2026年4月3日 金曜日

電子書籍で出版した「網走五郎・神社物語」、今日の掲載は

 

(78) 暴力団の排除

 

   参拝者が増え続けた大きな要因は宣伝の他に二つあった。

   一つは右翼団体及び暴力団を排除したことである。五郎が勤め始めた頃の沖縄県護国神社の正月境内は右翼団体と暴力団の溜まり場であった。当時の宮司代務者 大野康孝が右翼団体と強い繋がりを持っていたからである。

  沖縄の右翼団体は暴力団と一体だったため、生粋の暴力団員も我が物顔で参拝に訪れていた。そのため一般参拝者が怖がって参拝に来なくなっていたのである。

   五郎は北方領土へ泳いだことから、右翼団体から一目置かれていたので彼等の参拝に抵抗はなかった。しかし金城事務局長と下地宮司は彼等の参拝を嫌った。神社方針として、正月期間中の右翼団体及び暴力団の祈願受付禁止が打ち出された。受付応対は巫女がおこなったが、巫女では断りきれず五郎が代わって断るのが常だった。

   右翼団体は五郎の要望を素直に受け入れてくれたが、暴力団はそうは問屋が卸さなかった。

   ある年の正月元旦午前一時、五郎が新年祈願祭をしていた時、五十名ほどの暴力団員が御社殿に入り、新年祈願の申し込みをした。受付には巫女と警察官を定年退職して神主になった大山肇がいた。二人は蛇に睨まれた蛙のように、祈願を受け付けてしまったのである。

 そのことに気付いた五郎は、受付に行き神社方針として祈願が出来ない旨を暴力団員に説明した。ところが次の言葉が返ってきた。

「祈願を受け付けておきながら、出来ないというのか」

「はい、出来ません」

「ふざけたこというんじゃねえ。お前、名前、何ていうんだ」

「渡辺尚武です」

五郎は本名を名乗った。

「覚えて置くからな」

男は捨て台詞をはいて五郎から離れた。そして仲間達に指示し、本殿前の椅子に着席した。さらに御社殿の戸を外部から見えないように閉め切ってしまった。

「早く、祈願祭をはじめろ!」

   もう五郎の手におえない状態になっていた。

この時、お守り授与所にいた金城事務局長の奥さんハルが異変に気づき駆けつけた。そして椅子にふんぞり返って座っている組員達にキッパリと言った。

「祈願祭はできません。御社殿から出ていってください。さもなければ警察を呼びます」

   組員達は悠然と席に座り、立つ気配を示さなかった。ハルは五郎に警察を呼ぶよう指示した。まもなくして数十名の警察官が到着した。彼等は警察官の説得にあい、すごすごと引き上げていった。

   この事件を契機に右翼団体及び暴力団の初詣参拝はピタリと来なくなった。沖縄県護国神社は右翼団体及び暴力団の新年祈願は受け付けないと、各団体に知れ渡ったのである。参拝者はその後、大幅に伸び始めた。

2026年4月2日木曜日

電子書籍で出版した「網走五郎・神社物語」ろろ今日の掲載は

 

   (77) 初詣参拝者

 

  護国神社は全国に52社ある。戦争で亡くなった御英霊を神として祀ってある神社である。当然参拝者の主流は戦没者遺族である。しかし戦没者遺族は年々減少しており、それにともなって神社収入も減少の一途を辿っている。

   沖縄県護国神社も例外ではなかった。五郎が勤め始めた頃の例大祭は、三千名以上の参拝者で賑わっていたが、今では三百人を切るまでに減少している。特に昭和52年、糸満市摩文仁に国立沖縄戦没者墓苑が建立されてからは、総理大臣はじめ遺族の大半が国立沖縄戦没者墓苑を参拝するようになり、慰霊の日(623日)の参拝者は百名を切るまでに減少している。

   国家管理から離れた神社の経営は非常に苦しく、五郎が勤める前の神主、三好邦忠(靖国神社五代目宮司 筑波藤麿の子息)が退職した時は、退職金を払うお金もなく、金城事務局長が自宅を担保に銀行からお金を借りて払ったと聞いている。

