あの夜から10年が経った。彼は相変わらず俳優として活躍していた。マクベス、リア王、彼に何を演らせても恐ろしいくらい上手く演じると評判になっている。まるで役に取り憑かれているみたいだ、シェークスピアから祝福されている男、と世間はざわついていた。カメラマンは彼を四六時中追い回していたし、新聞に彼の名前が出ない日はなかったし、彼のブロマイドは出たらすぐに売り切れてしまうほどの人気俳優に成長していた。

 そしてスザナ・マーロウと婚約をして3年が経っていた。スザナは舞台脚本家兼ナレーターになっていた。スザナの書いた作品は舞台化されて若者から支持を集めていた。そんな彼らの同棲生活も8年になる。彼は婚約の話を理由をつけては断り続けていた。マーロウ夫人は彼が断り続ける理由を知っていたが、諦める訳にはいかなかった。毎度彼が断る度にスザナの足の事を責め続けた。

『テリュース、誰のせいでスザナは足を失ったのです?あの子は二度と舞台に立てないのよ。可哀想だと思わないのですか?それともあの子を見捨てると言うのですか?テリュース、貴方だけが頼りなのです。あの子を幸せにできるのは貴方だけなのよ。』

 彼はマーロウ夫人に責められると何も言えなくなってしまう。責任を感じてしまうからだ。それでもまだ彼女を諦められていなかった彼は
 
『失礼します。』

 とだけ口にしていつもマーロウ夫人の前から立ち去るのだ。彼は3年前に断る理由が見つからなくなり、渋々婚約を受け入れた。スザナは母親が、自分のいないところで婚約を催促しているのを知っていた。彼の瞳が誰を追いかけているのかも分かっている。スザナは彼の想いに気が付かないふりをしていた。それが彼等の優しさに答えることだと思っていたからだ。

 彼は行き場のない想いを昔は忘れようと努力していたが、今は無理に忘れる事をやめていた。
無理に忘れようとするより思い出と共に生きていく方がいい、と気がついたからだ。色んな愛の形がある。側にいる事だけが愛ではないのだ。側にいられなくても、彼の魂は彼女の隣にいた。そして思い出の中の彼女はいつだって彼に笑いかけている。彼はそれだけで幸せになれた。

『キャンディ…。』

 彼は瞳を閉じた。今夜は彼にとって1番辛い日になるだろう。そして彼女にとっても1番辛い日になるに違いない。3年という婚約期間を経て、今夜スザナにプロポーズをしなければいけないのだ。マーロウ夫人からの催促から永遠に逃げ続ける訳にはいかない。彼は諦めの中でまだ運命に抗おうともがいている自分がおかしく思えてきた。彼は彼女と別れてからいつかはこうなるだろう、と分かっていたのに。それを選んだのは自分だろう、と言い聞かせながら部屋を忙しなく歩き回っていた。スザナは少し開いた扉の間からそんな彼を見つめていた。