2026年10月2日金曜日
今日から2週間、小学校クラス会出席のため北海道に帰省するのでブログは休みます。

2026年10月1日木曜日

「網走五郎・神社物語」、今日の掲載は 

(63)   催眠術からの解放

 

 我々は自分の本質が弱い存在だと信じている限り強く生きることはできない。肉体を自分だと信じている限り、恐怖におののきながら生きざるをえない。肉体はいずれ滅び去る弱い存在だからである。

    私は超人の自覚を持つようになってから、逞しく生きられるようになった。それは催眠術の金縛りの術にかかって、もがき苦しんでいた者が術から解放された自由であった。

    すべての人間は多かれ少なかれ催眠術にかかっている。肉体を持った時から「お前は肉体である、弱い存在である、自分を守れ、さもなければ滅びるゾ」と暗示を与えられ続けるからである。

    その結果、何かに頼って生きるようになり、挙げ句のはては「苦しい、助けてくれ!」と悲鳴をあげる弱者人間ができあがるのである。

 しかし弱い人間は人間本来の姿ではない。催眠術にかかっているにすぎない。

   俳優は自分が舞台で殺人鬼を演じたからといって、決して役柄と自分を混同するものではないが、もし殺人鬼を演じているうちに、自分が本物の殺人鬼であると錯覚して、人を殺してしまったら、この俳優は刑務所か精神病院に入れられてしまうであろう。

    我々も目に見える肉体を自分だと思ってはいけない。目に見えるもので自分の価値を計ってはいけない。人間の本質は無、すなわち肉体を超越した傷つかない滅びない不死身自由自在神と一体無限力の超人である。超人こそが真の自分なのだ。そのことを理解しないと殺人鬼を自分であると錯覚して人を殺してしまう俳優と同じ間違いを犯すのである。

    我々は人生という舞台で芝居を演じているのだ。ある者は白人を演じ、ある者は黒人を演じる。ある者は総理大臣を演じ、ある者は土方を演じる。又ある者は大富豪を演じ、ある者は浮浪者を演じる。   

 私自身、天井棧敷時代は俳優を演じ、その後は土方やタクシー運転手や神主やボクシングトレーナーを演じてきた。

    しかし人間が尊いのは、その役柄の立派さにあるのではなく、人間の本質が肉体を超越した傷つかない滅びない不死身自由自在神と一体 無限力の超人であるところにあるのだ。

    超人の自覚をもって生きている者は、自分が資産家であるか乞食であるか、総理大臣であるか庶民であるか、東大卒であるか中卒であるか、健康体であるか病弱であるかは問題ではない。それらが自己の本質と全く関係ないことを知っているからである。

 

 電子書籍で出版した「網走五郎・神社物語」、今日の掲載は 

 

(63)   催眠術からの解放

 

 我々は自分の本質が弱い存在だと信じている限り強く生きることはできない。肉体を自分だと信じている限り、恐怖におののきながら生きざるをえない。肉体はいずれ滅び去る弱い存在だからである。

    私は超人の自覚を持つようになってから、逞しく生きられるようになった。それは催眠術の金縛りの術にかかって、もがき苦しんでいた者が術から解放された自由であった。

    すべての人間は多かれ少なかれ催眠術にかかっている。肉体を持った時から「お前は肉体である、弱い存在である、自分を守れ、さもなければ滅びるゾ」と暗示を与えられ続けるからである。

    その結果、何かに頼って生きるようになり、挙げ句のはては「苦しい、助けてくれ!」と悲鳴をあげる弱者人間ができあがるのである。しかし弱い人間は人間本来の姿ではない。催眠術にかかっているにすぎない。

   俳優は自分が舞台で殺人鬼を演じたからといって、決して役柄と自分を混同するものではないが、もし殺人鬼を演じているうちに、自分が本物の殺人鬼であると錯覚して、人を殺してしまったら、この俳優は刑務所か精神病院に入れられてしまうであろう。

    我々も目に見える肉体を自分だと思ってはいけない。目に見えるもので自分の価値を計ってはいけない。肉体を超越した目に見えない傷つかない滅びない不死身・自由自在・神と一体無限力の超人こそが真の自分なのだ。さもなければ殺人鬼を自分であると錯覚して人を殺してしまう俳優と同じ間違いを犯すのである。

