あの夜から10年の月日が経った。彼女は今、一人でレイクウッドの屋敷に住んでいる。つい最近、ポニー先生が亡くなってしまった。レイン先生はまだポニーの家で、シスターをしている。つい最近までマーチン先生の手伝いをしながら彼女もポニーの家で過ごしていたが、ポニー先生が亡くなってしまった事ですっかり意気消沈してしまったのだ。そんな彼女を見兼ねたレイン先生とアルバートさんが、しばらく一人で休める様にレイクウッドのお屋敷に連れてきたのだ。たまにアニーやアーチー、パティが遊びに来るが彼女は意外にも静かな環境を好んでいた。彼女はアンソニーの薔薇園で、今日も薔薇の手入れをしていた。
『スウィートキャンディ…。アンソニーがつけてくれたのよね…。懐かしい。ねぇ、アンソニー。私は戻って来たのよ。それなのにあなたは戻って来ないのね。あ、駄目よ!キャンディ、あなたは笑ってなくちゃ。丘の上の王子様もそう言ってたじゃないの!』
彼女はもう二度とこのお屋敷に戻る事はないと思っていた。今は亡くなってしまったステアの発明したボートもあの時のまま残っているし、何よりアンソニーの影があっちにもこっちにも見えるだろう。彼女には、この思い出が多すぎる屋敷は重すぎた。この薔薇園や、サンルーム、森、そしてアンソニーの部屋、大広間、そして彼女が使っていた部屋にも、アンソニーの影が見えるのが想像できた。もしもあの事故を綺麗さっぱり何もなかった事にできたら…、と何度思った事だろうか。彼によって払拭されたはずの馬への恐怖も、最近また恐ろしく感じるようになってきていた。ふとした瞬間に思い出すのだ。馬の嘶き、スローモーションで馬から落ちていくアンソニーの姿や自分の泣き叫ぶ声…。幻覚、幻聴だという事は分かっているが彼女はあの時の恐怖に支配されていた。いい意味でも悪い意味でも、思い出が多すぎるこのお屋敷に戻ったら彼女は自分が駄目になってしまうと思っていた。事実、彼女はこのお屋敷に連れて来られた時に辛すぎてアルバートさんにすがりついて泣いてしまった。だがアルバートさんに、気晴らしになるだろう、と言われてしばらくこのお屋敷に留まる事にしたのだ。始めはアンソニーの影に惑わされていた彼女も今では落ち着いて一人の生活を送っている。
薔薇の手入れが終わると、彼女は森に散歩に出かけた。今はもう誰も住んでいないラガン家の馬小屋が見えてくる。
『シーザー、クレオパトラは元気かしら?』
ふふ、と笑いをこぼすと彼女は久しぶりに、お転婆をしたくなった。長い金髪の巻き毛を、昔のツインテールに結うと彼女は近くにあった木に手をかけた。久しぶりのターザンは、とても気持ちよかった。昔ステアが木から落ちた時の事を思い出して、彼女は久しぶりに声に出して笑った。木から木へ飛び移る彼女は、レイン先生に見られたら怒られるな、と思いながら久しぶりの快感を楽しんでいた。どうやら昔の腕は鈍っていなかった様だ…、と油断していたらバランスを崩して彼女は木から落ちてしまった。
『いたた…。はぁ、ターザンガールもそろそろ引退かしらね?残念だわ。もう少し続くものだと思っていたのに。流石の私も、もう駄目なのね。キャンディス・ホワイト・アードレー、あなたはもう立派なレディなのですよ。慎みなさい!』
その時うしろからガサガサ、という音がした。
『テリィ?』
彼女は木から落ちてしまった時、内心彼の事を考えていたのだ。ターザンガール…と言った時、ターザン・そばかす…と彼のからかう声が頭の中に響いたのだ。彼女は彼の事を忘れていた訳ではない。心のどこかでいつも彼の事を考えていたのだ。声に出した彼の声がひどく懐かしく感じる。いるはずのない彼がそこにいる気がしたのだ。彼が隣にいてくれたなら…と考えていた。ポニー先生は生きている時によく
『キャンディ、あなたとグランチェスターさんがが結ばれてくれれば…。』
と言っていた。その度に
『ポニー先生、私は大丈夫です。それに彼にはスザナがいます。私は彼を引きずってないし、一人でも生きて行けます。』
と答えていたのだ。そんな彼女の心境を知ってか知らずか、いつもポニー先生は
『キャンディ、曲がり角を曲がった先には何が待っているか分かりませんよ。』
と微笑んでいた。彼女は心の中でテリィ…と、もう一度呟いた。頭の中に彼の顔を思い浮かべると、ポニー先生の様に微笑んだ。つい最近まで彼の1ファンとして彼の写真を切り抜いていたから、彼の顔は鮮明に思い出せる。きっとポニーの家に戻ったら、彼女がまだ読んでいない新聞が沢山残っているだろう。みんな知らないふりをしてくれているが彼女が彼の写真の切り抜きを集めている事を、知っているのだ。そして彼女もみんなが知らないふりをしてくれている事を、知っていた。彼女はみんなの好意に甘えてそれを気づかないふりをしていた。レイン先生は、ポニー先生が生きていた時…彼女との会話を、聞いていてキャンディを痛ましく見ているしかできなかった。彼女が切り取る前の彼の写真に何度話しかけていたか分からない。
