電子書籍で出版した「網走五郎・神社物語」、今日の掲載は(19) 室崎清平。
神社庁長推薦という壁に阻まれ、五郎は神職養成学校にも行けず、無資格のまま神主を続けていた。
靖国神社元権宮司 池田良八から「神社本庁に加入してない神社の神主は資格がなくても勤まる。頑張りなさい」と励まされていたのである。
池田が長年勤めていた靖国神社の宮司 松平永芳も無資格であった。靖国神社は神社本庁に入っていない単立神社のため神主資格がなくても神主が勤まるのである。その点、沖縄県護国社も同じであった。
とはいえ無資格での神職奉仕には心が痛んでいた。
1年半ほど過ぎたある日、北海道出身の室崎清平という右翼の大物が沖縄県護国神社参拝に訪れた。和服姿の大きな体格、豪放磊落な室崎は西郷隆盛を彷彿とさせる男気のある81歳の翁だった。
すでに五郎のことは知っていた。
「君か、北方領土まで泳いだ宮司は」
笑顔で握手を求めてきた。
室崎は五郎のことを宮司と呼んだ。宮司とは会社で例えれば社長のこと、神社職員のトップの名称である。
「私は宮司ではありません。それどころか神職資格も持っていません」
五郎は同郷のよしみで話を続けた。
「神社庁長が推薦してくれないため学校にも入学できません」
すると室崎から意外な言葉が返ってきた。
「沖縄県護国神社の本物の宮司はお前だ、俺が神社庁長と掛け合ってやる」
室崎は北方領土まで泳ぎ、領土返還の抗議を行なった五郎を高く評価していたのである。
翌日、沖縄県神社庁がある波上宮に五郎を同行させ、嫌がる吉田玄蕃の手を掴み、無理矢理二人を握手させた。
「吉田さん、彼を一人前の神主にしてやってくれ」
「分かりました」
有無を言わさず神社庁長推薦を取り付けたのである。
しかし五郎は半信半疑だった。
『たぶん室崎清平さんが居なくなったら断るのだろう』
五郎は、言われたとおり一週間後、大阪国学院の提出願書を持って吉田玄蕃のもとを訪れた。吉田の態度が以前と、あまりにも違っていたので驚いた。
「室崎さんは恐ろしい人でね。敵にまわすと大変なことになる」
こう言って即座に推薦状を書いてくれた。さらに保証人にまでなってくれたのである。
室崎清平が神社界に名を馳せたのは昭和45年だった。札幌で冬季オリンピックが開催されるに先立ち、NHKのほか民放三社は難視聴地域を解消するため、北海道神宮の神体山に中継アンテナ塔の建設を計画した。神社本庁及び北海道神宮側は苦渋の選択で泣く泣く承諾した。
この時、怒りを顕にして立ち上がったのが室崎清平であった。
「神体山にアンテナ塔の建立とは何事だ!」
NHK会長 前田義徳に直訴談判するとともに、全国の要路者に超長文の激電を送って覚醒を促し、計画を撤回さたのである。神社会界に激震が走った。