彼がホテルについたのは19時頃だった。

『ようこそおいで下さいました、グレアム様』

 部屋に案内されると見覚えがある番号だった。彼女が…キャンディが泊まっていた部屋だった。彼はキャンディが泊まっていたホテルを、予約していたのだ。まさかキャンディが泊まっていた部屋に泊れるとは…。この偶然は彼を喜ばせた。

『ありがとう。』

『明日はどうなさいますか?』

『しばらくこの部屋にいるから大丈夫だ。朝食もいらない。』

『かしこまりました。ごゆっくりどうぞ。』

 ホテルの従業員が部屋をでていくと、軽めの夕食を取りに出かける準備をした。行きつけのレストランでサラダとスープを食べると、酒屋に寄ってウイスキーを買って部屋に戻った。

『キャンディ…、今日は祝杯だ。』

 窓を開けて星空を仰ぎながら、彼は一人酒を楽しんでいた。あの日以来…ロックタウンで彼女を見た日以来の久しぶりの酒は美味しかった。学生の時から酒はよく呑んでいたが、こんなに美味しい酒は初めてだった。彼女にどうやって連絡をとろうか。突然ポニーの家に行ったら、どんな顔をするのだろう。いや、もうポニーの家にはいないのかもしれない。キャンディはもう誰かと幸せになっているのだろうか。それでも関係ない、もしそうなら昔の友人として…いや、キャンディならまだ待っていてくれるはずだ。約束はしていないが大丈夫だろう。彼は一人で百面相をしながら考えている。彼女の事を考えているだけで彼は自分が満たされていく気がしていた…。ウイスキーの瓶が空になる頃、彼は
テーブルに突っ伏して深い眠りについた。彼が翌朝、目を覚まして二日酔いになっていた事は言うまでもない。だが、重い頭を抱えて劇場に向かう彼は上機嫌のままだった。あと一週間で『ロミオとジュリエット』は終わる。そしたら休暇を使って彼女に会いに行こう。

 劇場に着くと、彼を団長が待っていた。

『おはよう、テリュース。』

『おはようございます、団長。お話があるので…後でお時間いただけないでしょうか?』

 彼は団長の瞳を懇願する様に見つめた。団長は彼の真剣な眼差しを見て頷くと、

『みんな、聞いてくれ。彼と話があるから稽古を先に始めていて欲しい。彼の代役は…そうだなマークに頼む。』

 と周りにいた役者達に言った。彼の長年の仲間であるカレン・クライスが心配そうな眼差しを向けて来た。彼は心配ない、とカレンに微笑んでみせた。カレンは彼の数少ない友人の一人で、スザナと同棲している間もキャンディとの事を応援してくれていたのだ。

『テリュース、少し出ることにしよう。近くの喫茶店で話を聞こう。』

 そう言うと団長は彼を連れ喫茶店に向かった。朝の誰もいない喫茶店は静かで何かを話すにはちょうどいいのだ。コーヒーを2つ注文すると団長は彼が話し始めるのを静かに待っていた。

