彼は翌朝ジョルジュとホテルを出た。彼が彼女が危ないと団長に事情を話すと快く了承をしてくれた。彼の代役もすぐに決まり、予定よりも早く休暇が始まった。ジョルジュが彼を初めに連れて行ったのは、シカゴにある本宅だ。もう夜だった。彼はアードレー家の敷地の広さに驚いていた。古い扉が、静かに開く。本宅へと続く長い道には、薔薇が咲き誇っていた。スウィート・キャンディの薔薇だ。アンソニーの死後アルバートさんが、各地にあるアードレー家の別荘や本宅にスウィートキャンディを株分けをしたのだ。アンソニーの事を永遠に忘れない様に…。本宅へ入ると、長い廊下が待っていた。廊下には、亡くなったアードレー家の先祖の肖像画が飾ってあった。ゆっくりと前を歩くジョルジュに着いていきながら、彼はじっくりと肖像画を見た。ふと、前を歩くジョルジュの足が止まった。視線の先を追うと、一人の若い女性の絵があった。ローズマリー・ブラウンと名前が書いてあるその女性はどことなく彼女に似ていた。ジョルジュは酷く悲しそうにその絵を見つめている。彼は何気なくその隣に並ぶ少年の絵を見た。数多く並んでいる肖像画の中でも若くて新しい。ふと下に書いてある名前を見て彼はハッとした。アンソニー・ブラウン…。一生忘れる事のできない名前だ。何度も彼女から聞いた。その名前の少年は彼の永遠のライバルだった。そんな事を知るはずもなくアンソニーは寂しそうに絵の中で微笑んでいる。
『アンソニー様…。彼の事が気になりますか?』
いつの間にかジョルジュはローズマリーの肖像画から、目を離して彼を静かに見つめていた。彼は僅かに首を縦に振った。
『アンソニー様は隣にある肖像画の、故ローズマリー様のお子様です。ローズマリー様はお体が弱く、アンソニー様が幼い頃に亡くなられました。ローズマリー様も…薔薇がお好きでした。ちょうどこの季節でした、ローズマリー様が亡くなられたのは…。アンソニー様はあの方が亡くなられた後も、ローズマリー様を薔薇の中で探しておられました。それからでしょうか、アンソニー様が薔薇好きになられたのは…。ご自分で品種改良をなされたり、お世話をなさっていらっしゃいました。それからアンソニー様は、ちょうどご両親が仕事の関係で海外赴任していらしたアリステア様とアーチーボルト様と共に、エルロイ大奥様の元で暮らしていらっしゃいました。キャンディス様と出会われたのはアンソニー様達がレイクウッドに住み始めた頃の事です。キャンディス様は、ラガン家の使用人として引き取られた方です。ラガン家とアードレー家のレイクウッドの別荘はすぐ近くに在りました。アリステア様、アーチーボルト様、アンソニー様とそれぞれの出会い方をされ、すぐにお三方と仲良くなられました。ウィリアム様とキャンディス様が出会われたのは、キャンディス様がボートで遭難なさった時の事でした。キャンディス様を助けたウィリアム様は、彼女の良き友となられて影から見守っておられました…。キャンディス様はイライザ様とニール様に虐められながらも明るくて優しい方でした。意地悪なお二人の、酷い罠にはめられたキャンディス様を養女に…という手紙がお三方から届いてキャンディス様はアードレー家の養女になられました。どの手紙も情熱的でしたが、アンソニー様の手紙は特に熱のこもった情熱的なお手紙だったそうです。そして、キャンディス様はお三方と共にアードレー家で暮らす様になられました。アリステア様もアーチーボルト様も、そしてアンソニー様もとてもお幸せそうでした。キャンディス様は特にアンソニー様と仲が宜しかった様です。従兄弟同士フェアに行くと誓い合っていた、コーンウェルご兄弟も…キャンディス様を愛していらっしゃいました。それでも、皆様はお幸せそうでした。あの忌まわしき事故が起こる日までは…。キャンディス様の狐狩りお披露目パーティーの日でした。ウィリアム様がご計画された催しで、賞品は…ルビーのペンダントでした。…その日は、雲ひとつない晴天だったと聞きます。アンソニー様はキャンディス様と行動を共にしていらっしゃったそうです。アンソニー様の馬が狐取りの罠に掛り、暴れ回ってキャンディス様の目の前でアンソニー様は落馬してしまわれました…。即死でした。15歳でまだお若かったのに残念な事です。キャンディス様は、ショックで気絶をして高熱を出されてアンソニー様のお葬式に出る事も叶いませんでした…。アードレー家も、すっかり寂しくなってしまいました。アリステア様も……。今はアーチーボルト様がお一人で、アードレー家の仕事をウィリアム様から学んでいらっしゃいます。』