    我々は、いわば人生という舞台で芝居を演じているのである。ある者は白人を演じ、ある者は黒人を演じる。ある者は総理大臣を演じ、ある者は土方を演じる。又ある者は大富豪を演じ、ある者は浮浪者を演じる。   

 私自身、天井棧敷時代は俳優を演じ、その後は土方やタクシー運転手や神主やボクシングトレーナーを演じてきた。

    しかし人間が尊いのは、その役柄の立派さにあるのではなく、人間の本質が肉体を超越した傷つかない 滅びない自由自在神と一体 無限力の超人であるところにあるのだ。

    超人の自覚をもって生きている者は、自分が資産家であるか乞食であるか、総理大臣であるか庶民であるか、東大卒であるか中卒であるか、健康体であるか病弱であるかは問題ではない。それらが自己の本質と全く関係ないことを知っているからである。

 

 

2026年9月29日火曜日

「網走五郎・神社物語」今日の掲載は 

(62)    超人の自覚


   大学中退後、北海道金山ダム建設現場での土方生活を経て上京、牛乳配達・消毒会社作業員・ガードマンなど職を転々とした後、天井桟敷に入団した。

   その頃には私もかなり逞しい人間になっていた。それは苦難にさらされて鍛えられたせいもあるが、その間に自分が超人の自覚をもつようになったからである。この自覚は誰でもが持てる自覚である。

   我々は強く生きるためには、自分が強い存在であることを自覚しなければならない。それは懐に百万円の大金を持っていても、一万円しか持っていないと信じていれば、一万円以上の買物ができないのと同じである。怪力無双の大男でも、催眠術にかかりエンピツ以上の重さのものを持つことができないと信じたら、そのとおりになってしまう。

   自分がピストルの弾丸一発で滅んでしまう肉体だと信じているかぎり、いかに強く生きようと思っても強く生きることはできない。すなわち我々は肉体を超越した超人の自覚を持つことによって逞し生きることが出来るようになるのである。

   私は高校の頃、催眠術の不思議な力に魅了された催眠術を学んだ。その後自己催眠術の実践を続けていた。

   生まれまれてくる以前の何も無い本来の自分「無」を瞑想しているうちに、いつしか 『元々何も無かった俺の本質は無、即ち肉体を超越した傷つかない滅びない不死身・自由自在・神と一体無限力の超人である』と、思えるようになってきた。すると不思議に強く生きられるようになったのである。

   実は不思議でもなんでもない。「無」ほど強いものはない。なにものにも捉われなくなるからである。執着がなくなれば悩みはなくなる。天空に漂う雲が雨となって地上に落ち、川となり海となり再び雲になる水の如く自由自在である。

   無からビッグバンがおこり宇宙が生まれた。無は一切のものの生みの親、無限能力の神である。超人は無限能力の神と一体であったのだ。

「無」を瞑想しているうちに、超人の自覚が生まれ、神と一体である人間本来の強い姿が現われたのは自然の理である。

   私はニーチェの著書を読んで超人の自覚を持つようになったわけではない。しかしニーチェの超人思想はあまりにも有名である。ニーチェは「ツァラトゥストラ」の中で次のように述べている。

 ・・・・・・・

『人間は動物と超人との間に張りわたされた一本の綱である。深淵の上にかかる綱である。渡ってかなたに進むのも危うく、途上にあるのも危うく、うしろをふり返るのも危うく、おののいて立ちすくむのも危うい。人間において偉大な点は、かれがひとつの橋であって、目的ではないということだ』

 ・・・・・・

   ニーチェは綱を渡っている人間が目指す目的は超人であると述べているのである。

 

 

2026年9月28日月曜日

「網走五郎・神社物語」、今日の掲載は 

   (61)  弱虫だった私

 

   私は弱虫な少年だった。小学校の頃、幽霊が恐くて、夜一人でトイレに行けなかった。そのため小学校六年生まで母と一緒に寝ていた。

   中学校に入学してからは朗読恐怖症にとりつかれた。教室で教科書を朗読をさせられるのが恐くてたまらないのだ。高校になるとその恐怖は更に激しくなり、緊張のあまり声が出なくなった。このままでは、必ず自殺すると思った。

