翌日、彼は昼近くになってからようやく目を覚ました。久々の休日だったのだ。重苦しい責任と辛い運命から解放された彼の目覚めは、実に爽やかだった。小鳥のさえずりが心地よく彼の耳に響いている。ブランチを取りながら自分のこれからの事を考えていた。出ていかなければいけない。しばらくは…ホテルで生活する事になるだろう。今すぐにでも、彼女がいるであろうポニーの家に向かいたいところだがまだ講演も残っている。この講演が終われば少し長い休みが取れる。彼女は今どうしているだろうか。希望に満ち溢れてた彼は上機嫌だった。食事も終わりに差し掛かった頃、ふと扉を叩く音がした。
『テリィ、起きていらっしゃるかしら?』
スザナの声だった。彼はゆっくりと立ち上がると扉を開くとマーロウ夫人がスザナの車椅子を少し動かしていた。
『おはようございます、テリュース。スザナがあなたに話があるというので連れてきました。私も後であなたに話があります。』
『マーロウ夫人…、おはようございます。僕もあなたにお話したい事があります。とりあえずスザナと2人にしていただけますか?』
『ママ、私からもお願い。テリィと2人にしてちょうだい。とても大事な話なの。』
『スザナ…あなたがいいなら私は出ています。テリュース、スザナを頼みましたよ。』
『ありがとうございます、マーロウ夫人。ではまた後ほど…。』
『テリィ、ごめんなさいね、忙しいでしょうに。お食事中でしたのね。あなたが出ていく前に、お返ししなくてはならない物がありますの。』
彼の椅子の正面にスザナの車椅子を固定すると彼も椅子に座った。
『いいんだ。俺の荷物は少ないから。それに食事も終わろうとしていたんだ。それより君の俺に返したい物って?紅茶かコーヒーは?』
スザナは少し躊躇いながら話し始めた。
『いいえ、結構よ。ごめんなさいね、テリィ。お返ししなければいけない物はこの箱の中にありますの。あなたへの想いがたくさん詰まった彼女の手紙ですわ。本当にごめんなさいね。本当はもっと早くお返しするべきだったのに。なかなか勇気が出せなくてあなたにお返しできなかった。いいえ、言いわけなんかしては駄目ね。…あなたから彼女の手紙を取り上げても、あなたの想いが私に向く訳でもないのにね。あの頃の私がどうにかしていたのよ。長い間ごめんなさいね。彼女にも謝らないと。この手紙を彼女に渡してくださるかしら?』
スザナから箱と分厚い手紙を受け取った彼は、そっと箱を開けると1通1通手にとった。その顔は穏やかで、愛しげな表情をしていた。スザナは彼のこんな表情を見たことがなかった。20通、いや30通はあるだろうか…。開封されていない封筒には懐かしい彼女の字が踊っている。彼は自分でも無意識のうちに微笑んでいた。
『スザナ、ありがとう。当時の俺ならこんな事言えなかっただろう…。だが今の俺は感謝しているんだ。読めるはずのなかった彼女の手紙が今、こうして俺の手の中にある…。君から足を奪ってしまった俺に君は自由を与えてくれた。だから謝らないでくれないか?君は俺に手紙を返してくれたが、俺は君に足を返せないんだ。そして同時に奪ってしまった女優生命も…。』
『いいえ、そんな事…。』
彼を見ると笑顔から辛そうな表情に変わっていた。やはり彼は責任を感じずにはいられないのだろう。
『テリィ、昨日も言ったでしょう?私の失った足はあなたを守れたという勲章ですのよ。確かにあの時片足がない、女優生命が絶たれると聞いた瞬間は死んでしまおうかと思ったわ。実際に自殺を図りましたもの。でもそれと同時にあなたも彼女を失ったわ。だから同じなのよ、もう責任は感じなくてもよくてよ。私は義足を手に入れてナレーターとして、舞台脚本家として、生きているわ。そしてあなたも、彼女との未来に進み始めた。だから私があなた宛ての手紙を奪った事については、また別の話よ。あなたは責任を感じては駄目よ。申し訳ない、と謝るのは私だけでいいの。』
『ありがとう。』
彼はそれでもまだ申し訳なさそうに微笑んでいた。スザナは彼との別れの時間が刻々と迫っているのに気がついた。まだもう少しだけ彼の側にいたい…。泣きそうな気分になっていた。
