彼はふと目を覚ました。酷い悪夢を見ていた気がする。ものすごい汗をかいていたからだ。彼女が出てきて、胸が張り裂けんばかりに泣いていた事だけは覚えている。
『キャンディ…。』
彼女の名を呼ぶと彼は瞳を閉じて憂鬱そうにため息をついた。ベッドから起き上がりカーテンを少し開けると空はまだ暗かった。雪もまだやんでいない様だった。ゆっくりと時計を見るとまだ2時をさしている。このまま眠り就こうとしたがまた悪夢を見てしまう予感がした。
彼はこのまま起きている事にした。紅茶を入れると、ソファに座り込んだ。紅茶を飲みながら、暗い部屋の中を見渡して見ると月明かりに照らされたロミオとジュリエットのポスターが目に入った。
ポスターには彼女が落書きした文字が踊っていた。スザナ・マーロウの名前を消して、自分の名前を書いた時の彼女の嬉しそうな顔が思い浮かぶ。二度と帰さないつもりで彼女に送った片道切符。自分は父親の様にならない。愛する人と幸せになる、と思っていた数日前の自分に冷水をかけてやりたい気分だった。彼女を最後に抱きしめた時の温もりを思い出す。彼は彼女を離すつもりはなかった。もちろんスザナに対する責任は果たそうとは思っていたが、別の形で償おうと考えていたのだ。
彼女が帰る、と言った時に瞳に浮かぶ涙を見て、初めて彼女が自分から離れていく答えを出した事を知った。そして自分の考えが甘すぎた事に改めて気がついた。この重みから抜け出せない事には心のどこかで分かってはいたが必死に気がつかない振りをしていた。彼女と再会した時にはすでに別れへのカウントダウンは始まっていたのだ。彼は瞳を閉じると、頭を抱えて自分を責めた。できることなら心の扉も閉じてしまいたかった。
何故再会した時に彼女を抱きしめなかっただろうか。何故もっと素直にならなかったのだろうか。こんな事になるくらいなら…彼女を学院においてくるのではなかった。彼女が学生牢から出されるのを待って、隙きをみて彼女を連れ出して来ればよかった。幸い金には困っていなかったし、2人でアメリカに渡って一緒に暮していればよかった。それこそ生活が落ち着いたらスザナの事故よりも前に結婚できていたかもしれない。いや、いっその事出逢わなければよかったのだろうか。
『何言ってるのよ、テリィ…。会えただけで幸せよ。』
と彼女なら笑顔で言うのだろう。容易に想像できる。幾つものたらればが彼女との思い出や昨晩の出来事と共に彼を襲った。彼女を抱きしめた時に頬をつたった熱い涙がまた溢れてきているのに気がついたが、彼は涙を拭わなかった。自分の人生において彼女ほど大事な存在はこのさき現れないだろう。彼女ほど自分に影響を与えてくれる人は現れないだろう。彼はそう確信していた。
『キャンディ…。ターザン・そばかす…。』
彼女の名前を呟くと、またため息をついた。紅茶を入れ直す為にソファから立ち上がると、台所に向かった。彼はお湯が湧くのを待っている間、落ち着く事ができず部屋の中を歩き回っているとテーブルの上に視線がいった。彼女に貰ったハーモニカと開かれた台本、そして箱が置いてある。テーブルにむかうと彼は箱のふたを開けた。箱の中には彼女からの手紙が静かに眠っていた。彼は手紙を一枚手に取ると、ようやく部屋に明かりを灯した。そして箱を抱えてソファに戻った。お湯を沸かしていることも忘れ、彼女の筆跡を何度も指でなぞりながら手紙を読み始めた。そうしていると彼女が目の前にいる様な気分になるからだ。一枚、また一枚と読んでいるうちに、読めなかった彼女の手紙を思い出した。スザナに奪われて彼女の手紙は少ししか彼のもとに届かなかったのだ。届かなかった手紙の内容を直接彼女に聞く事も許されない今、彼は怒りをどこにぶつけていいか分からずに苛立ちを感じていた。そんな苛立ちを呑み込む様に紅茶の入ったティーカップを手に取ると、中身がないことに気がついて、ようやくお湯を沸かしていた事に気がついた。慌てて火を消しに行くと、たくさん沸かしたはずのお湯がかなり少なくなっていた。それでもお茶一杯を入れるだけのお湯は残っている。紅茶を入れ直して彼はソファに戻った。