ジョルジュは長い長い記憶を少しずつ引っ張りだす様に話した。彼は自分の永遠のライバルであるアンソニーに、少しだけ親近感を覚えていた。母親が幼い頃に亡くなっている、というところが幼少期の自分に重なったのだ。彼の母親はまだ生きているが、彼は幼い頃自分に母親はいないと言い聞かせていた。手紙のくだりでは少しムッとしたが事故のくだりを聞くと、アンソニーを哀れに思った。あの時は考える事ができなかったが、アンソニーの死を目の前にした彼女はどんな気持ちだったのだろう。彼女が切なそうに語っていたわけがよく分かる。淡々と語ろうとしているジョルジュの心が、表情が痛々しい。そのジョルジュの…ポーカーフェイスの下は人一倍感情が豊かなのだ。きっと本人も気がついていないが、彼は気がついた。ジョルジュは彼から目線をそらしてアンソニーの肖像画を見つめた。彼ももう一度、肖像画のアンソニーを見つめる。絵の中で寂しそうに笑っているアンソニーの顔が泣きそうに歪んだ様に見えたのは、きっと気のせいではない。あんな死に方をしたのだ。自分が彼女の目の前で、落馬をして死んだとしたら死んでも死にきれないだろう…。アンソニーも同じはずだ。彼は心の中で、彼女を必ず幸せにするとに誓った。彼の誓いに答える様に、どこからともなく特別優しい風がふいた。それは『彼女をよろしく頼んだよ。』とアンソニーの声が聞こえてきそうな風だった。
ジョルジュの口から最後にアリステア様…と聞いた時にようやく彼はアンソニーの隣にある、一番新しい肖像画に気がついた。見覚えのある丸い眼鏡に…、おちゃめな笑顔、おどけた優しい瞳に見た事のある発明品が描かれていた。彼は真っ青になった。古い記憶の中に鮮明に描かれているこの男を忘れるはずがない。恐る恐る肖像画の下に書いてある名前を見る。
アリステア・コーンウェル…。
『あぁ…!』
『グランチェスター様はアリステア様とご学友でしたね。ご存じアーチーボルト様のお兄様です。』
『何故…彼がここに?』
ジョルジュの表情は悲痛に満ちていた。
『アリステア様は…キャンディス様が学院をやめられた後アーチーボルト様とイライザ様、ニール様と共にアメリカに戻ってきました。…しばらくはアメリカで過ごされてたのですが志願兵になられて戦死されました。キャンディス様がグランチェスター様に会いに行かれたあの朝でした。アリステア様が志願兵になられたのは…。手紙一つ置いて誰にも見送られずに、誰にも声をかけず…パトリシア様も置いていかれて。アリステア様の最期は、真っ赤な燃える様な激しい夕焼けの中にとけていく様だった…そうです。撃墜するのではなく、される方を選んだと聞いています。アリステア様は戦地にも関わらず、沢山の発明品を作られていたそうです。そして周りには、最後まで笑顔が溢れていたそうです。』
彼は涙を流した。数少ない友人の1人がまさか戦死していたとは思いもしなかったのだ。いや、もしかしたら彼女を傷つけた自分をアリステアは友人だとは思っていないかもしれないが…。アリステアの魅力は知っていたし、一緒にいて楽しい男だった。今回もしかしたら再会できるのかもしれない、と内心楽しみにしていただけあってショックは大きかった。飛行機を前にしたアリステアの大はしゃぎをする姿が彼の頭に浮かんだ。最後に交わした言葉が頭の中で再生される。彼の中のアリステアの時はあの日で永遠に止まってしまった。ジョルジュは彼の中で渦巻いているであろう感情を包みこむ様に諭した。
『アリステア様は、後悔はしていないだろうと皆様仰っております。アリステア様が一族に残した傷跡は深いですが、キャンディス様はこう仰っていました。戦場に行ったのは本気で平和菌を振りまいて戦争を終わらせたかったからに違いないと…。それでも世界のどこかでは相変わらず戦争が起こっています。アリステア様は昔から、争い事が嫌いでいらっしゃいました。彼が天に召されたのは、神様が彼を戦争から遠ざけて下さったからだと思います。私はきっといつかアリステア様が平和菌を天から振りまいて、戦争を世界からなくして下さる日が来るのだと信じています。』
