おひとりさま
亜米青
「いらっしゃいませ。おひとりさまですね。お好きな席にどうぞ」
女性のひとり客が入ってきたので、わたしはそう声をかけたが、女性は店内を見回したあと、カウンター席を通り過ぎて、奥へすたすたと行く。
わたしは唖然となったが、すぐに、冷タン(ひやたん=水の入ったグラス)を持ってあとを追う。
女性客は、店の最も奥にある四人掛けのテーブルについた。
「お約束ですか?」
と、わたし。
わたしは磯川美優(いそかわみゆ)。この店のウエイトレスだ。23才。掛け値なしの23才。
四人掛けに腰かけた女性客は、どうみても四十才前後。彼女は平然として、
「約束? 何かしら」
わたしは、イラッとする。顔に出ているだろうな。
「ですから、あとからおともだちが来られるとか」
すると、四十女は、店内をキョロキョロ見回して、
「どうかしら。何も約束はしていないけれど」
と、こちらの真意が全く通じていない。
「それでしたら……」
わたしは、覚悟を決めて、
「おひとりさまは、カウンター席にお願いしています」
「お好きな席にどうぞ」と言ったことと矛盾するがこれは、わたしが入店する際、オーナーシェフの高居(たかい)から、指示されたことだ。実際に口に出したのは初めてだが。もっとも、オーナーは、混雑したときだけでいいから、と但し書きをつけてはいた。しかし、このときすでにイラッときていたわたしは、四十女と勝負する気になった。
四十女の顔色が変わった。
「空いているじゃない。わたし以外にこの店にいるのは、二組四人だけじゃない」
店は、三十人で満卓になる洋食店「サラヤ」。
四人掛けテーブルが五卓、二人掛けテーブルが二卓、あとはカウンター前に横並びの六席がある。
時刻は、午後二時を少し過ぎた頃だ。
キッチンにはオーナーシェフの高居式二(たかいしきじ)、ホールを担当するのはわたしだけ。本当はもう一人、咲良(さくら)がいるが、あいにく体調を崩して休んでいる。
わたしは、こんな客は相手していられないと思い直し、冷タンをテーブルに置くと、一礼してキッチンそばの持ち場に戻った。
オーナーが、床が少し高いキッチンの中から、わたしに声をかけてくれた。
「ミユちゃん、気にしないほうがいい。いろんな客がいるから」
「そうですけど。常識がないンじゃないですか。いい年をして」
「すいているときは、四人掛けにひとりでもいいよ。それに、あの客、何か事情があるかもしれない」
オーナーはそう言いながら、女性客のほうを見て、
「前に会ったことがある。あの女性……」
と、言った。
「そうですか。わたしは初めてですが」
わたしはこの店に勤務して、まだ三ヵ月。一度見た客の顔は忘れない。物覚えはいいほうだ。
「客としてじゃないな」
オーナーは天井を仰ぎ見て、考えている。
「注文をとってきます」
わたしは、四十女がメニューをテーブルに置いたのを見て、彼女のテーブルに足を運んだ。
「ご注文はお決まりですか」
「この店の自慢と書いてあるハンバーグにライス、それと生野菜、食後にコーヒーね」
「繰り返します。ハンバーグ……」
「繰り返さなくてもいいわよ。あなた、お利口そうだから、間違わないでしょ」
「店の決まりですから。ハンバーグに生野菜、食後にコーヒーですね」
「あなた、顔も声もいいのに、融通がきかないのね」
わたしはカチンときたが、
「お待ちください」
とだけ言って、キッチンへ。
オーナーは、わたしの性格がわかりかけているのだろう、
「注文は聞こえていたから……あのオバさん、まだ何か言いたそうだ」
四十女がわたしに向かって、手を挙げている。
わたしは仕方なさそうに行きかけると、四十女は声を大きくして、
「来なくてもいいわ。ハンバーグはよォく焼いてね。中が赤いのは、わたし、食べないから」
すると、
「かしこまりました」
オーナーがキッチンから顔を乗り出して、四十女に応えた。
オーナーは調理しながら、そばにいるわたしにだけ聞こえるように話す。
「思い出したよ。彼女、先月、中華『四川』で開かれた会食に来ていた」
「四川の会食って、四十代の独身男女が中心の婚活パーティでしょ。マスターは成果がなかったとおっしゃっていましたよね」
「そうだけど。彼女は一時間も遅れてやってきたから、会になじめなかったみたいで、印象も薄かった」