『テリィ、テリィ…。これで最後ですのね。これでお別れなのね。あなたに出逢えてよかった。私は幸せだった。楽しかったわ…。最後に1つだけ、聞いてもいいかしら?彼女はあなたにとって…どんな存在なの?あなたと彼女の話をお聞きしたいわ。』
彼は少し考え込むとゆっくりと立ち上がって窓まで歩いていった。窓辺に腰を掛けながら、話を始める。
『俺にとって彼女の存在は太陽で、愛を教えてくれた人だ…。ターザン・そばかす、俺はよく彼女をからかってこう呼んでいた。彼女とは、とある…』
彼はスザナに話せる限りの事を話した。自分の生い立ちや過去、彼女との出会い、アンソニーの存在、彼女の生い立ちや過去、彼女の人柄、彼女の従兄弟達との喧嘩、自分を変えた出来事、2人で過ごしたセント・ポールの日々、彼女との1度目の別れ、自分がどんなに荒れていたか…。
スザナはこんなにも熱く語る彼を初めて見た。いつもの無口さが嘘のようだった。もちろん、必要な事は話してくれるし、ちょっとした雑談や世間話もしてくれるし、話しかければ答えてくれる。ただ言葉少ななのだ。彼から何かを、こんなに熱く語られた事はない。スザナは自分が彼をそうさせていたのだ、と気が付いた。彼の本来の姿はこんなにも明るくて輝いているではないか。彼女といる彼はきっと、いつもこんな感じなのだろうか、とスザナは思った。相槌を打ちながら、彼女の過去の話を聞いてるスザナは自分でも気がつかないうちにカタカタと震えていた。彼はそんな辛そうなスザナを初めて見た。スザナは、彼女がどれだけ辛い想いをしてきたのだろうかと考えていた。もし自分が彼女だったとしたらあの時に彼を譲る事ができただろうか。いや、きっと譲る事はできなかっただろう。もし自分が彼女だったら、あの日の自殺を止めていただろうか。いや、自分の幸福の為に見て見ぬふりをしてしまうだろう。自分が選んだ選択で…足を失ったのにそれをだしにして、彼を手に入れた卑怯者なのだから。もしあの日に戻れるのなら自分を説得して、彼を引き止めるのをやめさせたい。彼女に辛い想いをさせた人の中に自分がいる事が許せなかったのだ。
彼はふと黙ってスザナを見つめた。スザナには辛い話だったかもしれない。しばらく重い沈黙が流れた。
『テリィ、あなたがよければ続きが聞きたい。あなたと彼女の話、とても素敵ですもの。』
スザナは優しい顔をしていた。自分の葛藤が顔に出ていた事に気がついたのだ。彼女の話が聞きたいと言ったのは自分だ。自分が知らない彼の話が聞けるだけで幸せではないか。彼女も彼とこれから幸せになるのだから、過ぎた事を自分が責めていても仕方ない。彼女はこう言ってくれるだろう。もう自分を責めるのはやめて、当たり前の事をしただけなのよ、と。
『君は俺の話を聞いていて辛くないのか?俺は君が辛そうな顔をしていたから…』
『そうね、辛いことは辛いですわ。でもそれは自分が過去に犯した罪と向き合っているからであって、あなたのせいではなくてよ、テリィ。あなたは優しすぎるのね。こんな私が辛い顔をしていたからって気を使ってくださるなんて…。あなたのそういう所にきっと私は惹かれたのよ。私は自分の知らないあなたのお話が聞けて幸せですわ。気にしないでちょうだいな。』
彼は少しスザナを見つめた後、ゆっくり続きを話し始めた。
『彼女の従姉妹のイライザには…』
スザナはまた彼の話に耳を傾けた。穏やかな気持ちだった。これが彼と過ごせる最後の時間なのだ、と思うと悲しいけど幸せな気分になる。さっきの泣きそうな気分から抜け出せたのだ。これで彼がいなくなっても生きていける。彼の話してくれた彼の思い出を忘れない様にしよう。彼と彼女の居た空間に少しだけ触れられた気がした。
彼は長い話を終えると西日が差し始めた部屋を見渡して、最後にスザナを見た。
『君がくれたチャンスには感謝をしているよ。俺はもう一度、未来に向かって歩き始める事ができる。キャンディはもう別の誰かと違う人生を歩み始めているのかもしれないが俺は諦めてはいない。だがもし…』
