彼がしばらく歩き回っていると小さな物音が聞こえた。驚いて音のした方向を見るとスザナの車椅子が扉の間に見える。

 
『スザナ…?』
 
 彼が声をかけるとスザナが遠慮がちに扉の間から顔を出した。
 
『ごめんなさい、テリィ。あまりに忙しそうな足音が聞こえたから心配になって…。覗き見をするつもりはなかったのよ。』
 
 スザナの瞳が揺れた。不安な顔をしている。彼はごくりと唾をのんだ。言うべき事を言わなければいけない時が来たのだ。
 
『いいんだ、スザナ…』
 
 二人の間に重い沈黙が流れた。一言でも言葉を紡いだら糸が切れてしまいそうな空気だ。沈黙を破ったのはスザナだった。
 
『少しお邪魔してもいいかしら?テリィ。熱い紅茶を持ってきますわ。』
 
 彼は少し考えてから頷いた。
 
『スザナ、ありがとう。入ってくれ。』
 
 そう言うと彼は扉を開けてスザナの車椅子を押して部屋に招き入れた。また少し沈黙が二人の間に流れる。
 
『紅茶は僕がとってくる。君は少し待っていていてくれ。』
 
 そう言うと彼はスザナを残して部屋を出た。彼は少しでも長い時間をかけてゆっくりと紅茶を淹れたかった。少しでも自分の決断をスザナに告げる時間を伸ばしたかった。彼の頭は愛しい彼女で埋めつくされていた。彼女がこれから自分がする選択を知ったらどう思うのだろうか。笑って祝福をしてくれるのだろうか。それとも涙を流すのだろうか。
 
『キャンディ…。』
 
 
 彼は溜息をつき瞳を閉じた。心の中の彼女は微笑んでいた。ふとお湯が沸騰する音が聞こえた彼は急いで火を消しに台所に向かう。火を消して紅茶を入れるとクッキーを出してスザナの元へ向かった。その足取りは重かったが、彼の決心は揺らがなかった。彼女との約束は果たさないといけない。お互い幸せになる、と誓いあった。
 
 一方スザナは彼を待っている間落ち着かず、彼の部屋に置いてある色々な物を眺めていた。小さなテーブルの上には今シーズン彼が演じる劇の台本が置いてある。窓辺には小さな花瓶が佇んでいた。そして大きな本棚が我此処に在り、と言いたげにどっしりと存在感を出していた。分厚い色褪せたシェークスピア全集、語学の本、小説がズラリと並んでいる。ふと3段目の端に目がいく。3段目の端には本は置いていない。木箱の上に古びたハーモニカが置いてあった。そこだけ別の空気を纏っているかの様に感じる。色に例えるならば淡い水色、といった所だろうか。触れてはいけない様なオーラが漂っている。
 
『……キャンディね、きっと。あのハーモニカは彼が昔奏でていたものね。誰にも触らせなかったもの、あれも彼女からのものね。あの木箱も彼女からの手紙が入っているのね。テリィが大事にするのは当然よ。』 
 
 スザナは消えそうな声で呟いた。女の直感というものは恐ろしいほど鋭くなる時がある。瞳を閉じると今でもあの日の彼女が思い浮かぶ。涙が浮かんだグリーンの瞳、自分を引きずり下ろしてくれた時の力強い腕の力、悲痛な叫び声、優しい顔、震えていた肩…。彼女に感謝しなければいけないのに、今の自分が彼女に持ってる感情にスザナは戸惑っていた。別れてもなお、彼の心を掴んでいるのは彼女なのだ。あれ以来彼らが会っていないのは自分が1番分かっているのに、二人の愛が益々深まっている様な気がした。スザナの心は嫉妬で一杯だった。自分が二人の愛の犠牲の上に立って生きている事は重々承知の上だった。それでもいつかは、彼に見つめてもらえると思っていた。愛の犠牲の上ではなくて、本物の愛の中で生きていける日が来ると信じていた。それなのに彼女には永遠に勝てないとばかりに彼のハーモニカが光ってる。スザナの瞳に涙が溢れた。彼が見つめているのは彼女だけ。もし本棚が彼女と自分に倒れてきたら彼は迷わず彼女を助けるだろう…。彼らは離れても離れても、互いを求め続ける。まるで磁石の様に…。スザナは涙を拭った。
 
『遅くなってすまなかった。』
 
 彼が紅茶とクッキーをトレーにのせ、扉を開いて部屋に入ってきた。
 
『いいえ、気にしないで頂戴。ありがとう。』
 
 彼はトレーを静かに置くと、紅茶とクッキーをスザナの前に置き隣に座った。しばらくの間沈黙が続いた。 
 
『スザナ、話があるんだ。』
 
 ふいに彼が話を切りだした。彼の瞳がスザナを捉える。スザナは微笑んで彼の方を向いた。
 
『実は私もあなたにお話がありますの。』
 
 彼は驚いた顔をした。スザナは微笑んだままゆっくりと瞳を閉じた。
 
『テリィ、あなたのお話からお聞きしたいわ。お先に話してくださらないかしら?』
 
 彼は深呼吸をした。目の前のスザナを愛そう。
愛せる様に努力しよう。
 
『スザナ、色々感謝している。君がいなければ俺は今、ここにいなかっただろう。ここ10年間君とはいい関係を築けたと思っている。そんな君と俺はこの先の人生を歩みたいと思っている。スザナ、俺と結婚してくれないか。』
  