『なぜ学校では微分や積分は教えても、生きるために最も大切な、強い性格になる法は教えないのだろう』

   私は学校の授業にだんだん興味を失い、反面校内屈指の不良学生になっていった。不良になることによって弱い性格を克服しようとしたのである。

   血みどろの戦いが始まった。廊下でガンをつけた、肩が触れたといって、同級生に因縁をつけ喧嘩を売った。絡んできた者に対しては即パンチを浴びせた。ボクシングジムに通い始めていたので、殴り合いでは負けなかった。「網走五郎」の下地は高校の頃、すでに作られていたのである。

   しかし如何に虚勢を張って強がってみたところで、決して強い性格になることはできなかった。仲間がいる時の、威勢のよさとは裏腹に、一人になると常に震え続けていた。

   ある時など、学校の番長とドスを持って決闘することになったが、その前夜、恐怖のあまり食事が全く喉を通らなくなった。食物を飲み込もうとしても、胃のほうに下りていかず口に戻ってくるのである。腸はまるで蛇のように勝手にクネクネと動き回っていた。恐怖に疲れ果て、何時の間にか眠りについていた。

   翌日、級友から借りたドスをカバンに忍ばせ学校に行った。級友の前では威勢よく振る舞っていたが、午前中の授業はうわの空で、頭をよぎるのは刺し殺される自分の姿と、机の上に置かれた一輪のバラの花だった。

   昼休みが決闘の時間だった。場所は体育館裏。時は刻々と近付いていった。

『殺されたくない、殺したくもない』

   内心、誰か止めてくれと祈る気持ちだった。ところが決闘直前、まるで祈りが通じたかのように、担任の先生が駆け付け、決闘は中止になった。事態を察知したクラスメートの一人が担任にチクったのだった。

   即刻父親が学校に呼ばれ、延々と説教をくらった。口では「誰がチクッたか!」と強がっていたが、内心、ほっと安堵の胸を撫で下ろした。

 

 

2026年9月26日土曜日
奥武山ボクシング会館
ジムに来たのは20人。

KCさん指揮のもと練習は行なわれた。











2026年9月25日金曜日 

「網走五郎・神社物語」、今日の掲載は

(60)  ボクシング教室

 

 私は昭和59年(1984年)から、沖縄県ボクシング連盟が管理する奥武山ボクシング会館でボクシング指導を行っている。教え子も五百人を越え、医者・教員・県庁職員・自衛官・自営業・プロボク サーと多種多様な職種の者が誕生している。練習生の支流は高校生である。

 私の指導方針は練習生を絶対に罰しないことである。どんなに出来の悪い選手といえども決して怒鳴ったり罰したりしない。即ちスパルタとは正反対の指導を続けている。一般的にスポーツの指導はスパルタが主流である。特にボクシングの場合は怒号や罵声・鉄拳制裁は日常茶飯事である。知り合いの監督は手で叩くと手が痛いので、竹刀で選手を叩きつけていた。

 スポーツで強い選手を作るにはスパルタ教育が必要なのだろうか?私は選手を一度も叩いたことがない。罵声や怒声を浴びせたこともない。

 ボクシング指導を始めた初期の頃、沖縄県護国神社に暴力団員が多数参拝に来ていた。その中の一人と親しくなった。昔ボクシングをしていたからだ。コーチをお願いすると快く引き受けてくれた。ボランティアにもかかわらず、毎日ジムに顔を出し熱心に指導してくれたので最初は感謝していた。ところが20名ほどいた練習生が除々に少なくなりはじめた。原因は彼の指導方法にあった。

 徹底したスパルタ教育だった。練習生に怒声罵声を浴びせ、駄目な選手には鉄拳制裁も加えていた。床に正座をさせ長時間説教もしていた。これは駄目だと思った。しかし私からコーチを依頼しただけに、止めてくれとは言い出せないでいた。練習生が10名を切った時、ついに彼に怒声や罵声、鉄拳制裁をしないようお願いした。しかし一向に彼のスパルタ教育は改まらなかった。

 そんなある日、ジムの中を遠方から覗いている高校生の姿が目にとまった。ジムの練習生で、彼が居るかどうかを確認して居なければ練習しようとしていたのである。私は暴力団員と練習生のどちらを選ぶかの選択にせまられた。暴力団員を選べば練習生はゼロに近付いていく。練習生を選べば暴力団員を排除しなければならなくなる。

