レイクウッドのお屋敷に戻ると、彼女は眠りについた。翌朝いつもより早く起きると彼女はアンソニーの薔薇園に向かった。
『おはよう。スウィートキャンディ…。』
当然のことながら薔薇からは答えが返って来なかった。いつもより時間を掛けて世話をする彼女に、別れを告げる様に薔薇はハラハラと舞い落ちていた。彼女は旅立つのにぴったりの日だと微笑んだ。あの時も息苦しくなるほど、薔薇はハラハラと舞ってた。あの後、すぐにアンソニーは死んでしまった。それも彼女の目の前で。こんな薔薇の散る日はもうないだろう…と彼女は新しい自分に、生まれ変わる為に今日このお屋敷を出ていこうと決めた。明日はアンソニーの命日だ。あれから20年以上が経った。今も彼女は毎年アンソニーの命日に忘れずに祈っていた。それが、どんなに辛くても忘れられなかった。
『アンソニー、時の流れは残酷ね。そして美しいわ。あなたが死んでしまった時、私は自分が息をしている事が許せなかった。それがいつの間にか許せる様になっていて…だけどこのスウィートキャンディはあの時と変わらずに、美しく咲いていたのね。いつからかしら?あなたの事を笑顔で…思い出せる時間が時折できる様になったのは。それでも、あなたがこの世界から旅立ってしまったあの瞬間はまだ…。いいえ、あなたの前で辛いだなんて言っちゃ駄目ね。一番辛いのはアンソニー、あなたなんですもの。アンソニー、あなたが生きていたらどんな大人になっていたのかしら?あなたの事を思い出す度に問いかけるのよ。アンソニー…あなたは私のせいで…』
その時彼女は手を握って瞳を閉じた。手に、鈍い痛みを感じて瞳を開けた。手に血が滲んでいた。あの時の様に、薔薇の棘が刺さったのだ。視界が涙でぼやけていく。あの時…アンソニーに生きる力を貰った時…。彼女の時間が舞い戻っていった。あの日の朝、毎日アンソニーと会っていた薔薇園に走っていった。もしかしたら、事故は全て夢で起きたことでアンソニーがいつもの様にいるかも知れないと思ったのだ。
『アンソニー!アンソニー!』
答えは返って来なかった。やはりあの事故は夢ではなく現実だったのだ。目の前にはスウィートキャンディの花弁が殆ど落ちてしまった寂しい光景が広がっていた。自分の心を代弁する様にヒューヒューと風が泣いている様に彼女には聞こえた。ー花は散ってより美しく咲き、人は死んで人の心により美しく甦る…ーふと、アンソニーが言っていた言葉が頭の中で再生される。彼女が激しく横に首を振るとかろうじて堪えていた涙が一気に溢れてくるのが分かる。泣き声を出してしまったらもう涙は止められなかった。
『アンソニー!いくら美しく蘇っても私には意味がない!私はあなたの声が聞きたい!あなたの姿をこの瞳でずっと見ていたいの!あなたに触れられないなら何の意味もないのよ!』
そう言いながら手を握ると、薔薇の棘が手に刺さった。手に浮かんでくる赤い血を見て、急に生きているんだ…と思ったんだっけ?そのあと、心の中のアンソニーと会話をして再び生きる気力を取り戻したのだった。そこまで思い出すと、彼女の意識は現代へと戻って来た。
『あぁアンソニー…。』
手に浮かんでくる赤い血を見ているとアンソニーの声が聞こえてきた。随分久しぶりに聞いたその声は、少しだけ大人びている様に感じる。もしアンソニーが大人になれていたらきっとこんな声をしているんだろうな、と思った。
ー泣かないで、ベイビーちゃん。ー
その声に彼女は
『アンソニー、でもあなたは私のせいで…。』
と言った。ずっと自分のせいだと思っていた彼女はそう答える事しかできなかった。
ー違うんだよ、キャンディ。君は何も悪くないんだ。ー
特別優しい風が彼女の廻りで吹いた。
『アンソニー、でも!』
ーキャンディ、君は生きているんだ。いつまでも自分を責めていたら生きているのが辛くなるだけなんだよ。僕は君のせいで死んだ訳じゃない。僕が死んでしまったのは、馬から落ちた時に上手く転べなかったからなんだ。落馬をした時の転び方も僕は知っていたのに。だから本当に君のせいではないんだ。ー
『あぁアンソニー…。』
殆ど散っている筈のスウィートキャンディの匂いが彼女を包んだ。満開に咲いている時の甘い香りだった。花弁が空を見上げていた彼女の頭の上に舞い降りてきて…花弁は彼女の唇に当たって、最後に手の中に収まった。彼女には、まるでアンソニーがキスをしてくれたかの様に感じられて少し涙が止まった。アンソニーと交わす初めてのキスが…薔薇の花弁を通してするしかなかったのは切なかったが、彼女は泣きながらそれでも微笑んでみせた。
ーそうだよ、キャンディ。君は笑っているのが一番だよ。君はきっと笑って生きてくれるね?僕の事は忘れてくれていいんだ。君は自由なんだから…。できる事ならずっと君の側にいたかった。でも僕はもう死んでいて君にはまだまだ長い人生が待っている。君は幸せになれるよ、僕が全力で君を見守っているから。保証する。キャンディ、次に会う時は笑っていてくれるね?ー
そう言うとアンソニーは彼女の返事を聞かずに、空気の中に溶けていった。ゆっくりと段々と透けていく。
『アンソニー!あぁ…。』
完全にアンソニーが空気に溶けてしまうとしばらく彼女は動く事ができなかった。余韻に浸っていたのだ。小鳥の鳴く声で彼女ははっとして立ち上がると、ゆっくりと涙を拭いた。そして笑顔を作った。