『団長、お時間頂いてありがとうございます。ご迷惑おかけして申し訳ありません。』

『いや、いいんだ。君が話をしたいというのは珍しい事だからね。スザナの事かな?』

 彼は頷いた。団長はスザナと彼の事をいつも気にかけてくれていた。事実、団長は心配そうな顔をしている。彼は団長に話したらどんな言葉を言われるのかと考えていた。

『僕はスザナと婚約破棄をする事にしました。』

 彼の言葉を聞くと団長は目を丸くして驚いた。

『なんだって?本当なのか?』

 彼は団長の顔を恐る恐る見た。団長は複雑そうな顔をしている。

『テリュース、色々と聞きたい事がある。順を追って話してくれないか?』

『もちろんです。団長。僕は一昨日マーロウ夫人に迫られて、スザナにプロポーズをしました。団長もご存知の通り…僕がスザナの女優生命を絶たせてしまったので…。』

 団長は暗い顔をしていた。彼の瞳を見つめると残念そうに口にした。

『スザナ・マーロウ…。彼女も将来有望な女優だった。あれは不慮の事故だ。何度も言うが、君のせいではない。誰も悪くないんだ。』

 彼も頷くとまた話し始めた。

『何度あの事故がなかったら、と思った事か。僕もスザナも苦しむ事はなかったんですから。僕はスザナに感謝はしていましたが愛する事はできなかったのです。なぜなら…他に愛する人がいたからです。凍りついていた僕を…溶かしてくれた人で、僕をこの道に進ませてくれた人なんです。その女性と僕は結婚するつもりでした。その女性をあの事故の時に、もう二度と返さないつもりで呼び寄せていたんです。もしもあの時事故が起きていなければ、僕たちは結婚していたでしょう。ですが事故の後でスザナが起こした自殺未遂により、僕たちは引き裂かれました。僕は自分を庇ってくれたスザナへの償いとして側にいる事を誓いました。引き裂かれた彼女の願いでもあったので…。離れれば彼女の事も、忘れられるだろう、と思っていました。でも…日に日に彼女への想いは、募るばかりでした。団長もご存知の通り…、僕は苦しくて失踪してしまいました。ロックタウンにある小さなぼろぼろの芝居小屋で酒に酔いつぶれながら、芝居をしていたある日…彼女、キャンディが見えたんです。彼女は泣いていました。本人なのかも分かりませんが僕は彼女の姿を見て、立ち直る事ができたんです。それからは団長のおかげで今日までこの劇団で働かせていただいています。ですが、僕はマーロウ夫人による結婚の催促をずっと何かしら理由をつけて断ってきました。やはり彼女が忘れられなくて…。ですが今回はもう断る理由が見つからなかったので、諦めてスザナにプロポーズをしました。ですがスザナに断られてしまいました。僕の魂が彼女ではなくキャンディに向かっている、と。そんなあなたといても虚しいだけだ、と言われました。』

 団長は彼が話している間、複雑そうな表情をしたりしていたが、最後は納得した顔をした。

『スザナも納得しているのならいいんだ。君は始めからあの子にも、他の子にも興味がなかったから心配していたんだ。しかしよくもまぁ…。君もスザナも10年間一途に想い続けていたものだな。君が10年間も心変わりしなかった彼女に会ってみたいよ。』

 彼は少し笑いながら、団長を見つめた。

『いつか…是非。と言いたい所ですが、彼女が今どこで誰と何をしているのかも分からないのです。彼女はもう独身ではないのかもしれないですし…。何もかも今から始めなければいけないのです。団長、そこでお願いがあります。この舞台が終わったら…少し長い休暇を頂けないでしょうか?僕はこの休暇の間に彼女を探して、できれば彼女をこちらに連れてきたいと思っています。』

 団長は少し考えると、頷いた。

『もちろんいいだろう。2週間程度なら問題はない。ゆっくりと彼女を探してきなさい。そして君が新たな収穫を得て来ることを期待している。君が帰って来た時にどんな話が聞けるか、楽しみにしているよ。』

 団長は彼を息子の様に思っていた。彼が失踪した時も誰よりも心配をしていたし、スザナを彼が愛していない事も分かっていた。もちろん団長にとってはスザナも、娘の様な存在だった。だからそんな2人が結ばれてくれれば嬉しいと思っていたが、団長は彼が望んでいない婚約をする事に内心反対していたのだ。そしてスザナには、別の誰かと幸せになってほしいと望んでいた。団長はスザナが彼をどんなに愛しているか知っていた。また彼がある時間になると、毎日そわそわとして郵便物を受け取りに行っていることも…。なんとなく彼に想い人がいることも察していた。複雑そうな顔をしていたのは彼の10年にも及ぶ辛い恋心とその心境について想像していたからだ。団長は2人が納得する形で別の道を行くことを心から喜んでいた。目の前にいる幸せそうな彼を見ていると団長まで幸せな気分になっていた。

『そろそろ戻ろうか、テリュース。君の愛しい彼女も喜んでくれる様に最高の舞台を作ろう。今の君なら最高の演技ができるだろう。私は君に期待しているよ。』

『団長、ありがとうございます。期待を裏切らないように努力します。お時間頂いてありがとうございました。』

 彼がそう言うと、団長は席を立った。彼も後に続いて席を立つと稽古に戻った。希望に満ちた彼の演技は今までのどの瞬間よりも輝いていて誰よりもいい味を出していた。彼女にもうすぐ会えるかもしれない。彼はそんな期待を胸に、稽古に励んでいた。