「お話なさったンですか?」
「ぼくは話はしていない。遠くからチラッと見た程度かな」
「ウソでしょ。チラと見たくらいで覚えているなンて」
わたしは、四十女が口の悪いのに似合わず、意外に美形なのに気がついていた。体もふくよかで、女の魅力を十分すぎるほど備えている。
「からかうんじゃないよ。ぼくの好みは……」
オーナーはわたしを見ながら、途中でことばを切り、
「あがったよ」
と言い、湯気を立てているハンバーグとライス、冷蔵庫から取り出した仕込み済みの生野菜を、カウンターとの仕切り台に置いた。
オーナーは三年前に奥さんを亡くしている。「何かにつけ妻を思い出す」そうだ。だから、こんなわたしにも、亡くした奥さんの面影を重ねあわせているのじゃないか、と勘繰ってしまう。
わたしはこの店に来る前は、繁華街の大きな喫茶店にいた。客席は百以上あり、従業員も十数名。わたしは居心地がよかったが、勤務して半年ほどたった頃、週に二度ほど客で来ていたオーナーから、「手伝ってくれないか」と、いまの店に誘われたのだ。
オーナーはいやな客ではなかったし、オーナーの店は、住んでいるアパートに、より近いことがわかり、一週間考えた末、承知した。
「いらっしゃいませ」
わたしはドアが開いた音に反射的に振り返り、客を迎えた。
すると、
「ミカちゃん、こっち」
奥のテーブルから四十女がそう呼びかけ、手を挙げている。
ミカちゃんと呼ばれた女性は、四十女より若く、さらに美形だ。
わたしは、冷タンを持ち、奥に行く美形のあとに従ったが、そのとき、マスターが美形に釘付けになっていることに気がついた。
美形は四十女に対して、
「ごめんなさい。遅くなって……」
と言いながら、四十女の向かいに腰かけた。キッチンに背中を見せる形だ。
「注文が決まりましたら、お呼びください」
わたしは、美形にそう言って戻ろうとしたが、
「こちらと同じものをお願いします」
美形は振り返りながらそう言い、と同時にキッチンにいるオーナーをしっかり見た。オーナーも美形の視線を受け止めている。
わたしはオーナーのそのようすをみて、二人は知り合いなのだと確信した。とともに、不思議な気持ちになった。
四十女が「約束はない」とウソをついたことだ。忘れていたとは考えられない。最初から、あとからともだちが来るのなら、四人席を選んだ理由として、そう断ればよかった。無駄な摩擦は起きなかった。
これはあとになってわかったことだけど、四十女がわざと四人掛けを選んだのは、この店の対応をテストするためだった。彼女は初めて利用する料理屋などでしばしばやることらしい。ひとり客が四人掛けに腰かけて意地悪をされる店なら、オーナーの出来も料理の出来もよくない、と判定するのだという。
ハンバーグと生野菜のセットが出来たので、わたしが持っていこうとすると、
オーナーが、
「私がいくよ」
と言い、コック服のままカウンターから出ると、料理皿と小皿を両手に持ち、奥のテーブルに行った。
こんなことはいままでになかった。わたしが知る限りだが、オーナーは明らかに平常心をなくしている。
わたしはイライラしている。わたしのイライラは毎度のことだが、このイライラの原因はわかっている。
しかし、それがどうしてなのか、自分でも理解できない。予想もしていなかったことだからだ。
明日から、美形、名前は山北未果(やまきたみか)がわたしと一緒に働くという。
未果は先月、オーナーが参加した婚活パーティ会場のスタッフのひとり。すなわち、婚活パーティを主催したイベント会社の非正規社員だった。
オーナーはパーティ参加者のなかには関心を引く女性を見つけることはできなかったが、会場で参加者の世話をやく未果に、心を奪われた。
そして、パーティがお開きになると、オーナーは未果が他のスタッフと離れたときを捉え、声をかけた。
「山北さん」
首から吊るしているIDカードから、名前はわかる。
「なんでしょうか」
未果はパイプ椅子を片付ける手を休めてオーナーに向き直った。
「私はこのパーティに参加するのはきょうが初めてですが、どうもしっくりきません」
「それは残念です。でも、高居さん好みの女性は必ず現れます。次の機会を楽しみにしてください」
それを聞いてオーナーは思い切って言った。