 私が天井棧敷で主張し続けたのは「暴力団員も精神異常者も劣等生も犯罪者も、この世に生を受けた者は誰も排除するな」 であった。私は暴力団員の彼を排除したくなかった。しかし練習生がジムまで来て、じーっとジム内を見続けて帰っていく姿を目の当たりにした時、彼に出て行ってもらう決心をした。

 「俺からコーチをお願いしておいて、申し訳ないが、今日限りでコーチから手を引いてもらえないか」

 一瞬沈黙が走った。理解してもらえたかなと思った。しかしそうではなかった。

「お前からコーチをお願いしておきながら、手を引けとはどういうことだ。舐めるんじゃねーよ!」

 神主になる以前の私だったら、この時点で相手が反撃不可能になるほど殴りつけて勝負を決めていた。

「すみません」

 私はひたすら謝り続けた。彼さえ手をひいてくれれば、どんな恥でも忍ぼうと思った。しかし彼の怒りは納まらなかった。

「練習生の前で俺の顔に泥を塗りやがって!お前はいつから俺に指図するほど偉くなったのか!」

 私をジムの外に呼び出した。やる気なのかなと思った。ところが「話し合いは神社でつけよう」 とだけ言い残し帰って行った。 

 一週間ほど過ぎて本当に神社やって来た。しかも大勢の仲間を連れてきた。丁度その日は建国記念日(2月11日)で、別グループの右翼団体も参拝に来ていた。沖縄の右翼団体は名称こそ右翼団体だが、メンバー全てが暴力団組員で構成されていた。総勢百名余りの組員を前に彼は、私が彼等を暴力団呼ばわりしていると罵った。ところが意外な展開が待っていた。

 別グループの親分が言った。

「またその話か」

 聞き飽きたとばかりに一蹴した。北方領土まで泳いだ私は、一部の右翼団体からは神のように崇められていたのである。その後彼はジムに来なくなった。練習生は再び元の状態に戻り賑わうようになったのである。

   沖縄県にはアマチュア選手の育成強化を目的とする拳友会というグループがある。オリンピック代表選手や国体全国チャンピオンなど、そうそうたるメンバーで構成されていた。その数20名のメンバーで曜日を決めてボクシング教室を指導していた。ところが 5年経っても6年経っても県チャンピオン 1人出すことができなかった。 

   そんな折、県ボクシング連盟に分裂騒動が起き日本ボクシング連盟から活動停止処分を食らった。裁判にまで持ち込まれ活動再開まで2年間がかかった。

 その間に拳友会員は皆嫌気をさし次々指導から手を引き、最後に残ったのは最も指導下手と思われていた五郎だけになった。

 ところが意外なことが起こった。その後次々県チャンピオンが誕生するようになり、九州チャンピオン 全国チャンピオンまで誕生するようになったのである。

「船頭多くて船 山に上がる」とはよく言ったものだ。それぞれの指導者が皆自分の指導に自信があるため、曜日によって指導の仕方が違っていたのである。

 船頭は1人がよいことが証明されたのである。ちなみに具志堅用高以下全国チャンピオンを40人以上輩出した名伯楽 金城眞吉は自宅にジムを開き一人で指導していた。

 

 

 

2026年9月24日木曜日

『網走五郎・神社物語』今日の掲載は (59) 人から嫌われる修行

 

   人から好かれたいという感情は皆が持っている。この感情は、子供の頃は親に捨てられては生きていけない、思春期以降は異性に嫌われては子孫繁栄につながらない、社会人になってからは世間から嫌われては家族を養っていけないという必然性から生まれたものである。

   しかしこの感情に固執し過ぎると人格は未熟のままに留まり、生きて行く上で色々な弊害が出てくる。

   心身症、神経症、対人恐怖症、情緒障害、自閉症、ノイローゼ、うつ病、統合失調症などである。

   寺山修司は人から嫌われる修行をしろと常々言っていた。「家出のすすめ」「書を捨てよ、町へ出よう」「不良少年入門」「きみもヤクザになれる」「悪徳のすすめ」「反俗のすすめ」「成年よ大尻を抱け」「みんなを怒らせろ」など、寺山修司の多くの著書は反社会的行為を奨めている。これらは青少年を犯罪者に導くことが目的で書かれたのではなく、自立した人間へ導くのが目的で書かれていたことはいうまでもない。

