電子書籍で出版した「網走五郎・神社物語」、今日の掲載は (31) 断食修行。

 

           (31)  断食修行

 五郎が最初に断食を行なったのは、21歳の時だった。雑誌の広告に「ノイローゼが治る」と書かれていたからだ。

   五郎は若い頃、ノイローゼに悩んでいた。治りたい一心で静岡県焼津市にあった断食道場に入った。三日間の予備断食の後、二週間の本断食、一週間かけて復食を行なった。予備断食は普通食から三日かけて徐々に食事の量を減らしていき、本断食は水以外を一切取らず、復食は重湯から始まり1週間かけて普通食に戻るのである。

 五郎は神主になってから再び断食修行を開始した。

 断食は免疫力を高めるため、万病に効くと言われている。ノイローゼ・アトピー性皮膚炎・腎臓病・肝臓病・高血圧・糖尿病・リューマチ・神経痛さらには癌まで治ったという報告例もある。

   石原慎太郎は「老いてこそ人生」の中で「人間にとって、いやすべての動物にとって最大最高の医者は二人います。一人は熱。もう一人は断食です」と、断食の治癒効果を述べている。瀬戸内寂聴は黒柳徹子とのテレビ対談で「断食すれば全ての病気が治る」とまで言っていた。

 しかし五郎が断食を重要視したのは、病気が治るからではなかった。人格の強化だった。断食は人格強化には特効薬的効果がある。ノイローゼに悩んでいた五郎は最初の断食で、このことを実感した。

 断食によって、人格は強化される。断食ほど簡単に人格強化をはかれるトレーニングメニューは他にない。ただ食べなければ良いのである。お金は一切かからない。

 五郎は神主になって最初の年は一週間、次の年は八日間、次の年は十日間、次の年は二週間と徐々に断食日数を延ばしていき、十年後には一ヵ月間の断食をおこなうようになっていた。

 断食期間中で最も苦しいのは最初の三日間である。四日目以降、苦しさはピークを過ぎ、一週間も過ぎると体が断食に慣らされて楽になってくる。一週間断食に耐えられた者は、二週間でも三週間でも断食に耐えることが出来る。普通頭で考えると、断食は日を重ねるごとに苦しさが増すと思われがちである。ところが実際は違う。

 人間の体には適応力というものがあり補償作用が備わっている。気温が高くなると発汗し気温が低くなると毛穴を閉めて体温の変動を防いでいる。目が不自由になると聴力が発達し、音を頼りに歩けるようになるし、点字をなぞって指先で文字が読めるようにもなる。断食も日を追うごとに苦しみが軽減し、普通に近い生活が出来るようになる。

 五郎が31日間の断食を行なった時も、普通どおり神社勤務をこなしながらであった。20日目頃までは毎日3㌔のジョギングも行なっていた。

 とはいえ断食の苦しみは想像を絶するものがある。最初は空腹感から始まり、疲労感・脱力感・動悸・息切れ・心臓の痛み・腰痛・関節の痛み・幻聴幻覚等、この世にこんな苦しいことがあったのかと思える苦しみがドッと押し寄せてくる。

 ノイローゼの原因は失恋・受験の失敗・事業の失敗・失業・借金・対人恐怖症・スピーチ恐怖症等、人それぞれ違うが、そこに共通しているのは、その原因に捕らわれて藻掻き苦しんでいるということである。

 断食の苦しみは、これらの苦しみが無くなってしまうほど苦しいのである。食物さえ手に入れば後は何もいらないと思ってしまうから不思議である。

 断食期間中、確かにノイローゼは治っていた。しかし復食が始まり空腹が満たされてくると、再びノイローゼ症状が現われてきた。断食の苦しみが薄らぐことにより、再び元の苦悩が頭をもたげたのである。断食でノイローゼは治らない。しかし実際断食で多数のノイローゼ患者は治っている。それは断食が触媒になって人生観が変ったからである。

 断食の地獄の苦しみを通して、失恋・受験の失敗・事業の失敗・失業・借金・対人恐怖症・スピーチ恐怖症等の悩みが、悩むに値しない小さなことであると気付き、ノイローゼが治るのである。

 五郎は子供の頃「克己」という言葉を耳にした。辞書をひくと「おのれに克つこと」 「自分の欲望や邪念に打ち克つこと」と書かれている。「おのれに克つ」とは、どういう意味だろう? 当時意味が分からなかった。

   しかし神主になって「克己」の意味が分かった。おのれの欲望に忠実に生きては、神主は勤まらない。神主は神様と人との仲取り持ちである。神主を続けるには、おのれの欲望に打ち克たなければならない。五郎が神主になって断食修行を再開したのは人格の強化、すなわち「克己」にあった。

 決められた期間の断食を完遂するには、名誉や地位や財産がいくらあっても、何の役にも立たない。己に克つ者のみが完遂出来るのである。

 毎年の断食修行は、脆弱だった五郎の人格を直截に強化していった。