「私は、参加者ではなく、スタッフの山北未果さんに引かれました。失礼します」
オーナーはそれだけ言うと、相手の反応も見ずに会場を出たそうだ。
昨日、その未果さんが店に現れた。友人だという海原麻沙美と約束して。
三週間ぶりの再会だ。オーナーに当時のときめきが蘇り、未果さんに来店の目的を尋ねた。偶然はありえない。未果さんは、婚活会社を辞めたという。これからのことについて友人の麻沙美に相談したところ、一度「サラヤ」を訪ねたらと勧められ、やってきたと答えた。
オーナーは勿論、未果さんの期待通りの応対をした。すなわち、サラヤを手伝って欲しい、と。
出来すぎていやしないか。
わたしは、オーナーから簡単にこれまでのいきさつを聞いたが、未果さんに都合のよすぎる展開に、疑問を持った。しかし、いま燃え上っているオーナーには、何も通じないだろう。
人手が足りないのは、事実だから。
体調を崩していた同僚ウエイトレスの咲良(さくら)が三日ぶりに出勤したが、さすがにびっくり顔で、
「どういうことよ。ミユ、オーナー、彼女と結婚するの」
と、マジで尋ねる。
「かもね」
「わたし、オーナーを狙っているのに、それはないよ」
咲良は、わたしより2コ上の25才。当人は、もう25、もう25だ、と言っている。結婚にあこがれているのだ。わたしは結婚なンか、なくてもいいと思っているのに。
翌日。
あさ10蒔半に出勤すると、互いに自己紹介して、三人で持ち場を決め、ホールの仕事を始めた。
一応、キャリアが一年半と最も長い咲良が未果さんに指示する役目としたが、一回り近く年長の未果さんにあれこれ指示するのは、正直疲れるだろう。
キッチンからは、オーナーがそのようすを見ているから、なおのこと。
ともかく、午前中は、忙しさにまぎれて乗り切れた。
昼食は午後1時半から交替でとる。キッチン裏の、細長い事務所兼休憩室で。
この日は、出勤初日の未果さんが最初に休憩に入った。昼休憩は一時間。水商売で昼休憩が一時間もとれるのは、わたしはこの店が初めて。最初は驚いたが、いまでは当たり前になつた。
ホールに客は二人一組だけ。わたしは咲良と隅のテーブルでナプキンを折りながら、無駄話をする。
オーナーはキッチンの掃除をしている。オーナーはきれい好きだ。換気扇やそのフード、ガスレンジはいつもピカピカに輝いている。床だって、靴下のまま歩けるくらい、乾燥していて、ゴミ一つない。
わたしはオーナーのこの点をいちばん買っている。ほかに彼のいいところ、って……? まだ、あるだろうけれど……、
「ミユ、どうしたの? ぼんやりして」
咲良がわたしの顔を覗き込む。
「エッ、なんでもないよ。サクラは、未果さんのこと、どう思う?」
「水商売が初めてとは思えないわ。婚活会社ってどんなことをするのか知らないけれど。お客の扱いも上手だし、わたし、見習うところいっばいある」
「そうか。わたしも同感……」
わたしは咲良が新人をちゃんと観察していたのだとわかり、感心した。
咲良はキッチンを見ながら、声を落とし、
「未果さん、オーナーの奥さんに合っているかも」
「どうしたの、サクラ、もう敗北宣言?」
「そうじゃないけど、年の差には勝てないもの。10コ上は、それだけ人生経験があるものね」
わたしも、うならざるをえない。
未果さんは、わたしや咲良のようにガサツじゃない、どこか品さえ漂っている。
「あとは、コレ。コレさえ問題がなければ、わたしは降りる」
咲良は親指を突き出し、神妙な顔つきになった。
未果さんの男性関係は知らない。これまで何もなかったことはないだろうけれど、外見からは、これまで男性に縁がなかったお嬢さん、といった風に見える。少なくても、わたしのように、二股掛けていた男にだまされた、ってことはないだろう。
あの二股男……、いまごろ何しているだろうな。
「咲良はどうなの。カレシ、もう追って来ないの?」
わたしは、咲良のカレを知っている。わたしより上の、三股を掛けていた男。もっとも、わたしは咲良に二股男のことは打ち明けていない。恥ずかしいもの。
「気がつかなかった? 昨日、来てたの。真っ赤なフードのついたパーカー着て、カウンターの隅っこにいた、暗い男……」
覚えている。そういえば、咲良は、冷タンを出すとき「いらっしゃいませ」も、レジで「ありがとうございました」も言わなかった。