その言葉に彼も頷くと、
『ヴィレルさんの言うとおりだと僕も思いますよ。ただ…、とても残念です。昔、共同研究をしようと約束をしていたので…。アリステアは、彼らは…僕が彼女に会う事を許してくれるのでしょうか…?彼女を一度傷つけてしまった僕が、今更彼女に会うのは虫が良すぎる気がして…。』
と言った。彼は廊下に並んでいるアードレー家の肖像画を1つ1つ見つめている。ジョルジュは、そんな彼の視線の先を追いながら
『きっと皆様がグランチェスター様を導いたのです。彼らがあなたを許していなかったら、グランチェスター様は今ここにいらっしゃらないでしょう…。キャンディス様を一度傷つけたと仰りますが、ウィリアム様も私も仕方がない事だと思っております。キャンディス様もです。誰も悪くはないのですよ。許すも何もありません。今のキャンディスはグランチェスター様を必要とされております。ただ…、申し上げにくいのですがアーチーボルト様はお2人の事をご納得されていらっしゃらない様です。今回、本宅にお連れしたのはアーチーボルト様がお2人で話がしたいと仰っていたからでございます。』
と言った。ジョルジュは彼が頷いた事を確認中すると、廊下の突き当りにある書斎へ案内した。扉をノックするとジョルジュは扉の向こうにいるであろう、アーチーに声をかけた。
『アーチーボルト様、グランチェスター様がいらっしゃいました。』
重々しい書斎の扉が開くとアーチーが彼らを出迎えた。アーチーは険しい表情をして、射抜く様に彼を見つめた。まだ彼が彼女に会う事を納得していないのだ。一度は彼の事を認めたアーチーだったがその後、彼女を傷つけた彼を許すことができずにいた。彼女が彼を想っていることも、アーチーには理解ができなかった。アーチーの表情を見た彼は緊張した面持ちをしていた。めったに崩れる事のないジョルジュのポーカーフェイスも珍しく崩れていた。
『ありがとう、ジョルジュ。彼と話があるから席を外してくれないか?』
アーチーが言うとジョルジュは彼らに一礼をしてから、静かに部屋を出て行った。しばらく重たい沈黙が続いた。
『グランチェスター、久しぶりだな。』
最初に口を開いたのは、アーチーの方だった。
『コーンウェル…。ヴィレルさんから兄上の事は聞いたよ。残念だ。もう一度会いたかった。』
何から話していいのか分からずに、彼も口を開いた。
『兄貴が君に会わなくてよかったよ、グランチェスター。彼女を苦しめた君を殴り飛ばしていたに違いない。僕も、今すぐにでも君を殴り飛ばしたいくらいだ。どうして彼女を選ばなかった?どうして彼女を捨てた?何故今になって彼女に会いに来た?』
アーチーは吐き出す様に言葉を紡ぎ出した。アーチーが自分を責める事を彼は予想していた。真っ直ぐとアーチーを見据える。アーチーは思いの外、彼が真剣な瞳をしていたから少したじろいでしまった。
『コーンウェル、君の言う通りなのかもしれない。俺を好きなだけ殴ってくれても構わない。何なら兄上とアンソニーの分まで殴ってくれ。』
彼は言い訳をする気はなかった。何を言ってもアーチーの怒りは収まらないだろう。もしも自分がアーチーなら、間違いなく自分を殴り倒している。自分が腹立たしかった。彼女の心の痛みに比べたら殴られる事なんてたいした痛みではない。確かにあの時、彼女ではなくスザナを選んだ。その罪は重い。選ばざるを得なかったとはいえ、彼女から身を引いたとはいえ、一度手を放した彼女に今更会うのは虫が良すぎる。何故気がつかなかったのだろう。スザナと別れられた事で浮かれ過ぎていたのだろうか。だが彼女の危機ならば助けたいとも思っていた。許されるなら彼女ともう一度…。
アーチーは彼が言い訳もせず、瞳を閉じているのを見て余計に腹をたてていた。言い訳をしてくれないとこれ以上言いたい事が言えない。殴ろうにも、殴れと言われてしまうと殴りにくい。彼は自分を恐れる訳でもなく、声を荒げる訳でもなく、昔の様に挑発をしてくる訳でもない。淡々と静かに自分の制裁を待っているだけだ。アーチーはいかに自分が成長していないかを思い知らされた。すぐにかっとなる所も、何も変わっていない。
『何故俺を殴らないんだ?思い切り殴りたいんだろう?』
『グランチェスター、その前に君の答えが聞きたいんだ。そうじゃないと気持ちよく殴れないだろ?どうして彼女を選ばなかった?どうして彼女を捨てた?何故…今になって彼女に会いに来た?』