『アンソニー、ありがとう!あなたが居てくれたおかげで私は恋を知る事ができたのよ!あなたが私に生きるという事を教えてくれたのよ。アンソニー、私は私らしく生きてみせるから安心して。あなたの事は一生忘れないわ。私の人生はあなたなしじゃ語れないもの。あの瞬間の事を思うと辛いけど、あなたの分まで笑顔で生きていくわ。』
だからまた会いに来て…と最後の言葉は心の中で言った。彼女はふと空を見上げると、大分長い時間を薔薇園で過ごしていた事に気がついた。彼女はお屋敷に向かって、走り始めた。そして一度だけ立ち止まってアンソニーの薔薇園を振り返った。
『さよなら、アンソニー。あなたはいつでもここにいて、私を見守っていてくれるわね?』
彼女に答える様に殆ど花弁が散ってしまった薔薇の枝が揺れた。彼女は安心した様に笑うと今度はもう振り返らずにお屋敷の中に入っていった。アンソニーの想いに、自分の想いに別れを告げた瞬間だった。
部屋の中に戻ると、4人と朝食をとった。朝食を取ると彼女は少し休憩をして、部屋を隅々まで掃除をし始めた。そして必要最低限の荷物を纏めた。医学書に資格認定証、貯金、洋服を5、6着とアンソニーとステアの写真、ポニー先生のクルス。最終的に大きな旅行かばん1つに収まった。貯金はそれなりにある。病院に努めていた時のものだ。そこには他にはマーチン先生の所で貰っていたお給料も含まれていた。彼女はポニーの家の為に使いたいと申し出たが、ポニー先生とレイン先生に丁重に断られたのだ。もちろん最低限は彼女が無理を言ってポニーの家に使ったが、それでも十分なくらい貯金は残っている。その時は不服だったが今となってはありがたかった。2人の言う通り貯金しておいてよかったと思った。所せましと旅行かばんに詰めた物の中に彼に関するものは何も入っていなかった。大事な日記帳も、彼のブロマイドも、招待チケットも、彼のタイも、新聞の切り抜きも、彼から送られてきた手紙も…。彼女は彼に関する全てのものを、このレイクウッドに置いていくつもりなのだ。彼に関する物を1つ1つ丁寧に机の中の引き出しに入れると、鍵をかけた。かちゃ、と静かに鳴ったその音は彼女の心にも鍵をかけた。
『テリィ、さようなら。』
彼女はアンソニーが見守っているこのレイクウッドに、生きていく上で自分にとって重りになるものを全て置いていくつもりなのだ。そして一度出ていったからには二度と戻らない覚悟をしていた。このお屋敷は数年前から彼女の所有物になっていた。ウィリアム大叔父様が一度手放したのだが、彼女の誕生日に買い戻してくれたのだ。それまでの所有者は殆どこのお屋敷に手をつけていなかった。というのもこの所有者はアンソニーの薔薇園が気に入って買ったものの、高齢の為に一度もこの屋敷に訪れることもなく、亡くなってしまったのだ。困った遺族がまたこのお屋敷を売り出したのだった。
彼女は部屋を綺麗に片付けてホコリを払った。出ていく事がばれない様にかばんをクローゼットに隠した。彼女はいつも通りに振る舞った。午前中の森に散歩に行って、昼食をとった後エミリーやイメリアと話をした。午後は読書を少しした後、アンソニーの薔薇園にもう一度行ったり、編み物をしたりしていると夜になった。夕食も普通に取ると彼女はベッドを整えて手紙を枕元においた。これで今すぐにでも出ていける。マイクが夕食を下げにきた後、いつも通りに電気を消してから、彼女は寝巻きから動きやすい服に着替えた。昼間に森から持って来ておいたロープを柵に結ぶと旅行かばんを鮮やかに下に降ろした。最後に片手にランプを持って使っていた部屋に別れを告げると、自分も静かに下に降りた。彼女は初めにアンソニーの薔薇園に、向かった。彼女は笑顔でもう花弁が落ちているスウィートキャンディを見つめた。
『さよならアンソニー、スウィートキャンディ…。』
昼間に別れは済んでいたから、簡単に挨拶をすると次は森に向かった。彼女はアンソニーを亡くしてから、この森だけはまだ好きになれていなかった。ルピナスが月明かりに照らされている様子はあの世と現実の境目の様だった。昼の森も美しいが、夜の森はもっと美しかった。それでも好きになれないのは、アンソニーの時間が永遠にこの森で止まってしまったからだ。かつて笑い声が溢れていた森の木々が寂しそうに揺れている。彼女はそっとさよなら、と呟くとラガン家の馬小屋に向かった。鍵がかかっていると思ったが、あいていた。彼女はそっと懐かしい扉を開けて中に入った。懐かしい香りがする。シーザーとクレオパトラはもうここにはいなかったが、彼女が生活していた時のまんまベッドは置かれていた。随分来ていなかった馬小屋はもうボロボロだったがまだしっかりと立っていた。彼女がしばらく昔の思い出に浸っていると、突然閉まっていたはずの扉が開いた。驚いて振り返ると、そこにいるはずのない彼…テリィが立っている。彼女は驚いてしまって声も出せなかった。体を動かすこともできない。息をするのも忘れて、彼女は彼を見つめた。これは夢なのだろうか?
『キャンディ!』
彼の声が聞こえると、彼女はようやく現実だということを理解した。手紙が届いたのだろか?いや、こんなにすぐに届くはずがない。スザナはどうしたのだろう?何故彼がここにいるのかは分からなかったが、彼女の瞳には涙が浮かんでいた。