『テリィ、その先は言っては駄目よ。あなたの事だから…もしキャンディが違う人生を歩んでいたら、私の責任を取らせてくれって言いたいんでしょう?駄目よ、そんな事言っては。あなたは10年経っても変わらずに、より深い想いで彼女を愛していらっしゃるじゃないの。彼女もきっと同じはずよ。あなた達の絆は、あなた達の想いは10年やそこらじゃ変わらないわ。私も…あなたが行った後、今度こそ生涯を共にできる人を探すつもりなのよ。私を愛してくれて…心から愛せる人を。きっといい人だわ。優しくて、私を幸せにしてくれる…。だからあなたも責任なんて感じずに彼女とお幸せになってちょうだいな。』
伊達に10年も婚約者でいた訳ではない。彼の言いたい事くらいは分かるようになっていた。
『ははは、いつの間にか君も俺の言葉が読める様になっていたんだな。ありがとう。君なら…きっと俺よりもいい人が見つかるだろう。君の隣に来る人は誰よりも素敵な人なんだろう?』
彼は久しぶりに声に出して笑っていた。彼の笑顔を瞳に焼きつけると、スザナも笑い返した。
『ええ、その通りよ。誰よりも素敵で…誰よりも愛情深くて、誰よりも格好いい人ですわ。いつか何処かで、あなた達にお会いした時にあなたも彼女も悔しがるくらいの人よ。その時は私達…、いい友人になっていたらいいわね。…テリィ?いつの日か私の書いた脚本を、あなたが主演で演じてくださるかしら?』
彼は笑顔でスザナを見つめた。スザナも笑顔を浮かべていた。
『あぁ、是非。俺達はきっといい友人になれる。君の脚本を俺が主演で演じる時は、もちろん君がナレーターもしてくれるんだろう?』
『もちろんよ、私の作品ですもの。私達、あの日のロミオとジュリエットみたいに息がピッタリと合いますわね。きっと…。テリィ、さようなら。次はお互い笑顔でお会いしたいわ。』
『スザナ、ありがとう。さようなら。最後に君を部屋まで送らせてくれないか?』
そういうと彼はスザナの車椅子のもとへ歩きだした。スザナは黙って頷いた。背後に彼の気配を感じる。もう見る事はないであろう彼の部屋を見渡すと、瞳を閉じた。これが本当に最後だ。彼は気を使ってなのかゆっくりとスザナの部屋へ向かった。部屋に入るとスザナを抱き上げてベッドに寝かせる。これが最後の彼の温もりだと思うと、また涙が出そうになった。ゆっくりとスザナに布団をかけると彼は少し躊躇いながら左手を差し出した。
『本当にありがとう。スザナ、君には感謝しかないんだ。君の活躍を遠くから祈ってる。』
スザナは彼の左手を両手で包んで頷いた。
『こちらこそ本当にありがとうございました。辛い想いをさせてごめんなさいね。あなたの活躍を祈ってますわ。彼女とお幸せに…。』
スザナの言葉を聞くと彼は静かに頷いて…、部屋を出ていった。カタン、と扉がしまる音がスザナの部屋に響く。遠のいていく足音に耳をすませ、その音が聞こえなくなると静かに瞳を閉じた。時計の動く音だけが響くスザナの部屋で西日だけがスザナの涙を見ていた。
彼は部屋に戻るとため息をついた。それから、電話を手にとると彼女が泊まっていたホテルにかけた。無事に予約がとれた事を確認すると、荷造りを始めた。と言っても彼の荷物は少ない。スザナがくれた箱、彼女からの手紙の箱、衣類にハーモニカ、シェークスピア全集に小説、語学の本が数冊。もともと衣類は半分以上、劇団に置いてあったから衣類は少ない。小説や語学の本はいくつか選びだした物で、最終的には大きな旅行かばん2つにまとまった。他のものは残ったマーロウ夫人に任せる事に事にしよう。ちょうど彼の荷物がまとまった頃、扉を叩く音がした。
『テリュース、少しお邪魔しますよ。』
扉を開けると予想通りマーロウ夫人が立っていた。
『マーロウ夫人、お入りください。』
彼はマーロウ夫人をソファに案内した。
『紅茶かコーヒーどちらがよろしいですか?』
『どちらも結構です、テリュース。あなたにお話があります。あなたもお座りなさい。』
彼はマーロウ夫人の前にあるソファに、腰を下ろした。マーロウ夫人の怒りが頂点に達しているのが分かる。
『スザナから話は聞きました。…テリュース、あの子から別れを告げられたそうですね?』