アーチーの精いっぱいの返事だった。
『言い訳をしてどうなる?彼女を傷つけた事は変わらないだろう。コーンウェル、君に何が分かる?あの時の俺には選択肢がなかった。威圧的なマーロウ婦人に、自殺を図るスザナ…。おまけにキャンディから別れを告げられた。俺は彼女と別れる事を望んでいなかった。それはキャンディも同じだろう。だが彼女は看護婦だ。目の前で自殺を図った…スザナを見て身を引くしかなかったんだろう。そんな彼女の想いを俺は組むしかなかったんだ。彼女はアンソニーを目の前で亡くしているから、自ら命を捨てようとする人が許せなかったんだろう。看護婦としても、人間としても、目の前で命を捨てようとしている人を止めるのは当然だ。君だって止めるはずだ。例え自分が止めたその後の結果を理解していたとしても…。スザナのした事は脅迫に近い。だがキャンディを捨てたと言われても仕方がない。彼女に会う資格は俺にはないのかもしれない。でもこれだけは…信じて欲しい。ゴシップ誌や、新聞に書いてあったことは事実ではないんだ。…スザナとは恋人同士ではなかった。魂の抜けた俺の形をした人間がただただ人形の様にスザナの側にいただけなんだ。ただの一度だってスザナを愛した事はなかった。マーロウ婦人からのプロポーズの催促も、理由をつけて断ってきたよ。どれもこれも…みんな彼女を愛していたからだ。そんな時だ。スザナに振られたのは。まだ新聞社には公表していないが、俺達は別の人生を歩む事にしたんだ。ヴィレルさんが俺の所に来たのはスザナと別れて休暇までの時間をホテルで過ごしていた時の事だ。キャンディが、従軍看護婦になろうとしているんだって?君達のウィリアム大叔父様からの手紙を読んでキャンディを止めにきたんだ。どうだい?さぁ、殴るなら殴ってくれ。もしも俺が君なら、動けなくなるまで俺を殴りたいくらいなんだ。君も相当俺に腹をたてているはずだろう。』
アーチーはじっと彼の話を聞いていた。あの時のことを語る彼の瞳は曇っている。今までに見た事のない、孤独と深い絶望を足して2で割った…いや孤独と深い絶望を掛けた様な彼の表情をアーチーは静かに見ていた。こんな表情は誰からも見た事はなかった。あんなに絶望していた彼女もここまで哀しい表情はしていなかった。彼の表情と態度は語っていることが真実であると証明している。アーチーは心の中でステアとアンソニーに話しかけた。アンソニー、ステア。今の話を聞いていたかい?僕は彼をもう一度信用してみようと思う。少しムカつくやつだけどキャンディを誰よりも思っているのが分かるだろう?キャンディを守る三騎士の仕事がもうじき終わる。プリンセスにはお似合いのプリンスが現れたんだ。結局誰も、彼女のプリンスにはなれなかったけど僕はこれで満足している。アンソニー、君が生きていたらどうなってたか分からないぜ?ステア、君はキャンディは遠くから見守っているのが丁度いいと…そう言ってたな?その通りだったよ。君達も彼と彼女の事、賛成してくれるよな?アーチーはふと壁に掛けてあった、アンソニーとステアと戯れている写真を見る。アンソニーが、少し悔しそうに頷いた気がした。ステアの誇らしげにそうだろ、言った通りだ!という声が聞こえた気がした。アーチーは一変して笑いながら言った。
『いや、やめとくよ。殴ったりしたらこっちの拳も痛いしキャンディに怒られちまう。それに未来の従兄弟の顔に、傷をつけたらアニーにも怒られるからな。それに君は顔が命だろう?失職してもらったらキャンディが困る。』
彼はアーチーが自分を許した事を悟った。それと同時にアーチーが交際も許している事が分かった…。彼は口には出さなかったが、アーチーに感謝をした。
『誰が顔が命だって?コーンウェル。俺の演技力をなめてもらっちゃあ困る。こんなんでも劇団一の役者なんだぜ?リア王をみたか?ロミオとジュリエットを見たか?俺ほどの実力を持った役者はいない。』
お互いに同時に吹き出す。彼はここ数年で、少し性格が丸くなっていた。それはアーチーも感じていた。
『相変わらずだな、君も。』
『君もそうさ、コーンウェル。』
2人の間にはもうわだかまりはなかった。彼は第一関門を突破した気分だった。彼女への扉が少しずつ開いている。そんな彼が次の扉がなかなか開かない事を知る由もない。