彼女は重い体を引きずる様にして病院の扉を開いた。冷たい吹雪が彼女を出迎える。彼の幸せを考えて出した結論に彼女は苦しめられていた。自分が下した判断をはやくも後悔し始めている。頭で理解していても心がついていかないというのはこういう事をいうのだろうか。頭では自分が出した答えに納得しているのに心では今すぐに振り返って走りだして彼の腕の中に飛び込んでしまいたい衝動に駆られていた。いっそ2つに張り裂けてしまえる事なら楽になるだろう。
『送るって!』
『いいったらいいの。』
『キャンディ!』
『送ってもらえばもっと悲しくなるじゃない!テリィの馬鹿!離して…』
手を振り払って駆け出した自分を追いかけて抱きしめたテリィ…。彼の涙はとても熱く感じた。この時ほど時がとまってしまえばいいと願った事はなかった。
『もう少し…このままで…。』
少し掠れた声で1言呟いた彼はどんな表情をしていたのだろうか。温かい彼の温もりの中に永遠に閉じ込められてしまいたかった。
『キャンディ、幸せになるんだぞ。ならないと…承知しないからな。』
『…テリィ、あなたもよ。』
ゆっくりと離れていく彼の温もりを彼女は永遠に忘れられないだろう。いつもからかってくる彼…。その中に隠れた優しさ…。時折寂しそうに光る青い瞳…。走馬灯の様に彼の色んな表情や彼との思い出が蘇る。彼に見せないようにしていた涙が溢れてきて止まらない。
『…テリィ、さよなら。本当にさよなら…。』
音をたてない様に扉を閉じるとゆっくりと歩き始めた。病院を振り返りたかったが、振り返ってしまえばもっと辛くなる事を彼女は知っていた。降りしきる雪の中、少しだけ立ち止まると病院をあとにした。ホテルに向かう足取りは重く、とても長い時間歩いた様な気分だった。雪風はとても冷たかったが、自分の背中に彼の温もりが残っている様な気がして彼女は寒さを感じなかった。
ホテルのフロントの人に急遽帰る事になった事を告げ、部屋に戻った。フロントの人は彼女の涙に気がついて、驚いていたが見ていないふりをしてくれた。帰り支度をしながら彼女はまだ着ていないドレスを手にとった。彼に見せたかったそのドレスを抱きしめると、とまりかけていた涙がまた溢れてきた。何の為にニューヨークまで来たのだろう。何の為に自分と彼はたくさんすれ違っていたのだろうか。すれ違った分は後で彼とたくさんいられる、と信じていた自分が馬鹿みたいだ。
フロントの人に鍵を渡してホテルを出ると、彼女は駅に向かって歩き始めた。馬車を呼んだ方がいいという事は分かっていたが彼女は歩きたい気分だった。幸せそうに街を歩いているカップルや家族が不思議な顔で自分を見ているのが分かった。
汽車に乗ると、どうにか自分の席を見つけて座り込んだ。汽車は満員で、立っている人もたくさんいた。窓の外を見つめているとテリィの姿が映っている様な気がして、また涙が溢れてきた。しばらくすると汽車が動き出した。びっくりした赤ん坊が泣きだすと、酒に寄った人が赤ん坊を怒鳴りつけた。窓から視線を声の方に移すと、若い夫婦が必死に謝っているのが見えた。彼らは裕福ではなさそうだったが、赤ん坊をあやす姿はとても幸せそうだった。
『あの、良かったらこの席を使ってください。奥様もお疲れでしょう。私は立っているのでどうぞ。』
気がつくと彼女は彼らに声をかけていた。お礼を言いながら彼女の席に腰をかけた奥さんと赤ん坊はとても喜んでいた。幸せそうな3人を見るとまた彼が思い浮かんできて辛くなった。
車内は混み合っていて、しばらくすると立っているのが苦しくなってきた。彼女はデッキに移動しようと考え、謝りながら外に出た。ガラスに映っていた彼と自分に訪れるはずだった、未来から目をそらして列車の扉をとじた。外は猛吹雪だった。もちろんそこに立っているのは彼女1人しかいなかった。瞳を閉じると彼の笑い声が聞こえた。彼女の涙は止まらなかった。
開いた瞳には彼が映っていた。ハーモニカを吹いている彼、馬に乗っている彼…。メイフィスティバルでダンスを踊る彼…。そしてさっきの彼らの様に寄り添う2人…。その腕には可愛い赤ん坊がいて…。
『テリィ〜!!!!』
彼女は声の限り叫んで崩れ落ちた。どんなに叫んでも、もう彼は戻ってこない。どんなに泣いても彼はもう抱きしめてはくれない。どんなに面白い事をしても彼はもう笑いかけてはくれない。どんなに彼を愛していても、この先どんなに長く生きていたとしても、もう二度と彼に会えない…。会ってはいけない!ふと自分の体が震えているのに気がついた。手袋の下で手がかじかんでいるのに気がついた。足先が冷たくなっているのに気がついた。それでも今は、吹雪の中にいる彼を見つめていたかった。
どれくらい時間が経ったのだろうか。彼女の意識は朦朧としてきていた。
『…ターザンそばかす…。』
『ほら、あそこに君の仲間がいるぜ…。』
テリィの声が聴こえてくる。彼がさっきより近づいてきている。低体温症による幻覚症状、幻聴症状だ、と冷静に判断するだけの力はあったが彼女にはもう移動する力は残っていなかった。あったとしても動かなかっただろう。彼にはもう二度と会えないのだから。彼の事をいつまでも見つめていたかった。幻覚でもいい、幻聴でもよかった。彼が広げている腕に飛び込んでしまいたかった。それでも職業柄、本能が彼女を抑えつけていた。彼の腕に飛び込んでしまえば死ぬことになる。看護婦という職業だからこそ、愛する人を一度失っているからこそ、命の重さは人一倍よく分かっていた。生きたくても生きられなかった人がたくさんいる…。マグレガーさんだって…。アンソニーだって…。もしも彼女が看護婦ではなければ、彼と一緒にいられたのかもしれない。自殺しようとするスザナをとめたとしても引き下がらなかっただろう。だが看護婦だったからこそ自殺までしようとした彼女の為に引き下がったのだ。そして彼の腕の中に飛び込もうとする自分を必死でとめる事ができていたのだ。彼女はそんな自分を少し恨んでいた。看護婦になんかならなければ楽になれたかもしれないのに…!そんな事を思っていたら神様から罰が当たる。分かってはいたが彼女は神様を、自分を少し恨めしく思っていた。神様は何故アンソニーを失った自分にこんなに苦しい試練を与えるのだろう。何の為にニューヨークまで来たのだろうか。何の為に自分達はすれ違ったのだろうか。何の為に彼と出会ったのだろうか。何の為に…!
『テリィ…。テリィ…テリィ…。』
何度も彼の名前を呟きながら気がついたら彼女は意識を失っていた。翌朝、汽車の車掌が彼女を発見した時も涙を流しながら彼の名前を呟いていた様だ。
彼女は彼と踊っている夢を見て静かに微笑んでいた…。彼女を迎えに来たアーチーは彼女の顔を見て、複雑な顔をしていた。彼女は悲しいニュースをまだ知らないのだ。そしてアーチーも彼女の悲しいニュースを知らない。彼女にはいつまでも笑っていて欲しい。アーチーは抱きかかえている彼女にそっと口づけをしてそっと彼女をベッドにおろした。