彼は静かに頷いた。彼はマーロウ夫人の怒りが自分に向かうのは当選の事だと思っていた。昨日のスザナの言葉は自分が言わせたのだから。自分がマーロウ夫人でも、愛する娘にあんなことを言わせた自分に腹を立てるだろう。
『どうして、何故あの子を愛してあげなかったのです?あの子はあんなにあなたの事を愛していたのに。片足を犠牲にしてまであなたを助けたあの子を何故見捨てていくのです?誰のおかげで今のあなたがいると思ってるんですか!』
『申し訳ありません、マーロウ夫人。』
彼は何を言われても仕方がないと思っていた。
『あの子がどんな思いで、どんな気持ちであなたを見つめていたか!あれだけプロポーズをしろと言ったのに!あなたは一生あの子を背負って生きていくべきなのに!あんな女のどこがいいんですか!あんな女より…』
彼は何を言われても受け止めよう、と思っていた。何を言われても仕方がない、彼女の怒りは当然だと。彼は自分の事ならいくら言われてもよかった。だが彼女の…キャンディの事を侮辱されるのは許せなかった。彼が黙っている間にもマーロウ夫人は彼女を侮辱し続けていた。
『お言葉ですが、マーロウ夫人。あんな女、と仰るからには!彼女の事を…キャンディの事をよくご存知なんですよね?そもそも!あなたに彼女を侮辱する権利なんてありません!ご自分の立場を理解していらっしゃらない様ですね…。あなたがここまで理解ができないお方だとは…。あなたは彼女に感謝するべき立場だ!お言葉を返す様ですが、誰のおかげでスザナは生きているのでしょうか?誰のおかげでスザナは立ち直れたのでしょうか?キャンディには何の罪もない。むしろあなたの毒に侵された被害者だ!僕は…スザナには感謝していますが、あなたには怒りしかないみたいです。あなたの精神的攻撃は脅迫めいたものだった!それとも…人の気持ちは、そう簡単に変わるものではないと分からない程あなたの頭は!幼稚でちんけな我楽多ばかりでできているんでしょうか。あなたの言ってる
"あんな女"でさえスザナの気持ちが変わらないと理解して身を引いたというのに!あなたは、僕の気持ちも変わらないという事が理解できないのですか?スザナが背中を押してくれたから僕はようやく本来進むべき道を進む事ができるのです。プロポーズ?したら断られましたよ。もう償いは十分しました。この10年間スザナの側にいました。彼女の治療費、生活費全て僕が支払っていました。…感謝と愛は違うんです。何故スザナを愛せなかったかって?愛せるなら僕だってスザナを愛したかった。愛してみようと努力はしましたが、愛せないものは愛せない。スザナが僕を愛し続けた様に僕もキャンディを愛し続けてしまった…。それだけです。』
途中…マーロウ夫人が反撃してきたが、彼は勢いで言い切ってしまった。マーロウ夫人の顔を見ると怒りで顔が真っ赤になっていた。あまりに酷い言いようだったからだ。それはそうだろう。それでもキャンディの事を侮辱するのが許せなかった。彼は自分が言った事を後悔してはいなかった。
『誰の頭が幼稚でちんけな我楽多でできているですって?テリュース、口を慎みなさい!』
マーロウ夫人は、彼にこれ以上言い返す事ができなかった。他は全て正論に聞こえたからだ。ただただ娘が可愛いばかりに…スザナを助けてくれた彼女の事をあんな女、と言ってしまった。スザナの為によかれと思って言っていた言葉が脅迫めいたもの、だと言われるくらい酷い言葉だったとは思いもよらなかった。他にも彼の色々な言葉について彼女は考えていた。