「そうだっけ」
わたしはとぼけた。咲良が昨日黙っていたということは、知られたくないのだろうから。同僚の小さな思いやりだ。
「お金貸してくれって、紙切れを寄越したンだよ。信じられるッ!」
レジでそれらしいやりとりがあったが、借金を頼んでいたとは気がつかなかった。
「それでどうしたの。貸してあげるの?」
「冗談じゃない。おととい、来なッって言ってやった」
でも、カレが帰りがけレジに寄ったとき、行きかけたわたしより先にレジに走ったのは咲良だった。咲良はその紙切れを捨てずに、ユニホームのポケットにしまっていた。新しい電話番号が書いてあったのだろう。
そのとき、
「ちょっと頼む。事務所にいるから」
オーナーがそう言ってサロンを外し、キッチンを出て事務所に行った。
「怪しい。ミユ、どう思う?」
咲良が不快そうな顔をして尋ねる。わたしはそっと時計を見た。
「明日は晦日だから、ヒマないまの間に売り上げの計算をするンじゃないの」
「そうかなァ。わたし、偵察して来ようかな」
「よしなよ」
と言いながら、わたしはこっそり覗けば、という気分になった。
咲良はわたしの願い通り、事務所兼休憩室に向かった。
ところが、慌てて戻って来て、
「シマッている。どうしよう」
咲良は泣きそうな顔をしている。事務所兼休憩室には木製のドアがあるが、ふだんは開け放ってある。オーナーがホールのようすを耳で聴きとるためにだ。
それが閉まっている、ってことは……。
「暖房を入れたのかもよ」
夏と冬、エアコンを動かすときは、ドアを閉める。この季節、暖房を入れてもおかしくない。
「きょうは暖かいよ。テレビで小春日和なんて、言ってたよ」
確かに。
「だったら、ドア越しに立ち聞きしてくればいいじゃないッ」
わたしは苛立っていた。
「そうだね。行ってくる」
咲良は、ニッと笑って、再び事務所兼休憩室へ。
結局は何事もなかったのだが。事務所兼休憩室からは、男女の会話らしき声は聴こえなかった。
1ヵ月がたった。
きょうは、オーナーの発案で店がお休みになった。「従業員慰安」を名目に、都内の遊園地に来た、ってわけ。
ただし、この遊園地を選んだのは、咲良だった。オーナーは車で富士山の近くに行きたかったのだけれど。いいお天気だから、富士山はきれいだろうに。紅葉だって、楽しめるのに。ここでは、落ち葉ばかり……。
わたしは店が休みなら、アパートの自室でのんびりしていたい。でも、オーナーの考えは違う。給与を出すというのだから、仕事なのだ。
「従業員どうしが円満、円滑に過ごせるように」
と、オーナーは言ったが、本当の狙いが別にあることはわたしも咲良も知っている。
敷地は狭いけれど、ジェットコースターもある遊園地。幸い、青空。気分は悪くない。小さいけれど、色づいたサクラやイチョウの木々もある。
平日で客の入りは六分程度かな。
わたしは咲良と、オーナーは未果さんと連れ添う形になり、これは予想通りだった。
全員遊園地の入り口で集合して中に入り、ゲームをしたり、たわいもない乗り物に乗ったり、お昼は座席数が三百ほどあるフードコートですまして、いまここ……にいる。
地上40メートルだぞォー。まだまだ上昇して、最高点は80メートル……。
「ミユ、怖くない?」
と、咲良。怯えている感じ。
「わたし、この程度ならなんともない」
わたしたちは観覧車のゴンドラのなかだ。四人乗りだけど、二人。オーナーと未果さんは、6台先のゴンドラに乗っている。間を空けたのは、咲良の考えだ。
「先に行って。忘れ物」と言って、トイレのほうに姿を消したが、すぐに戻って来て、列の最後尾に並び直した結果だ。
「これでいいの。このほうが二人のようすがよく見えるから」と言った通り、オーナーと未果さんのゴンドラの内部がよく見える。いまは下から見上げる形だけれど、下降になれば二人の足元も見えるはずだ。
その二人のゴンドラが頂点にさしかかっている。
「あの二人、いい感じよね」
咲良が妬ましそうにポツリ。
そォ、いい感じ。わたしもそう思う。この一ヵ月、オーナーは未果さんに対して、優しかった。もともと、優しい男性だけれど、わたしや咲良には見せない気遣いをしていた。
例えば、オーダーミス。この店にはミックスフライとミックスグリルがある。ミックスフライは、エビとチキンと鱈のフライだけど、ミックスグリルは豚と、チキンとイカをソテーしたもの。わたしも最初の頃は何度も間違えた。