   金城事務局長は常々言っていた。

「神社職員は霞みを食べて生きているわけではない」

   国から離れた神社は、独自で収入を得なければならなくなった。収入のない神社は維持管理が出来なくなり、いずれ消滅する。金城事務局長は神社経営に危機感を持っていた。

   例大祭の参列者の減少の他、結婚式も当初年間、三百組を超えていたのが、年々減少して今では十組を切っている。七五三も最盛期には千五百組を越えていたが、五百組を切るまでになった。各企業からの奉賛金も年々減少の一途を辿っている。

   この危機を救ったのが初詣参拝者の増加であった。五郎が神社に勤め始めた頃の沖縄県護国神社の正月初詣参拝者は1万人にも充たなかった。暇すぎて、金城事務局長が手製の凧を作り、職員が境内で凧揚げをしていたほど閑散としていた。それから30年過ぎた今年(平成22年)は、24万人である。沖縄県内最大の参拝者を誇る神社へと成長した。

   沖縄には「人は亡くなって33年過ぎると神になる」という信仰がある。沖縄県護国神社には沖縄戦で亡くなった人たち20万人が合祀されている。この人たちが昭和53年を契機に沖縄の神様になったのである。しかし神社に祀られている御英霊が沖縄の神様になっただけでは、参拝者は増えなかった。

   五郎は天井桟敷での経験から、宣伝活動が如何に重要であるかを知っていた。新しい公演が始まる前には、劇団員全員でポスター貼りやチラシ配りを行ない、またテレビ局や新聞社・雑誌社を訪ねて公演記事の掲載を依頼した。カルメンマキを売り出した時は、劇団員全員に百円を配布し、有線放送へ電話リクエストを行なったりもした。

   五郎は金城事務局長にテレビ・ラジオ・新聞・雑誌で宣伝することを勧めた。しかし金城事務局長は、他宗教団体からの非難を恐れ二の足を踏んだ。宗教法人は営利追求を目的としない非営利団体であるからだった。

   神社は宣伝活動しない、というのは神社界の常識であった。国営だった神社に宣伝の必要はなかった。しかし現在は自力で収入を得なければならない。

   金城は五郎の強い説得にあいテレビ・ラジオ・新聞での宣伝に踏み切った。案の定、他神社から非難の声があがった。

「沖縄県護国神社は宣伝活動をはじめた」

   しかし五郎にとっては織り込み済みであった。

   初詣参拝者数が急激に延び始めた。それとともに金城事務局長も非難の声を気にしなくなった。神社職員も皆年々増えていく参拝者に喜んだ。五年後には、十万人は軽く越えたと思った。神社が編纂した「沖縄県護国神社の歩み」には、昭和六十年の初詣参拝者数は十万人と書かれている。しかし警察発表は五万人にも満たなかった。

   翌年の正月、警察発表を訂正させる目的で、アルバイトを雇い、正月参拝者数を正確にカウントした。昭和61年正月のことだった。沖縄県内最大の参拝者を誇る波上宮は十五万人。その波上宮に追いつき追越すのが目標だった。カウントの結果は、なんと警察発表より更に少ない三万七千人。職員皆が大きく失望したことを記憶している。

   しかしその後も、参拝者は順調に増え続け、15年後の平成13年には警察発表で15万人に達し、ついに念願のトップの座を射止めた。

   この時、金城事務局長は胃癌におかされ余命数日という状態になっていた。入院中の金城に、五郎は波上宮を抜き県内トップになったことを報告した。金城は五郎の手を強く握り締め「ありがとう、ありがとう」と涙を流しながら喜んでくれた。一週間後、金城事務局長は息を引き取った。

   ちなみに現在では、どこの社寺でもテレビ・ラジオ・新聞・雑誌等で宣伝活動を行なっている。収入源の無くなった社寺は滅んでいくのである。

2026年4月1日 水曜日

拡張型心筋症定期検診日

病院 豊見城中央病院。

悪化の兆しなし。心臓のエコー検査による心臓の EF値63 %。正常値に回復している。

ウィキペディアには拡張型心筋症の5年生存率は50%と書かれているが、五郎は26年過ぎた今も元気に生き続けている(笑)