『スザナ・マーロウ……か。』
恐らくこれから自らの妻となる女の名前を呟くと、腹立たしげに紅茶を飲み込んだ。
『結局アイツと同じになっちまったな。なんてこった。俺にもアイツの血が流れているってことか。とんだ災難だぜ。どうやら性格だけじゃなく運命も遺伝するらしい。皮肉なもんだな、テリュース・グレアム・グランチェスター。
お前はアイツと同じ道をたどって生きていくんだぜ。なんたる喜劇、なんたる傑作。さぁ、誰か笑ってやってくれよ、自分が軽蔑していた奴と同じ人生を歩むことになる人間の哀れな末路を。
愛する人と離れて、いつか愛してもいない人間の子供が生まれる。ソイツは俺と同じ様に父親を軽蔑して生きていくんだ。愛せない子供に冷たくして、義理で結婚した女に怒鳴られる人生が俺を待ち受けているんだぜ。ソイツも俺と同じ人間にはならないと誓いながらも結局は俺と同じ人生を歩んでいることに気がつくのさ。
“華麗なるグランチェスター家の悲劇の運命”、なんて題名の主人公がお似合いの人間になる。
何しろ名俳優ととんだ女優の血をいやでも受け継いでいる子供だからな。こりゃロングランに続くロングランになるだろう。なんせ親子3代子孫永代が犠牲になっているんだからな。』
彼は自嘲気味に、皮肉気に芝居がかった口調で自分に言い聞かせる様に笑いながら呟いた。スザナ・マーロウ。彼にとってスザナは相性のいい女優でしかなかった。スザナ自身の事は内心彼は嫌っていた。彼女の手紙を隠したり、彼女と会わせない様にホテルから追い返したり…。裏でこそこそと卑怯な真似をしていたスザナ。彼は曲がった事は嫌いだった。自分の父親の生き方を嫌っていた彼にとって、愛せない人と過ごさなければいけないのは苦痛でしかなかった。だがスザナを怪我させた責任を取らない訳にはいかなかった。愛と感謝は別物だ。
『スザナ・マーロウか。いつか愛せる様になるのだろうか?いや、愛さなければいけない。
彼女以上にスザナを愛せるのか?』
彼は自問自答を繰り返した。もちろん他の責任の取り方もあったかもしれないが、彼はスザナの足の代償として側にいる事を選択した。いや、選択せざるを得なかった。スザナの命を奪う訳にはいかなかったし、何より彼女が彼に別れを告げた事が決定的な理由だ。もちろん彼女の本心ではない事は分かっていた。だが彼女がしてくれた選択を、彼女の心を無駄にする訳にはいかなかった。溜息をつくと、彼は読み終わった大切な手紙を一枚一枚、愛しい彼女に触れる様に優しく手にとってゆっくりと箱にしまった。そしてまた部屋の明かりを落とした。
箱を机に戻すと、彼女に貰ったハーモニカが目に入った。彼はそっとハーモニカを手にとると、ベッドに座って静かにゆっくりと、音色を奏で
始めた。泣いている様な小さな音のメロディが部屋に響き渡る。実際に彼は涙を流していたが自分では気がついていなかった。ハーモニカを奏でている彼は微かに震えていた。
どれくらいハーモニカを奏でていただろう。少し部屋が明るくなってきていた。窓の外を見ようとカーテンを開くと雪は止んでいた。兎にも角にもまた彼の一日は始まる。溜息をつくと彼は紅茶を入れに台所に向かった。熱い紅茶を一口飲むと少し気分が良くなる。彼は初めての喪失感を味わっていた。熱い様なうるさい様な…、どうしようもない独特な胸の痛みを感じていた。