   しかし、そのことに気付かない親たちは、「寺山修司はけしからん」と言って非難した。当時、劇団へは「うちの子は寺山の本を読んで不良になった、どうしてくれる!」と抗議の電話が殺到した。しかし寺山修司は「本一冊読んで不良になった子は、本一冊読んで元に戻ります」と、涼しい顔をしていた。

   寺山修司は人から嫌われることを恐れなかった。

「人に好かれていい子になって、落ちていくときゃ一人じゃないか」 という畠山みどりの歌を好んでうたっていた。

   人に好かれていい子になっても人格は成長しない。落ちていくときゃ一人とは、死んでいく時は一人の意味である。人間、最後は1人で死んでいく。三途の川は一人で渡らなければならない。三途の川を笑って渡るためには、人格の成長が必要である。人格の成長とは自立した人間になることである。

   寺山修司からのメッセージ、それは「自立した人間になれ」であった。自立して生きる、これが大人の条件である。

   大人になるため、どうしても通過しなければならない関門、それが人から嫌われる修行である。俗に反抗期といわれる時期はこれにあたる。この時期を通過することにより、子供は大人へと成長していく。人から嫌われる経験を重ねることにより、我々は人の思惑や評価に左右されない大人の人格へと成長していくのである。

   意地悪・悪口・失敗・恥ずべき行為・不法行為など人から嫌われる全ての行為は修行になる。犯罪者は一般的に悪人と思われている。しかし見方を変えれば、彼等は本人が意識しているかどうかは別として、人から嫌われる修行を積んでいるのである。人から嫌われることにより、人格が磨かれているのだ。刑務所帰りの人に腹のすわった人が多いのはそのためである。

   だからといって犯罪者になることを奨めているわけではない。罪を犯し刑務所に繋がれてしまっては、人生をよりよく生きるどころか人生そのものを潰してしまう。

   人生をよりよく生きる修行、それが人から嫌われる修行である。

 

 

 

 

 

2026年9月23日水曜日

「網走五郎・神社物語」今日の掲載は

 (58)  フリーセックスのすすめ

 

   演劇実験室・天井棧敷はフリーセックスの集団だった。入団すると、すぐ寺山修司指揮のもと新入団員の男女がペアになって全裸で抱き合う演技指導を受けた。照明を落とし薄暗くした地下劇場の中で、好き嫌いに関係なく隣にいる男女が全裸になって抱き合うのである。セックスまでいかせては法的に問題が起こるので、抱き合うだけにとどめさせていたが、全裸での肌と肌の触れ合いは、その後劇団員同士を抵抗なくセックスに導くには十分だった。劇団の寝室ではセックスしている光景がよく見かけられた。皆おおらかにセックスを楽しんでいた。

 寺山修司は「さかさま恋愛講座・青女論」の中で次のように述べている。

 

『私がここでくり返して言いたいのは、たかがセックスだということです。そのことにまつわる幻想も迷妄も捨てて、ボウリングやフォークソングのようにセックスを楽しむことを考えるべきだということです。そうしなければ、潜在的な性の抑圧が、あなたと社会との関係を歪で暗いじめじめしたものにしてしまうでしょう』

 

   地方公演に行った時は、宿泊先に押し掛けたファンも加わってセックスを楽しんでいた。

鎌倉市で、「犬神」のヨーロッパ帰国凱旋公演が行なわれたことがあった。経費節減のため劇団員はお寺の経堂に泊めさせてもらった。みな雑魚寝状態だったが、ここでもフリーセックスは健在だった。お釈迦さまは、あの光景をどのように見たことだろう。

「現世も極楽浄土になりつつある」 と、微笑んだことと思う。

   しかし、あれから五十年以上過ぎた今、性解放はどれだけ進んでいるというのだろう。未だに性器は恥部と言われ、隠すものと教育されている。人前で性器を露出すると、猥褻物陳列罪で即逮捕されてしまう。嫌がる人に無理遣り性器を見せるのを禁ずるならまだしも、ストリップ劇場で踊り子が見たがる客に性器を見せることさえ法律では禁じている。