『テリュースさん、キャンディはまだあなたの事を…。ええ、よく分かっています。アニーからあなたとキャンディの事情は聞いているから。あなたもキャンディも不本意だったと…。まるであなたの演じていたロミオとジュリエットの様ですね。テリュースさん、あなたは今幸せなのでしょうか?神に仕える身の私が他人の不幸を願ってはいけない事は分かっているけど…。もしあなたがまだキャンディを愛しているのなら、どうかお願いします。キャンディの元へ戻って来てあげて下さい。』
そして彼女も、そんなレイン先生の祈りにも似た言葉を聞いて涙を流した事もあった。他人の不幸、キャンディの為に2人が別れる事になったらスザナが不幸になることが分かっていてレイン先生は言葉にしてくれたのだ。彼女は色んな事を思い出して、思わず顔を手で覆って泣き出してしまった。彼を引きずっていない、なんて嘘だ。彼の切り抜きを長い間、集めていたのは誰?彼とスザナのツーショットを2人の間で2つに切って、自分の写真を彼の隣に貼付けていたのは誰?そのスザナの写真を破ったのは誰?久しぶりに流す涙はひどく濁っている様な気がする。
『ポニー先生、嘘をついてごめんなさい。スザナ、あなたの不幸を願ってしまってごめんなさい。テリィ、幸せになれていなくてごめんなさい。あなたは幸せにならないと、承知しないって…そう言っていたのに。ある意味は幸せよ、でもあなたのいう幸せ、にはなれていないの。』
ひとしきり泣いて彼女の涙が少し枯れ始めた頃、ふと肩に温もりを感じた。振り向くとアニーが心配そうに彼女を見つめていた。
『アニー?』
アニーをよく見ると、瞳が少し潤んでいた。アニーも泣いていたのだろうか。
『ごめんなさいね、キャンディ。あなたの様子を見に来たのよ。夕ご飯を一緒にどうかって…アーチーが言ってたから。あなたがターザンを始めた時から見てたのよ。落ちてきた時に声をかけようと思ったんだけど…。その…』
彼女はアニーを抱きしめて呟いた。
『これじゃどっちが泣き虫なのか分からないわね。ごめんなさいね、アニー。最近心配ばかりかけてるわね。いいえ、アーチーにもパティにもアルバートさんにもレイン先生にも心配ばかりかけてるわ。みんなにも謝らないといけないわね。見ていたんでしょう?聞いていたんでしょう?私、情けないわね。』
アニーは彼女の腕の中で首を振った。彼女を見上げるその瞳には、また涙が溢れていた。
『違うのよ、キャンディ。情けなくなんかないわ。あなたがテリィと別れたと聞いた時、私…色んな新聞を調べたり、噂を聞いたりしてあなた達の間に何があったか分かっていたのよ。テリィがあなたをどれほど愛しているか、そしてあなたがどれだけテリィを愛しているのか。一番よく知っているのは私よ。だから何もない風に振舞うあなたを見ていて辛かったの。だってあんなに辛い事があった後に、あんな風に笑うなんて…私には無理なんですもの。私だったら、辛くて辛くて死んでしまうかもしれないわ。本当は…みんな知っていたのよ。あなたがテリィの写真をふとした瞬間に見つめていた事も、夜に1人で泣いていた事も、新聞の切り抜きを集めている事も、たくさんあったお見合いを全部断っていたのもまだ彼を愛しているからでしょう?日記を読み返して、ぼーっとしている事もあったわね。でもしばらくそういう姿を見ていなかったから、あなたがもう前に進んでいるとばかり…、そう思っていたのよ。でもそうじゃなかった。あなたは1人で抱え込んでしまったのね。あまりにも長い時間抱え込んでいたから、隠すのが上手くなってしまっただけなのね。だから反対していたのよ。この…レイクウッドにあなたがしばらくいると知った時。あなたにとっては荷が重すぎるって思ったのよ。アンソニーとの思い出、ステアとの思い出がここにはたくさんあるのに。ポニー先生を亡くしたあなたは、精神的にも…弱っていたわね。そんな弱っているあなたが、このお屋敷にいたら…色んな事を思い出して、余計に辛い想いをするんじゃないかって!そう思ってたのよ…。思った通り、いいえ。それ以上だったわ。』
彼女はアニーの言葉を聞きながらまた泣いてしまった。そうだった。自分がレイクウッドに移ると知った時、アニーは頑なに反対をしていたんだった。始めてアニーが遊びに来た時も、心配そうな瞳で自分を見ていた。
『アニー…アニー。』
『キャンディ…キャンディ…。』
2人の間にもう言葉はいらなかった。アニーも彼女の想いを理解していたし、彼女もアニーの想いを理解していた。流石はずっと一緒に育った2人である…。ひとしきり泣き終わった後…帰りが遅いアニーと彼女を迎えに来たアーチーと、アルバートさんは不思議そうな顔をして2人を見つめていたが涙が枯れた2人は笑っていた。いつになく幸せそうに笑っている彼女を見て、アルバートさんが安心した事は言うまでもない。