 

拡張型心筋症  (ウィキペディアより)

拡張型心筋症は、心臓が拡大し、血液を効果的に送り出せなくなる状態のことである。症状は、無症状な場合もあり、疲労感、脚の浮腫、 呼吸困難などさまざまである。また、胸痛失神を引き起こす場合もある。合併症には、心不全心臓弁膜症不整脈などがあげられる。

原因には、遺伝アルコールコカイン、特定の毒素、妊娠による合併症、特定の感染症などがあげられる。拡張性心筋症の3割が遺伝だと言われている。冠動脈疾患高血圧が関与している場合があるが、これらは主な原因ではない。多くの場合、原因は不明なままである。心筋症の一種であり、主に心筋に影響を与える疾患である。診断は、心電図、または胸部X線、または心臓超音波検査によって確定される。

心不全患者の場合の治療には、ACE阻害薬ベータ遮断薬利尿薬などの薬剤が用いられる。減塩の食事も効果的とされる。特定のタイプの不整脈がある人の場合には、血液希釈剤または植込み型除細動器が推奨される。これらの治療が効果的でない場合には、心臓移植が選択肢にあげられる。

約2,500人に1人が罹患している。女性よりも男性の方がより頻繁に発症する。発症が最も多くみられる年齢は中年である。5年生存率は50%である。

 

2026年3月31日  火曜日

電子書籍で出版した「網走五郎・神社物語」今日の掲載は

 

(76)  参集殿の解体

 

 新社務所造営計画は、金城事務局長が健在だった平成125月の役員会で発表された。

    五郎を蚊帳の外に置き、和輝主導で計画は着々と進められた。測量が始まり基本設計が出来上がった。アーチ型でとても神社の建物とは思えない代物であった。下地宮司も陰で反対したが、金城事務局長が健在中は正面きって反対しきれないでいた。

   しかし金城事務局長の死により和輝の力は一気に消失し、アーチ型社務所案は白紙撤回された。すでに土地の測量や設計料が支払われていたため、神社が被った損失は数百万円にのぼった。

   平成19年、和輝に代わり宮司の鈴木が主導権を握り、新たな設計で新社務所造営計画が推し進められた。

  その中に五郎の住居、参集殿の取り壊しが含まれていた。

   平成21328日の役員会議で、参集殿を解体すべきかどうか話し合いがもたれた。出席者は役員と職員計14名。五郎は役員会での発言が許されていため、次の文書を役員たちに配った。

・・・・・・・・・・・・・・・・ 

参集殿解体に対する私の意見

 

    今次大戦で沖縄県護国神社の建造物は壊滅状態になりました。その中で唯一破壊を免れた建造物があります。参集殿がそれです。この記念すべき建物が今、解体の危機に瀕しています。

 理由は新社務所を建設するにあたって、身障者用車椅子専用通路を確保するためと報告を受けています。

   確かに車椅子用の通路は必要です。遺族が高齢になると車椅子生活になる確率は高くなります。沖縄県護国神社の御祭神は戦争で亡くなった御英霊です。その戦友や遺族が車椅子生活になったとたん参拝できなくなるような施設では困りものです。現状でも貧弱ではありますが、車椅子で参拝できる通路は確保されています。この車椅子通路を更に整備充実させなければならないことは当然なことであります。

   他の解体理由として新参集殿まで車を乗り入れできる車道の確保と聞いています。新参集殿まで車が乗り入れられるようになれば、車のお祓いを奉仕する神主の仕事は、ずっと楽になります。正月初詣参拝者の帰りの通路としても利用でき混雑が緩和されます。
 だからといって参集殿の解体と引き替えにしてよいのでしょうか。参集殿は解体しないという大前提のもと、新社務所造営計画を考えるべきです。たとえば現在の正面参道幅員を二倍に拡げ、半分をスロープにして車両や車椅子専用通路にするとか。知恵を絞れば参集殿を温存したままの妙案はいくらでも出てきます。
 この建物は昭和15年に神社社務所として建立されましたが、当時、県職員として例大祭に祭員として奉仕した我喜屋汝揖元監事は私に「参集殿が未だに、シッカリしているのは建物が桧で作られているからだ。沖縄風建造物として、当時、目を見張る立派なものであった」と、語っていました。この建物は敗戦までは、社務所として使用され、その後沖縄財界の四天王といわれた国場幸太郎一家が住んでいました。