   文章にしても写真、映画にしても同じである。姦通罪こそなくなったが、複数の男性と性交渉を持つ婦人は貞操観念がない、だらしがないとされている。

   私が女性との性交渉を最も望んでいた時期は高校生の頃だった。旺盛な性欲を手淫で処理していた。本来異性との性交渉によって満たさなければならない性欲を、手淫で処理しなければならないとはなんと馬鹿げたことであろう。

   最近の新聞に、高校生のセックス体験調査が載っていたが、男女とも経験者は、まだ半数にも達していない。一度だけの経験も含めてである。おそらく性欲を手淫なしで満たしている生徒は1%にも満たないだろう。しかもその少数の生徒は非行少年少女と呼ばれている。

   そもそも少年少女のセックスを禁じたのは、性衝動が発動するとともに子供を作ったのでは、文明社会を維持し発展させることが出来ないからであった。しかし現在は避妊器具も文明と同じ程度に進歩してきている。

   もし若者たちの幸福を願うなら、学校ではセックスの禁止や制限を説くかわりに、避妊の方法と性病予防を徹底的に教え込むべきである。

若者のセックスを禁ずる大人たちは、若者を苦しめて喜ぶサディストか、若者の幸福を嫉妬する捻くれ者か無知者に過ぎない。

   若者に性を解放するとセックスのみに明け暮れして、勉学が疎かになると心配する御仁がいるかもしれない。しかし性欲は食欲と同じで満たされればなくなるのである。食物が豊富に手に入るからといって、四六時中食べ続けている者がいるであろうか。食物に飢えた人間のみが、食物に執着し続けるのである。

   性が解放されれば手淫を行なう若者はなくなり、真に性の執着から解放され勉学に励むようになる。

   フロイトは次のように述べている。

 

『ある民族の性衝動を制限すると、それとともに一般的現象として、不安な生活感情と死の恐怖とが増大してきて、その結果個々人の生享受能力に機能障害がおこり、何らかの目的のため一命を堵するという覚悟が失われ、そういう民族あるいは、そういう人間集団は未来から締め出されてしまうのである』

 

   性を解放したら性犯罪が増加すると心配する声がある。たしかに性の捌け口を与えず、ポルノを町に反乱させれば、性犯罪は増えるかも知れない。しかし性が解放された時、人びとはポルノやストリップなどに興味を持つであろうか。

 性犯罪は、性の解放によってのみ撲滅できるのである。

   ちなみに天井棧敷劇団員が性犯罪を犯したという話を聞いたことがない。

 

 

 

「網走五郎・神社物語」今日の掲載は

 (57)   不良のすすめ

 

 網走族は不良でなければならない。世の中のハジカレ者・出来の悪い劣等生を指して名付けたからである。私は高校に入学した頃から不良になりはじめた。その第一の原因は学校の成績が悪かったことだ。いくら勉強しても劣等生のままだった。他に性格の弱さ、権威権力への反抗、太陽族といわれた石原裕次郎への憧れなどがあった。

 なかでも裕次郎映画の影響は大きかった。中学校三年生の時、初恋の彼女に「裕次郎好き?」と聞いた。「大好き」という答えが返ってきた。それ以来、裕次郎が大好きになったのである。

 「嵐を呼ぶ男」「勝利者」「鷲と鷹」「赤い波止場」「やくざ先生」…何度見たか分からない。この映画の主人公に共通していたのは不良であった。

『俺も裕次郎のような不良になりたい』

 学校では裕次郎の真似をして肩を怒らせて歩き、目があったといって因縁をつけ、肩が触れたといって喧嘩を売った。高校卒業の頃には私も、いっぱしの不良になっていた。

 大学中退後、土方を皮切りに職を転々とし、天井棧敷に入団した。そこで寺山修司から「網走五郎」と命名され不良の素質が開花したのである。肩で風を切って歩き、劇団内外を問わず、誰かれとなく因縁をつけ喧嘩をうった。

 一方憧れの裕次郎は、石原プロダクションのボスとなり、不良から遠ざかっていった。「太陽にほえろ」「西部警察」など、どの作品も不良とは縁遠い役を演ずるようになり失望した。私の大好きな裕次郎は、太陽族と言われた不良の裕次郎であった。