 スザナはしばらく間を置いて、返事をした。
 
『テリィ、私あなたと歩む人生をどんなに夢に見ていたか…。あなたと過ごす時間がどんなに楽しかったか…。とても幸せだった。今も幸せですの。でもね、テリィ。あなたと過ごす時間は楽しいのと同じくらい辛かったのよ。私は…あなたなしでは生きていられないけど、あなたといても生きていられないの。あなたの魂は、
彼女を追いかけていてよ。魂のないあなたと過ごすのは私は嫌。あなたがいつかは私を愛してくださると信じていました。でもね、あなたは私を通り越して彼女を見つめている。彼女には勝てないわ。テリィ、婚約破棄しましょう。』
 
 スザナは言い切ると、スッキリした顔で彼を見つめて微笑んだ。
 
 彼は驚いてしばらく声が出なかった。スザナの放った言葉の意味を理解すると、彼は思わず椅子から立ち上がってしまった。
 
『そんな…。君は本気で言っているのか?俺はあの日から彼女とは会っていない。君も知っていると思うが、俺は彼女ではなくて君を選んだんだ。確かにあの後絶望して、魂が抜けていた時期もあった。それでも今はちゃんとここに俺の魂は…』
 
『確かにあなたはここにいるわ。でもそれは…あなたではないのよ、テリィ。…私を愛そうと努力しているあなたの心ですわ。なんと言えばいいかしら。あなたの体とその努力している心は確かにここにあるの。でもあなたの魂…意識は彼女に向かっている、というのかしら?彼女を求めているのね。隠してもだめよ。テリィ、あなたは始めから彼女の事しか見てないのよ。それが分かっていて…私はあなたを縛りつけていた。あの日あなたは私を"選んだ”と言ってくださったわね。嬉しかったわ。でもね、それはあなたが私を選ばざるを得なかっただけよ。私があんな事をしなければ…。何度も後悔したわ。命を捨てようとするなんて馬鹿な事をしなければよかったのよ。彼女と離れれば私の事を見てくださる、と勘違いしていたのね。ついこの間までね、彼女を恨んだ事が何度かありましたの。私が私でいられなくなるくらい嫉妬で一杯で…私気がついてしまったのよ。…あなたといくら過ごしていてもあなたは彼女しか愛せない。彼女もきっと同じよテリィ。誰の側にいても心の中にいるのはあなただけなのよ。……あなたの本棚の3段目の端の木箱とハーモニカ、彼女からいただいたのね。すぐに分かったわ…。あそこだけ空気が違ったもの。触れてはいけない様なそれでいて熱い様な空気だったわ。』
 
 そこでスザナは一旦話を止めた。息を吸い込む
と半分自分に言い聞かせる様に瞳を閉じて静かに呟いた。
 
『もうあなたを縛りつけるつもりはなくてよ、テリィ。彼女の元へ行って頂戴…。私は二度と死のうだなんて馬鹿な真似はしないわ。思い出だけで生きていける。お母様には私から一方的に
婚約破棄した、ってお話するわ…。』
 
 彼は黙り込んでしまった。スザナに返す言葉が見つからなかった。二人の間にまた沈黙が流れる。
 
『…すまない、スザナ。君を幸せにすると約束したのに。あの日彼女ともお互い幸せになる、と約束したんだ。俺は君と、彼女は他の誰かと幸せになる、と。だが君が言うとおり俺は彼女を忘れきれてはいなかった…。あのハーモニカも、木箱も捨てることはできなかった。俺は君を選んだ。それは他でもない彼女が俺の背中を押してくれたからだ。これから先、君への責任をどうとればいいのか…。少しでも君の支えになれる方法があるならいいが…。君には本当に感謝している。あの日君がいなければ…。俺は本当に生きていなかっただろう。代われるものなら今からでもその傷を負わせて欲しいくらい申し訳けないと思っている。スザナ…』
 
『テリィ、その先は言わないで…。』
 
 スザナは彼が何を言おうとしているのかが分かっていた。
 
『私が婚約破棄を願っているのよ。私にだって愛される権利があると思わないかしら?報われない愛を一人で抱え続けるのは虚しくてよ…。そしてこの傷は名誉の傷だと思ってるわ。愛する人を守りきった名誉の傷よ。あなたを失うくらいなら、この足を失った事なんてたいしたことなかったのよ。テリィ…私、スザナ・マーロウはテリュース・グレアム・グランチェスターと…お別れする道を選びます。テリィ…、最後に1つお願いを聞いてくださるかしら…?』
 
 あまりにも静かな夜だった。満月が大きく輝いていて星が零れんばかりに光っている。彼は椅子から立ち上がった。スザナにたくさん言いたい事があったが、彼はあえて色々と言わない事にした。そして窓の外を見上げると…、彼はゆっくりと頷き、スザナの方を振り向いた。
 
『あぁ、もちろんだ。スザナ、俺にできることなら何でも言ってくれ。』
 
 スザナはテリィの顔をじっと見つめる。
 
『あのハーモニカ…。演奏してくださらない?あなたの音色が聴きたいわ。それから…どうかさよならは言わないで頂戴…。満足したら勝手にでていくわ。』
 
『なるべく早くここをでていくよ。スザナ…。今までありがとう。色々と感謝している。』
 
 彼は静かにハーモニカを手にとり、ゆっくりと奏で始めた。物悲しいメロディが別れの夜にぴったりだった。スザナの瞳に涙が浮かんだ‥。
 
『寂しい曲ねテリィ。それでいて…甘いメロディだわ。まるであの人の…キャンディのグリーンの瞳が浮かんで来るようだわ。あの冬の夜の…。彼女によろしくね。もう手放してはだめよ。』
 
 私が言えることでもないわね、スザナは小さく呟くと再び黙って音色に耳を傾けていた。しばらくすると満足したのかスザナは彼の部屋を出ていった。彼は、スザナが眠りにつけたであろう朝方までハーモニカを奏でていた。スザナは彼の優しさに感謝していた。