   平成二年那覇市と国場家との間で、米軍と取り交わした建物使用に関する契約が有効かどうか裁判で争われ、国場家が敗訴したため神社に返還されました。返還後、神社では六百万円かけて建物の補修工事を行ない参集殿として使用しています。
 この記念すべき建物を解体してよいのでしょうか? 

   私の意見は「ノー」です。あまりにも代価が大き過ぎます。壊すのはいつでも壊せます。しかし一度壊してしまったら、もとに戻すことはできません。
「後悔先に立たず」 

ちなみに神社本庁憲章第十条二には「境内地、社有地、施設、宝物、由緒に関はる物等は、確実に管理し、みだりに処分しないこと」 第十条三には「境内地及び建物その他の施設は、古来の制式を重んずること」と書かれています。

   現在私はこの建物に住んでいます。住み心地は満点です。だからといって私が住み続けるために解体に反対しているのではありません。退職したら即、退去することは申すまでもありません。

 参集殿(旧務所)の解体は 沖縄県護国神社の歴史にとってプラスになることは何もありません。

                       以上

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

   遺族会長の仲宗根義尚が口火を切った。

「保存するほどの価値がある建物とは思えない」

「私も解体はやむをえないと思う」

   代表役員の座喜味和則までが解体に賛成した。退職の決まった五郎の意見に耳を傾ける役員は、もはや一人もいなくなっていた。

   参集殿の解体は奇しくも五郎の退職と同じ、1年後、平成223月と決定した。

 

 

 

 

 

2026年3月30日 月曜日

電子書籍で出版した「網走五郎・神社物語」今日の掲載は

 

(75)  定年制の導入

 

   定年制導入案は金城事務局長の死により消滅したと思われていた。ところが平成194月のある日、宮司になった鈴木一郎が五郎に言った。

「上原事務局長が定年制を導入しようとしている。すでに会長・副会長にも根回ししてある。体を張ってでも、君を排除すると言っていた、何かあったのか?」

「いいえ、指一本触れたことがありません」

「何か思い当たることはないか?」

「……」

   半年前、和輝の嫁から五郎に電話があった。

「主人が六十五歳定年制を敷いて貴方を辞めさせようとしています」

   五郎の排除には和輝も絡んでいたのだ。父亡き後、和輝は上原事務局長に急接近し、金魚の糞のようにへばり付くようになっていた。

   通常、役員会に提起する議題は、まず職員会議で話し合われ職員合意のもと提起する。しかし、こと定年制導入に関しては職員間の話し合いは一切行われなかった。五郎を排除することが目的だったからである。

   鈴木は五郎に言った。

「もし定年制が施行されたら、私も一緒に辞める」

   鈴木を沖縄県護国神社に入れたのは五郎である。当然のことであった。

   平成19525日、定年制導入に関しての役員会が開かれた。五郎は役員会での発言が許されてないため、前もって下記の文章を準備し各役員に配布した。

 ・・・・・・・・・・・・

定年制導入についての私の意見

 

   私は現職の中で最古参の神主です。その私が今、六十五歳定年制の導入により退職の危機に瀕しています。正直いって、まだ十分働けるのに何故?という気持ちでいっぱいです。神社以外の職場では六十歳定年制が普通で、みな私以上に悔しい思いをして退職していたのかとの思いを馳せています。

   それはさておき定年制の導入は本当に当護国神社にとってプラスになるのでしょうか。 
 まず第一に予想されるのは神主不足です。何十名も神主のいる神社ならともかく、当神社には僅か六名しかいません。先般、神社庁に加入しない道を選んだことにより、神主補充は神社庁傘下の神社のように簡単には参りません。私が勤め始めたころ、正月参拝者は1万人に充たず、神主は1人で十分でした。しかし今年は23万人にもなっており、それにともない祈祷件数も激増しております。