 とはいえ不良で居続けることは、なんと大変なことであろう。本物の不良、生まれつき出来の悪い劣等生のみが不良で居続けることができるのである。

 精神科医・今村正一は「人間性」という著書の中で「傾いた家を支えるには、その傾斜と同じ角度の支柱を反対方向から立てなければならないのと同じように、異状な環境に対しては、精神病になって無責任になるか、それとも異常な性格になって対抗し防御しなければ生きて行くことはできない。かく考えてみれば、不良少年は異常な適応でも順応過誤でもない。むしろ不良少年の多くは頭脳明敏で、一寸した環境の変化にも敏感なのである。環境不良の場合に、神経衰弱になるのは別だが、不良になる者の中には有望な青年や天才的な青年が少なくないことを経験している」と、述べている。

 私が頭脳明敏な少年であったかはともかくとして、最も人格が倒壊しかかっていた高校時代に、最も不良性を発揮していたことは確かである。

 学校をサボってパチンコ屋・ビリヤード・ストリップ劇場・成人指定映画館・ボクシングジムに出入りし、すでに酒も煙草もやるようになっていた。

 当時の校舎は木造だったが、冬の冷えた日には教室の壁を剥いで燃料代わりに燃やした。教室に入ってきた担任の先生は壁板が剥がされストーブで燃やされていることに気付き仰天し激怒した。生徒一人一人に「誰が燃やした」と問い質したが、誰一人私の名を出すものがいなかった。沈黙が続き気まずい雰囲気になったので、自分から名乗り出た。担任は鬼のような顔をして私を睨みつけ「お前はファッショだ!」と怒鳴った。しかしそれ以上のお咎めはなかった。名乗り出たことによる免罪だった。

 試験のカンニングもコソコソと隠れて行なうのではなく、教科書を机の上に堂々と出して行なっていた。先生は呆れ果て見て見ぬふりをした。それでいながら隠れてコソコソ行なう他の生徒は摘発されていた。

 先生を脅したことも多々あった。兄は、すでに別の高校の教員をしていたが、「お前の学校にはN先生(N先生は体育の先生で、生徒たちから恐れられていた)を脅すなど、すごい不良学生がいるんだってな」と話しかけてきたことがあった。よくよく話を聞くと、すごい不良学生とは私自身のことだったので、二人は苦笑いしたものだ。私の悪名は他高校の先生にまで知れ渡っていたのである。

 授業は、ほとんど出なかった。私には三人の悪友がいて、彼等が代返をしてくれていたのだ。お陰で卒業に必要な出席日数をクリアして無事卒業することができた。卒業式を終えた後、三人の悪友と担任の先生の家に遊びに行った。

 先生が言った。

「お前たちが卒業できたのは私が担任だったからだ」

 三人の悪友中、二人は卒業後ヤクザになった。私の高校は札幌西高といって北海道内トップを競う進学校で、優等生のみを尊重していた。あの頃私が最も求めていたものは、人々からの愛情と承認だった。優等生のみが、ほしいままにしている愛情と承認を、私は不良になることによって対抗した。

 あの札幌西高の校風に反逆した気持ちは今も全く変わっていない。今の世の中、金・地位・名声・財産・肩書き・美貌・才能のある者は尊重されるが、無い者は相手にされない。同じ人間として生まれてきていながら、たまたま悪環境に生まれたり、才能や能力や財産のない者は相手にされないようにできている。

 この社会風潮に対し、反逆せざるを得ないのである。私を含めた世の中のハジカレ者が、自由にのびのびと生きられる社会を作り出すために、いわば意識的にスネ者を演じるわけだ。 どんな出来の悪い人間といえども排除されない愛情と理解に満ちた社会、それが私の目指す網走族だ。

 私が天井棧敷にいた頃、「あしたのジョー」が少年マガジンに連載中で人気を博していた。一切の権威権力に反抗し続けたジョーは我々劣等生の心の支えであった。あの反逆児ジョーは今何処へ行ってしまったのだろう。

 私は言いたい。

「ジョーよ、お前は名声と財産ができたことに満足し、小市民になりさがったのではあるまいな。世間の風の冷たさに耐えきれず、いい子になったのではあるまいな。女性たちからチヤホヤされて、骨抜きになったのではあるまいな。お前が反逆するのを止めたため、優等生たちが再び勝利者面してのさばりだし、その結果俺たち劣等生が地獄の苦しみを舐めなければならなくなってきているではないか」

 しかしジョーは漫画の主人公であり実在しない。スネ者は身体を張った世の中の改革者である。俺たちは実在のスネ者として生きようじゃないか。

 

 

 

 

 



 

「網走五郎・神社物語」今日の掲載は

 (56)  懲罰はよせ!

