

 いわゆる押しかけ女房。高崎巡査長はモテるタイプではない。獅子頭のような顔で、頭も鼻もでかい。女房はバツイチ。子連れではなかったようで、高崎巡査長の間には、年子ばかり4人のこどもが立て続けにできた。

 仲がいいのだろうが、ひと段落した3年前からは、女房のことをよく言わなくなった。

 機嫌のいいときで、「うちの古女房」、ふだんは「うちの古漬け」、機嫌がよくないときは「うちの味噌樽」「うちのバカ樽」と続く。結婚してから、むくむくと膨らみ、かなり太っちょになったらしい。

 高崎巡査長が、後輩がまたとない美女と話している、このうらやむべき光景を目撃したら、どうでるか。

 湯河はようやく考えをまとめた。

 「いいです。で、どちらに行きますか?」

 「心配しないで、5分ほどだから。あなたのパトロール範囲……」

 湯河は、帽子と上着を脱ぎハンドルを握った。外からは、警官とは気付かれない。まして、深夜だ。人っこひとり、通らない道路だ。

「ナビの通りに……」

 女性はそう言って、計器板の隣にあるナビ画面を指先で操作した。

 車は駐車場を出た。

「湯河さん。運転しながら、聞いてください」

「はい」

 湯河は、改まった女性のことばに、神経を集中させる。

 「わたしは、湯川さんがほぼ一日おきに、あの駐車場の前の通りをパトロールなさっておられることを存じ上げています」

 エッ! 湯河は思わず、助手席の山茶花を見た。彼女の表情に変化はない。まっすぐに前を見つめている。

 「わたしの夫は、川瀬耕平(かわせこうへい)といいます」

 「川瀬耕平……待ってください」

 聞いた名前だ。

 車は路線バスが通る道に出た。まっすぐ進むと、国道になる。

 半年ほど前。湯河がいまも詰めている交番に、拾得物の届けがあった。

 湯河が交番に入るのは、それが初めてで、着任してまだ日は浅かった。

「これがそこの角に落ちていました」

 と言って、男性が交番入ってきた。それが川瀬耕平だった。

 湯河は、デスクの前に腰をおろし、拾得物の管理ノートを取り出した。

 通常の手続きをするためだ。川瀬が示したのは、ピンク色のスマホ。数種のトラップが付いていて、トラップの先には、子犬や子猫のマスコットが邪魔になると思われるほど括りつけてあった。

 「どうぞ、おかけください」

 湯河が男性に、備え付けのパイプ椅子に腰かけるよう勧めたときだった。

 「お巡りさん!」

 と叫びながら、少女が駆け込んできた。

 制服と顔かたちから、女子高生とわかる。交番から徒歩2分のところに、都立高校がある。

 川瀬は女子高生を見た。2人の視線がぶつかりあった。

 「アッ、こいつ!」

 女子高生はそう言って、男性が持つスマホを見ると、

 「それ、返して! 盗ったでしょ」

 その一言で、その場の空気は一変した。

 勿論、川瀬は否定する。

 事件は、交番の先を左に入った細い道で起きた。男が背後から女子高生を襲った。彼女は陸上選手で体力には自信があった。男を振り払ったが、勢いあまって転倒。その拍子に、手にしていたスマホが路上に落ちた。彼女はそれに気付かず、逃げる男を追いかけた。

 結局、彼女は男を見失い、スマホがないことに気がついた。遺失物届けを出そうと思い、交番の前まで来ると、ガラス戸越しに彼女のスマホを手にした男性が見えた。その途端、彼女は怒りが噴出して、中に駆けこんだ。彼女を襲った男が我が物顔にスマホを取り出し、警官に訴えている風に見えたのだ。