   神主は増やす必要こそあれ、減らすことは当神社の現状にはあいません。

   また歳を取れば取るほど重宝がられるのが神主です。定年制を布いて、古参神主を強制的に退職させるやり方は下剋上を思わせます。古参神主は給料が高い、一人辞めさせれば若い神主を二人雇うことができる。しかし古参神主は、だてに高い給料になったわけではありません。長年神社に貢献した結果なのです。それでも下地前宮司・金城前事務局長は、給料を四十万円で頭打ちしていました。賢明なやりかたでした。

  では定年制を導入しないと、高齢で働けなくなっても雇用しなければならないのか? 

「服務規定第三十二条」の中で、すでに退職規定が謳われています。

《職員が次の各号に該当する時はその職を免ずる。1、精神又は身体の障害によりその職に堪えないと認めたとき。2、傷病によりその職に耐えないと認めたとき。3、休職中のもので職員に適しないと判明したとき。4、職員として適格でないと判明したとき》

   これで退職規定は十分です。年齢だけで退職させる定年制の導入は、当護国神社にとってマイナスにこそなれプラスになることはありません。

   神社は神様との仲取り持ちである神主の祈祷奉仕によって成り立っています。祈祷を受ける参拝者は若い神主からではなく、人生経験豊富な高齢神主からの奉仕を望んでいます。神主の退職は祈祷奉仕が出来なくなった時と定めればよい。

   ちなみに全国の大多数の神社に定年制はありません。

                                 以上               ・・・・・・・・・・・・

 

   この日の役員会では五郎の意見に反対する役員は一人もいなかった。役員会が終わった後、鈴木一郎は五郎に言った。

「次の役員会は役員のみでおこなう」

   五郎は鈴木の言葉に何の疑問も抱かなかった。宮司と事務局長以外の7名の役員は神社知識が皆無に等しく、宮司が反対すれば定年制など可決されるはずもなかったからである。

   後日、五郎抜きで役員会が開かれた。なんと宮司七十五歳、禰宜以下の職員六十五歳という定年制が決定した。

   明治神宮の祢宜たった鈴木は、明治神宮の定年制に倣い作成していたのである。

 

2026年3月29日日曜日

電子書籍で出版した「網走五郎・神社物語」今日の掲載は

 

(74)   不幸はチャンス

 

   地震・寒波・旱魃・津波・台風・洪水等の自然災害は毎年地球のどこかで起き、大きな被害を被らせてはいるが、原始時代に比べたら防災科学は大きく進歩している。

   交通事故死も、車両が年々増えているにもかかわらず、減少傾向にある。失業・貧困・飢餓の克服も国策として行なわれ、日本での餓死者は殆ど出なくなっている。戦争は相変わらず、あちこちで行なわれているが、しかし第一次・第二次世界大戦のような大規模戦争は避けられるようになった。これ皆大小の差はあるが、不幸に勝利した結果である。

   病気になった者は病気を根治すればよい。つい数十年前まで癌は不治の病といわれていた。ところが今は多くの癌患者が癌に勝利し長生きしている。不幸がなければ勝利はない。不幸は勝利者になるチャンスである。

   しかしどんなに頑張っても人間は必ず死ぬように出来ている。老いて病になって死ぬ。これが人間の運命である。殺害されたり事故や災害・難病で早死にする者も大勢いる。人間にとって、死は避けることのできない出来事である。

   では死ぬ者にとって勝利は無いのか?