 

 演劇実験室・天井棧敷は不思議な劇団であった。劇団でありながら演劇に疎い者も沢山在席していたのである。寺山修司が若者に「家出のすすめ」「書を捨てよ、町へ出よう」「不良のすすめ」「フリーセックスのすすめ」「みんなを怒らせろ」「悪徳のすすめ」「きみもヤクザになれる」等を訴えていたため、全国各地から家出人や不良少年少女が集まってきた。劇団員募集要項には「怪優・奇優・魔人・強奪魔・男色家・革命家・扇動家・裏切り者・夢想家・堕落者・預言者・思想家歓迎」と、書かれていた。

 私など演劇に疎い典型で、芝居には全く興味がなく、単に寺山修司に憧れて入団してきた一人だった。舞台公演が近付いても稽古に顔を出さず、たまに顔を出すと、演技がなってないと怒鳴られた。演劇に疎い私にとって、怒鳴られたり殴られたりしながらの演技練習は、苦痛以外の何ものでもなかった。

「懲罰はよせ!」は劣等劇団員・網走五郎の心の叫びであった。

 イギリスの教育家A・Sニイルは「問題の子」という著書の中で次のように述べている。 

「悪をなす人々は実は不幸な人々である。非社会的になることは決して人間の本性ではない。幸福な人は決して協調を破壊したり、戦争を主張したり、黒奴を厳罰に処したりはしない。幸福な女は決して夫をののしったり、子供をいじめたりするものではない。幸福な人はいまだかつて泥棒をしたり、人を殺した例がない。すべての罪、すべての憎しみ、すべての争いは不幸にもとづくものである」 

 また

「処罰は病気を作る。しかしこれに対し、いや必ずしも病気を作るとのみ限らないなどという者は、その結果をはっきり見ようとしない者である。わいせつな行為で拘留されている露出狂の多くは、子供の頃性的習慣に対して、あまりにも厳しく罰せられたためである。罰せられれば憎しみがおこる。憎しみは巡り巡って幾年かのち再びあらわれる。罰せられた子供は大きくなって罰する父になり罰する母になる」

 

 A・Sニイル著「問題の子」を、兄の書棚から見つけて読んだのは高校の時だった。高校教師をしていた兄の書棚には、教育に関する本が沢山並べられていたが、何故かこの本だけが目にとまった。私自身、問題の子だったからである。

 ニイルはサマーヒル学園という問題の子を扱う学校を経営していた。そこでは生徒に一切の強制を排し、悪事を働いても罰することはせず、自主性を重んじ自由に生活させていた。その結果、放火癖、盗癖、うそつき、夜尿症、癇癪持ち、空想に生きる子供等さまざまな問題の子が治っていったのである。

 犯罪者・神経症者・性倒錯者等いわゆる不幸な人々の多くは、幼少の頃きびしく罰せられたところに原因が潜んでいた。罰せられた子供は潜伏期間を経て大人になって発症する。また他人を厳しく罰する者の多くは、子供のころ厳しく罰せられたところに起因する。

 私が懲罰に反対したのは、懲罰とは悪事をはたらいた者に対する憎しみの行為だからである。暴力・窃盗・詐欺・強姦・裏切りをなした者が憎いから罰するのである。練習をサボったり、下手な演技をする劇団員が憎いから罰するである。そこには、むき出しの利己心があるのみで、相手に対する愛情や理解のカケラも感じられない。

 連合赤軍の懲罰は厳しかった。ヤクザ社会の懲罰も厳しい。下劣な社会ほど懲罰は厳しいのである。

 テレビで「実録・夜回り先生」を見た。水谷修という教師が、学校の授業を終えた後、歓楽街を巡回して、深夜徘徊をしている非行少年少女を善導していた。薬物中毒・引きこもり・リストカットなど生きることに戸惑っている子供の相談に、親身になって乗ってあげている姿には感動した。

 水谷修が言っていた。

「私は教員になってから22年になるが、ただの一度も生徒を叱ったり、怒ったり、怒鳴ったりしたことがない。恐怖で導く教育は教育ではない」


 懲罰が危険なだけで用のないことを、いみじくも言っていたのである。