 女子高生の誤解はすぐに解けた。さらに、彼女は襲われた際、スマホをいじっていたことから、咄嗟に背後に向け、カメラのシャッターを切っていた。

 女子高生を襲った犯人は、スマホの写真が決め手となり逮捕された。

 事件は解決した。しかし、思いがけない余波が。

 その女子高生、葛城真智(かつらぎまち)が、その男性、川瀬に恋をした。

 川瀬には結婚まもない妻、山茶花がいる。

 交番でのやりとりで、真智は川瀬の名前を知ったが、住所などは知らなかった。

 しかし、次第に川瀬に対する思いを募らせた真智は、もう一度会いたいと思いつめ、交番の湯河を頼った。

 湯河は交番の連絡簿に、川瀬の住所と電話番号を記していた。

 湯河は、

 「あのときのお詫びがしたい」

 と言う真智のことばを信じて、川瀬耕平の連絡先を教えた。

 最初は川瀬の自宅前に制服姿で現れ、出勤する耕平を捕まえた。

 「是非、お詫びをさせてください」

 耕平はそう言う真智を軽くあしらった。

 「もうすんだことで、ぼくは気にしていない」

 しかし、真智は耕平の後について、最寄駅まで行った。そこで諦めるのかと思ったら、真智は入場券を買って耕平のそばにぴったりよりそった。

 耕平は勤務先を知られることを恐れた。

 「こうしましょう。勤務後にお話をうかがいます」

 と言い、その駅から10分ほどのファミレスを指定した。

 真智は承知した。

 耕平は、うれしそうに、来た道を戻る真智に、

「放課後、私服で来てください」

 と言い添えた。

 ところが、耕平の気持ちが変わった。

 耕平の職業は、桜田門にある警視庁総務部の警察行政職員。現場仕事の警察官ではない。専ら、総務部で事務仕事に従事している。

 警視庁に勤務する者が、昼日中、女子高生と2人きりで会うことに違和感を抱いた。

 まして指定したファミレスは、自宅の近隣住民も利用する。誤解される恐れは十分にある。

 耕平は約束の時刻になると、そのファミレスに電話をかけ、真智を呼び出した。

 「急用があってそちらに行けません。あなたの気持ちは十分理解しています。いつまでもお元気でお過ごし下さい」

 耕平はこれだけの内容を数分かけて伝えた。真智は「困ります」「会ってください」「話を聞いてください」と言ったが、最後は、耕平が一方的に電話を切る形になった。

 耕平はそれで終わると思った。

 しかし、翌日も翌々日も、真智は出勤する耕平を、最寄り駅までの途中で待ち受けている。耕平は無視して先を急ぐ。真智は、無言で後をついていく。

 その光景はすぐに近隣の噂になった。耕平の妻山茶花の耳に入る。山茶花は、女子高生が夫の住所をどのようにして知ったのか。そこに疑問を持った。しかし、耕平に質すことはしなかった。彼女はそういう女だった。

 やがて、事態はさらに悪化した。

 真智は耕平の勤務先を知り、制服のまま警視庁までついてくるようになった。勿論、社内には入れない。立ち番の警察官に追い返される。

 女子高生が耕平の数歩後からついてくる光景は、すぐに庁内で噂になった。

 耕平は上司の課長から、

 「女子高生にストーカーされているらしいが、うまく処理したまえ」

 と、叱責された。

 課長といっても同期。上に取り入るのがうまく、出世が早い。日頃、何かにつけて、耕平をいびる癖がある。つまるところ、耕平の妻が美形すぎるため、妬んでいた。

 耕平は妻に害が及ぶことを何よりも恐れた。過剰気味に。課長がこの事件をきっかけに、妻の山茶花に言い寄らないか、と。

 それは、明らかにとり越し苦労だっだか、耕平は真剣だった。

 耕平は真智の通う高校に相談することを思いついた。真智はストーカーをしている間、高校には行けないはず。学校では問題になっていないのか。

 しかし、真智は利口な娘だった。

 担任の教師に対して、

 「母が体調を崩して伏せっているため、しばらく、食事などの世話のため、登校時刻が遅くなります」

 と申し出て、遅刻する了解をとりつけていた。

 耕平はこのことを知ると、学校に相談することは却ってやぶへびになると思った。加害者は真智ではなく、耕平になってしまう。女子高生と30男では、勝ち目はない。

 

 「夫は翌日、彼女と会いました。金曜の夜です。遅くなると、夫から電話がありました。しかし、その日は帰宅しませんでした。翌日も、その翌日も……」

 山茶花は静かに話す。

 「どういうことですか?」

 湯河は管内の失踪事案を思い起こす。川瀬耕平の捜索願いは出ていない。

 「わたしは彼女に会って確かめました。夫に会ったことは認めましたが、そのあとのことは知らないと言い、それ以上は会っていただけません」

 「ご主人はどういう方ですか」

 「家出するような人間ではありません。どこかで生きていると思いますが、どうして連絡をしてくれないのか。5ヵ月の間……、わたしは疲れました」

 「これから、どちらに?」

 湯河は、山茶花のつらそうな表情をみて、彼女の怒りの矛先が自分に向いているのを感じた。

 「わたしは、あなたが彼女に、夫の住所を教えたことが、すべての始まりだと思っています。彼女が夫をストーカーする原因を作ったのは、あなたです」

 「それは……」

 「わたしはそのことに気がついてから、毎晩、あなたがパトロールして、あの駐車場の前を通る機会を待ち続けました。いつもは2人でパトロールされているが、ひとりのときがきっとある。そう信じて、今夜まで待ち続けました」

 「落ち着いてください。私が彼女に教えなくても、彼女はいろんな方法で知り得たはずです」

 「そんなことはありません。わたしはあなたを憎みます。夫がいなくなってから、わたしは生きる力をなくしました。いまは、あなたを憎むことで生きています」

 山茶花はいきなり、ハンドルに手を伸ばす。

 「何をするンですか。やめろ、危ないじゃないか!」

 車は深夜の国道を制限時速で走行していたが、突然ハンドルを切り、対向車線にはみだす。

 急ブレーキをかけたが、それより早く、車は対向車線を突っ走る大型トラックの前に飛び出していた。

                        (了)

                      2021.8.21.