おそらく東京電力を許せる国民はほとんどいない。
東電や原子力利権屋の責任は、どれだけ償っても償いきれるものではない。

福島県民は、加害者から応分の補償を受け取る権利があるが、それが適うかは県民の声次第。他都道府県民の何割かからは、事故以前、福島県民の半分強は原発推進派であり、放射線災害は身から出た錆と思われていることも忘れてはならない。
よって、安易に国の税金で賠償を求めることは、謹まなければならない。

東電や原子力利権屋に対する怒りの声を更に強くし、そこから賠償を支払わせるために行動することで、他都道府県民は、福島県民へ強い共感を覚えるだろう。
福島県民の口から東電への免責を認めないことを宣告し、彼らの夏のボーナスをゼロにし、総てを賠償金に回さなければならない。
東京の発展に福島が犠牲になったという意味で、虫けらに扱われたというのは結果的に妥当な表現。個別の政治家の評価はさておいて、民主と自民では、自民の方が長年政権を握っていた分だけ酷い。それと同様に酷いのは、長年安定した立場で仕事を続けてきた関係官僚や御用学者。つまり保安院、安全委員会、原子力委員会などなど。

関東七都県民とて、ごめんな再臨界だけでは済まされない。
福島県民の怒りが、総ての原子力利権関係者はおろか原子力電力に胡坐をかいてきた者共から、賠償金搾り出しの成果を挙げることを、俺は強く望む。

震災グルっぽ福島掲示板では、これまで数々の『俺批判』があったが、その内容は、道徳だの、言葉使いだの、他人を見下しているだの、マナー批判や人格批判的なものの割合が大きかったように思う。


だがマナー批判や人格批判とは、それほどまでに必要なのか。

世の中、スーツを着て、丁寧な言葉や身のこなしを心得たかに見える人間は五万といる。これまでの日本ではそういった人間の多くが、なっちゃいないとされる人間よりも出世してきた割合は大きかったはずだ。

にもかかわらず、今の日本には打破し難い閉塞感や不公平感が漂っているのは何故なのか?結局のところ、そのようなうわべができる連中は、他人より楽をしたり自らに富を集中させる術にも長けており、いかなる時もそればかり腐心して行動する。

そのような連中が社会の上部に多数派を形成し、我欲成就・癒着・腐敗を極める国なのだから、どう取り繕っても万民に希望を与えることなどできはしないってことだ。

社会を変えたいと願う者は、間違ってもそういう輩に懐いてはならず、児童文学「泣いた赤鬼」に登場する青鬼になってでも、強い言葉と強い態度で腐敗した体制に対して、断固として立ち向かわなければならない。


高度成長期以来、心無い日本人が地方を過疎に追いやりながらも、一極集中的に作り上げてきたものは、道徳なんぞは置き去りにした我欲のピラミッドだったということだろう。

原発の反省は、一極集中都市東京の反省でもある。今後は地方の繁栄を第一とし、失ってきた数々の心を取り戻さねばなるまい。