オーナーにごめんなさいと言って作り直してもらうのだけど、未果さんの場合は、彼女が客に謝っている間に、オーナーは調理にとりかかっていた。わたしのときは、わたしがキッチンに行き、お願いしてからだったから。
「でも、これっておかしくない?」
咲良が言う。
「何が?」
わたしは、地上のカップルを見下ろしながら、元カレを思い出していた。いまここにいたら……。最後に会ったのも、枯れ葉の舞う季節だった。山吹色のイチョウの枯れ葉……。
「手を振っているよ」
咲良がそう言い、オーナーたちのゴンドラに向かって手を振る。
わたしはすぐに体をよじって、こっちを見下ろしている未果さんに手を振った。未果さんが微笑みながら手を振り、目の前のオーナーに何か話している。まるで夫婦のように。いまにたいへんなことになるのだから……。
「まだ一ヵ月よ。それなのに、あの二人、もうラブラブじゃない」
咲良がぼやくのももっともだ。しかし、男女の仲に公式はない。くっつくのも早ければ、別れるのも早い。わたしがいい例だ。二股とわかって、すぐに携帯を変えて、アパートも変えた。
「でも、別れるのも早いかもよ」
「そうなの? ミユ、何か知っているの。わたしは……」
そのとき、ゴンドラがガクンと大きく揺れて、停止した。
数台のゴンドラから悲鳴があがった。
咲良は、猫が獲物を狙うようにオーナーたちのゴンドラを見つめている。そして、つぶやいた。
「まだ早いじゃない。あいつ、ホント、バカ……」
わたしも咲良の視線を追って、未果さんを見た。
アレッ、未果さんがいない。消えた!? よく見ると、オーナーの側に移動して、二人はぴったりくっついている。
「やめてェー! あいつ、殺してやるッ!」
わたしの悲鳴ではない。咲良の叫びだ。
「あいつ」って、だれ? オーナーではないだろう。
幸い、ゴンドラは五、六秒で動き出し、未果さんはオーナーの向かい側に戻った。
「これって、ここの演出なの?」
わたしは素朴に感じたままを言った。
「何言ってるの。あのバカが間違えたのよ。二人がゴンドラから降りる直前と言ったのに……」
わたしには、咲良の言っていることの半分もまだ理解できていない。しかし、わたしも咲良も、あの場面での未果さんの動きに、衝撃を受けていた。
わたしたちのゴンドラは沈黙した。
数分後、
「未果さん、キスしていたよ」
咲良がくやしそうに言った。
「ウソよ。サクラの位置からじゃ、よく見えなかったでしょ」
わたしもノセられて、感情的になった。咲良の角度からでは、二人の体が密着しているのは見えただろうが、後ろ姿になり、顔はわからなかったはずだ。
「前のガラスに映ったンだよ」
エッーッ! ゴンドラは四方がガラス張り。それが事実なら、わたしにも衝撃だ。
別にオーナーが何をしようがいい。でも、一ヵ月前に入店してきた女性に、優しいオーナーを乗っ取られた気持ちになるのは、なぜだろう。
わたしたちのゴンドラが下に着き、係の男性が扉を開けてくれた。
すると、咲良がその男性に、
「唐変木! あれだけ言ったのに、もう店に来るなッ」
咲良に罵られたのは、赤いパーカーの男性だった。
パーカー男は、しくじりに気付いていたのか、下を向いたまま、
「ごめん。手が滑った」
と。
オーナーと未果さんは、少し先のオープンスペースの円いテーブルを選んでいる。アイスクリームやドリンクの売店が見える。
わたしは咲良とそのほうに向かいながら、
「いまの三股男なの?」
「そうよ。もう、出禁だからね」
ゴンドラから降りる直前、ゴンドラが大きく揺れ、パニックになったとき、二人はどう反応するか。咲良は、未果さんがオーナーをおっぽり出して逃げる様を予想したらしいが、それはなかっただろう。未果さんは、ゴンドラが上にあったときと同じように、オーナーにしがみついて、密着したはずだ。
しかし、わたしにも隠し玉がある。待っていて……。
わたしたち四人はそれぞれアイスを買って、丸テーブルでおしゃべりをしている。
勿論、席位置は、オーナーと未果さんが横に並び、わたしとさくらが二人の向かい側。丸テーブルだから、わたしがオーナーの左横で、彼と横並びとも言えなくはないが、彼との間は広く空いている。