「ある」、しかも最大の勝利、人生の勝利者になるチャンスが待っている。死に直面した者にとって死に勝利するとは、死なないことではなく、死をも笑って受け入れる超人になることである。

   人生の勝利者超人(成熟した人格)になるチャンスは、最後まで残されているのだ。

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

   14年前に書いたブログ「網走五郎はかく語りきはここで終わっている。                    このブログを読んだ若者の中には、群馬県から拙著「網走五郎伝」を携えて沖縄県護国神社まで訪ねて来て、後、皇學館大学神道学専攻科に進学し、卒業後神主になった者もいた。

 

 

 

 

2026年3月28日 土曜日

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(73)  排除の行き着く先

 

   人間同志の最大の排除、それは戦争である。第一次世界大戦は、オーストリアの皇太子夫妻が、セルビアの一青年に暗殺されたことから始まった。報復としてオーストリアがセルビアに宣戦を布告し、同盟を結んでいた国がそれぞれの国に加担し、戦火は瞬く間に全世界に広まり一千万人の死者が出た。

   第二次世界大戦では更に被害が大きく、四千万人とも五千万人ともいわれる死者が出ている。

   2001911日、アルカイダはニューヨークの世界貿易センタービルやワシントン郊外の国防省に乗っ取った旅客機で突っ込み、三千人以上の人々を殺した。亡くなった人の中で本当にアルカイダから殺されるに価した人は何人いたというのだ。実にけしからぬ行為である。

   しかしアメリカは「テロ撲滅」と称して報復攻撃を行なった。その代償の何と大きいことか。双方合わせると何万人もの死者が出ており、未だに殺し合いが続いている。真に「テロ撲滅」を目指すなら、テロを行なった犯人のみを捜し出し、処罰すればよい。外国に武力で乗り込み、罪のない人々まで巻き添えに殺す必要は全くない。

   最近、中国で排日運動が激化している。日本大使館や領事館にデモ隊が押し掛けて「日本人は出ていけ!」と叫びながら投石をしたり、日本人経営の店舗を襲撃している。日本人留学生が、日本人と名乗った途端、中国人客からビールジョッキや灰皿で殴られ負傷する事件も起きている。この排日運動は、戦時中、日本兵から酷い目にあわされた人たちが中心になって行なっているのだろうと思いきや、殆どの人が、直接痛め付けられた経験のない、すなわち戦争体験のない若者たちで占めている。しかも無実の日本人を攻撃しているのである。

   韓国でも慰安婦問題や靖国神社問題など過去の歴史を執拗に持ち出し、排日運動を繰り返している。

   排除されると憎しみが起こる。排日運動は憎しみを増幅させる。ここで日本が報復攻撃を行なえば戦争へと発展するのである。

   日本は中国や韓国の排日運動を反面教師として学べばよい。誰も排除してはならない。存在する全ては神の分霊、神から生まれた神の子である。

   日本固有の宗教「神道」は誰も排除しない。

  排除あるところに平和はない。排除の行き着く先は、同じ人間同士が殺し合う戦争である。

 

2026年3月27日金曜日

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(72)  自然界の法則

 

自然界は劣った生物を平然と排除していく。「生存競争」「自然淘汰」「優勝劣敗」「弱肉強食」「適者生存」、これが自然界の法則である。このようにして生命は進化してきた。

  人間も同じである。人間はどんなに長く生きたいと思っても、歳を取ると老化して死んでいく。病気や事故で早死にする者も多くいる。これが大自然である。

   ヒトラーは「大自然は無慈悲である。人間は大自然の一部である。したがって人間も無慈悲であっていいのだ」と言って、戦争へと突き進んでいった。そしてヒトラー自身も無慈悲に滅ぼされてしまった。

   台風・地震・津波・洪水・雷・火山・隕石の衝突・老病死・・・大自然は人間の願いを無視し、無慈悲に人間を滅ぼしてしまう。

   20041226日にはスマトラ沖地震の津波で20万人以上の死者が出ている。日本でも2011311日の東日本大震災で2万人近い死者が出ている。ヒトラーがいうように、たしかに大自然は無慈悲である。人間は大自然の前では虫けらのように滅ぼされてしまう。金品目的で平然と人殺しをする人間が多く存在しているのは、人間が大自然の一部だからである。

   しかし大自然が無慈悲だからといって、人間も無慈悲であっていいのだろうか。台風・地震・津波・火山・隕石の衝突など自然災害を予知し、防ぐ努力を人間は日夜励んでいる。原始時代から比べたら、科学技術の進歩は目を見張るものがある。 