『マーロウ夫人、それでも僕はあなたに謝る気はありませんよ。あなたは彼女を侮辱した…。僕はスザナに感謝はしていますが、愛しているのはこれまでもこの先も彼女1人です。例え彼女が、もう別の人と違う人生を歩んでいたとしても…。僕には彼女しか考えられないのです。スザナが背中を押してくれました。プロポーズをしたら『私は…あなたなしでは生きていられないけどあなたといても生きていられないの。あなたの魂は彼女を追いかけていてよ。魂のないあなたと過ごすのは私は嫌。』と…。スザナはこうとも言ってくれました。"あなたは始めから彼女の事しか見てないのよ。それが分かっていて…私はあなたを縛りつけていた。あの日あなたは私を…"選んだ”と言ってくださったわね。嬉しかった。でもそれはあなたが私を選ばざるを得なかっただけよ。あなたといくら過ごしていても、あなたは彼女しか愛せない。彼女もきっと同じなのよ、テリィ。誰の側にいても心の中にいるのはあなただけなのよ。私が婚約破棄を願っているのよ。私だって誰かに愛される権利があると思わないかしら?報われない愛を一人で抱え続けるのは虚しくてよ。この傷は名誉の傷だと思ってるわ。愛する人を守りきった名誉の傷よ。あなたを失うくらいなら、この足を失った事なんて…たいしたことなかったのよ…。"と。スザナにこの言葉を言わせてしまったのは僕です。スザナには申し訳ないと思っています。ですが、スザナの言う通りなのだと僕は思いました。別の道を行くとしてもスザナと僕は同じ世界にいます。演劇という世界です。僕はスザナに感謝しながら今後の人生を歩みたいと思っています。』
マーロウ夫人は彼の意志が変わらないという事を悟った。何を言っても彼はここを出ていく。ため息を付くと、彼の目をじっと見つめた。
『分かっていました。あなたに他に愛する人がいることは…。私とスザナが、あなた達の未来を奪ってしまった事も。スザナの片足がなくなったのは不慮の事故であなたのせいではない事も、スザナが咄嗟にあなたを突き飛ばした事も…。そしてあなたには何の非もない事も全部。彼女も何も悪くありません。あなた達はスザナと出会う前から愛しあっていて、特別な関係だった。私はただ娘が可愛いばかりにあなたに八つ当たりをしてきてしまいました。…責任のないあなたを酷い言葉で縛りつけて、命の恩人である彼女をないがしろにした挙げ句…逆恨みして侮辱までしてしまって。ごめんなさい、彼女…キャンディさんにも申し訳なかったと伝えてください…。あなたの気持ちが変わらない事は…よく分かりました、テリュース。スザナが選んだ決断です。あなたとスザナの意志を尊重しましょう。』
『マーロウ夫人、こちらこそ…大事なお嬢さんを傷つける事になり、申し訳ありませんでした。ご理解頂いてありがとうございます。僕は今すぐにでも出ていきます。準備はできているので…。残った本や家具は、必要なければ捨てて下さい。長い間お世話になりました。』
彼はソファから立ち上がって、旅行かばんを手に持つとマーロウ夫人に一礼をした。この部屋も見納めだ。幾晩苦しい夜を過ごしただろうか。幾日彼女の事を考えていただろうか。幾年辛い運命をこの部屋で呪ったことか…。今となっては全て懐かしい。たった昨日まで苦しんでいた事が嘘の様だった。彼は晴れやかな表情をしていた。ようやく人生の再スタート地点に立てたのだ。
『テリュース、さようなら。スザナを長い間、ありがとうございました。あの子の分までどうか舞台を楽しんで下さい。あなたの事をスザナと…応援しています。』
そう言うとマーロウ夫人は部屋を出ていった。彼も静かに扉を閉めると、マーロウ夫人の後に続いた。
スザナは2人分の足音を静かに聞いていた。彼がここを通る事はもうないだろう。出ていく彼の足音を最後まで聞き漏らすまい、と静止画の様に固まっていた。スザナは頬につたう熱い涙を拭う事もせずに彼の足音が聞こえなくなると出窓を開けた。彼が母親と共に出てくるのが分かる。
『マーロウ夫人、ありがとうございました。』
『テリュース、体に気をつけて下さい。』
彼はマーロウ夫人が扉を閉めるまでは、頭を下げていた。門を出る前に一度だけ振り返ると窓からスザナが彼を見つめていた。
『お元気で。』
声は聞こえなかったものの、スザナの言葉は彼に伝わった。彼は頷いて見せてから
『君も元気で。』
とスザナに分かるように口を動かした。スザナは彼が前を向くと、彼の名を呼びながら抑えていた声をしぼり出す様に泣き始めた。スザナは、彼が見えなくなるまで後ろ姿を見つめていた。彼は最後にマーロウ邸を見つめるとゆっくり一歩、また一歩と踏みしめるように歩きだした…。もう外は薄暗くなっていたが、彼の心は明るく澄み渡っていた。