時刻は「13:33」。まだ、30分近くある。
「きょうは来てよかった。咲良さんと美優さんは、迷惑だったかも知れないけれど……」
とオーナーが口を開いた。
「そんなことないよね。ミユも楽しんでいるよね」
咲良は心にもないことを平気で言う。わたしは相槌を打たざるをえない。
「未果さんはどうですか。お店に来て一ヵ月ですが、慣れました?」
わたしは、店を変わる度に、わたし自身が何度も言われてきたことを言った。
すると、未果さんは、
「前の会社をどうしてもっと早く辞めなかったのだろうって思っています。いまのお仕事、これまででいちばん合っているみたい」
そうだろう。わかる、前の会社にいたら、そのうち、警察沙汰になっていただろうから……。
「アッ、きれい……」
未果さんが数メートル先で、小さなつむじ風にクルクルと舞うさくらの赤茶けた枯れ葉に目を止めた。
わたしもオーナーも釣られて、視線を送る。しかし、咲良は全く無関心。
「未果さんは結婚経験はないの?」
咲良がズバリ、尋ねた。わたしは、グッと息をのむ。
しかし、
「残念ですけれど」
と、未果さんは落ち着いている。咲良の問いは予想していたものだったろう。
結婚の機会は何度もあったはずだ。
さくらの枯れ葉が、風に送られ、スルスルと動いている。わたしは、それに見とれて……、視線がつい……。
エッ、テーブルの下に視線が行き、見てはいけないものを見てしまった。未果さんの左手がオーナーの右手をしっかりつかんでいるのだ。わたしは慌てて、視線を外し、
「オーナーは再婚なさらないのですか?」
と、わたし。
オーナーはグイッとわたしを見つめた。
沈黙が支配する。咲良も、未果さんも、オーナーの返答に固唾をのむ気配が伝わってくる。
「ミユちゃん。ぼくは再婚はしないよ。どんなに恋をしてもね」
オーナーは動揺していない。
未果さんの左手が、テーブルの上に現れた。
「それはおかしいですよ。オーナー、恋をして結婚しないなんて」
咲良がブーイングだ。
そのとき、未果さんの眼が凍り付いた。一点を見つめたまま、動かない。
まもなく、わたしたちのテーブルに人影が差した。
わたしと咲良が同時に、振り返る。
「未果、もう逃げないでくれないか」
見かけない男性が、未果さんを見下ろしている。
わたしが四日前、帰り道に声を掛けられた男性だ。名前は、川田幸助だったか。
未果さんに合計百三十万円貸してあり、その返金を催促しているが、いつの間にか婚活会社を辞めたため、行方を捜していたという。
だから、わたしは、この日の遊園地行きを教え、みんなの前で返済を迫ればいいと言ってやった。
わたしって、悪女、かしら。間違いない。悪女よ。
でも、この男性、未果さんと恋仲になって、夢中になって、お金を出し続けた。元は未果さんの会社の顧客だったけれど、未果さんから声を掛けられたのがきっかけで、彼女の虜になったという。
オーナーとは逆だけれど、未果さんの相手はこの男性以外にいないのかなァ。二股、三股の時代だもの。
数分か、もっと長かったか。だれも声を発しなかったが、未果さんが、意を決したように立ち上がると、
「失礼します。あなた、行きましょ。きっちり返しますから」
と言い、川田さんの手を引いて、足早に立ち去った。
そして、翌日。
「サラヤ」は一ヵ月前に戻った。
咲良の元カレ、赤パーカーが午後になってやってきた。「出禁」のはずなのに。
観覧車係をクビになったそうだ。わざと回転を止めたことが会社にバレ、そのほかのよくない勤務評価が重なった結果だ。しかし、カレは少しも落ち込んでいない。なにせ三股のウデがあるのだから。咲良がダメなら、ほかの女性を頼ればいい。
「サクラがそんなに観覧車が好きとは知らなかった。こんどは日本一高い大観覧車に連れていってあげるよ」
と、誘っている。
「それ、知っている」
と、わたしが割り込む。
「大阪にあって、高さは123メートルよ。この前のより40メートルも高い。オーナーはどう?」
わたしはキッチンで退屈しているオーナーに声を掛けた。
「話には聞いているけれど、あそこは全面ガラス張り。床もシースルーで……」
「丸見え!? だったら、できないか」
わたしは、オーナーに向かって、ニューッと唇を突き出し、お道化て見せた。
(了)
2021.1.23.