    このことは、取りも直さず人間が大自然の無慈悲(不幸)克服のため存在していることを証明しているのである。

   大自然の無慈悲の中で最も辛いことは同じ人間同士が排除し殺しあうこと(戦争)である。この世に生を受けた人間が、同じ人間から排除され殺される、こんな辛いことはない。排除されるのは天変地異のみで十分である。人間までがそれに加担する必要は全くない。

   ヒトラーがいうように人間は大自然の一部である。人間の中に無慈悲は厳然と存在しているが、だから人間も無慈悲であっていいのではない。  

    人間は大自然の無慈悲に勝利する喜びのため存在しているのである。

 

2026年3月24日 火曜日

電子書籍で出版した「網走五郎・神社物語」今日の掲載は

 

(71)   人生の醍醐味

 

    人から嫌われる修行や断食や極寒の海に入っての禊は自分で作り出す不幸である。しかし人生には自分が望まなくても次々と不幸が襲ってくる。地震・寒波・旱魃・津波・火山噴火・台風・竜巻・落雷・豪雨・洪水・隕石の衝突・交通事故・失恋・失業・貧困・飢餓・戦争・いじめ・老・病・死…その他避けることのできない不幸は世の中に無数に存在している。

   人生をゲームとして成り立たたせるためには不幸(関門)が必要不可欠だからだ。

   人生の醍醐味は不幸を克服し勝利するところにある。不幸に勝利するには、まず耐えなければならない。不幸から逃げてしまったり、逃げ腰で立ち向かっては勝利は覚束ない。真正面から耐えることによって、不幸を克服する知恵も勇気も生まれてくる。

 いかなる不幸に遭おうとも逃げず隠れず背中を見せず真っ向勝負で生きること。

   次に目標達成への努力である。努力なしでは勝利の女神は微笑まない。神の子である我々に不可能は存在しないの必勝の信念で努力することだ。

   それはスポーツで勝利者になるのと全く同じである。マラソンの勝利者になるためには、苦しい練習に耐えなければならない。練習なくして勝利なし。苦しい練習に耐えた者がマラソンの勝利者にな

る。

   では朝から晩まで苦しい走り込みを続けていたら勝利者になれるかといったら、そんな単純なものでもない。休みなく練習を続けていたら、いずれ体を壊してしまう。苦しい走り込みと休養とのバランスあるトレーニング、さらに素質とか運とかが勝敗を左右する。

   私はボクシングを指導しているが、ボクシングはマラソンよりもっと苛酷なスポーツである。苦しいロードワークや減量の他、スパーリングといってリング上でグローブをつけて殴りあう実践練習が待っている。

実践練習は、殴られる恐怖と痛みに耐えなければならず、神主や修行僧のいかなる修行よりも苦しい。

   ボクシングで勝利者になるためには、このスパーリングを避けて通るわけいかない。スパーリング

を嫌う者は決して強くなることができない。それでは朝から晩まで毎日スパーリングを続けたら、世界チャンピオンになれるかというと決してそうではない。そんなことしたらアッという間に廃人になってしまう。苦しいトレーニングと休養とのバランスこそが、強くなる秘訣である。

   このことは人生の勝利者になるためにも、そっくり当てはまる。スポーツの苦しい練習に相当するのが不幸()であり、休養に相当するのが幸福()である。不幸が人格を磨くからといって「不幸よ、来い!」とばかり、自らの手足を切断したり、目をつぶしたり、エイズ菌を輸血するなど不幸ばかりを追い求めては、スパーリングばかりし続け

 

 て廃人になってしまうボクサーと同じ過ちをおかしてしまう。不幸を求め過ぎては自滅する。

   過食は万病を招き絶食は死を招く。適度の晩酌は長命を促し飲み過ぎはアル中や肝硬変を招く。一方ばかりを追い求めては道を誤る。人生の勝利者になるには不幸も必要だが幸福も必要である。

   しかし人間はともすると快感原則にしたがい、幸福ばかりを追い求めてしまう。落し穴に落ちる大きな原因はここにある。

  人生の目的は幸福ではなく勝利だ。この事が分かればで幸福ばかりを追い求めて自滅することもなくなる。