電子書籍で出版した「網走五郎・神社物語」、この本には人類を救う力がある。 一人でも多くの人に読んで貰いたい。今日の掲載は (9)  最後の殴り合い喧嘩。

 

 

   天井桟敷に戻ることを断られた五郎は、相変わらず酒と女と喧嘩に明け暮れていた。那覇市古波蔵に在る五郎行き付けのバー「ミナ」で飲んでいた時、いかにも柄の悪い5人の団体客が入ってきた。沖縄では名の知れた暴力団組員達であった。

   他に客がいるにもかかわらず、まるで彼等の貸切バーであるかのような態度で、ホステスたちを呼付けドンチャン騒ぎを始めた。五郎にとって喧嘩を売る絶好のチャンスが到来した。

   その中の一人がトイレに立ったのを見計らって、五郎もトイレに向かった。トイレを終えて戻って来た組員に、五郎はすれ違いざま肩を接触させた。

「なんだ、文句があるのか!」

組員は当然相手が謝罪してくると思いつつ、鋭い目付きで睨みつけて怒鳴った。しかし五郎は喧嘩を売るため肩を接触させているため、謝罪するはずもなかった。

「お前さんこそ、文句があるのか」

「なにッ!」

   五郎の言葉に逆上した組員は、鬼のような顔になった。この顔面に向かって五郎は得意の左ストレートをたたき込んだ。いつもの喧嘩ならこの一発で終わるのだが、さすが相手はヤクザだった。床に倒れはしたが、すぐさま立ち上がり仲間に助けを求めたのである。5人の組員に取り囲まれた五郎は店の外にでるよう促された。

    彼等も店内での乱闘は避けたい、即ち店に迷惑をかけたくない心は残っていたのだろう。五郎は素直に彼らの指示に従った。店外へ出るまでの間、歩きながら、いつもの喧嘩と違うことを肌で感じていた。

『このまま戦えば負け戦になる』

   とっさに五郎は逃げる作戦に切り替えた。小学校の時から走るのは得意だった。徒競走ではいつも1等賞、中学校の全校マラソン大会では3年連続優勝、北方領土へ泳ぐ練習では毎日10㌔走っていた。過去にも何度か、殴った後、逃げ切り勝利したことがあった。五郎は店外に出ると同時に駆け出した。ところが20㍍も行かないうちに、蹴つまずいて転んでしまったのである。

   酔っていたためと歳のせいであった。転んだ五郎の上に5人が一斉に覆い被さってきた。 そして殴る蹴るの暴行が始まった。袋叩き状態だった。店にいた10名ぐらいの客も皆店外に出てきた。その中の1人が見兼ねて止めに入った。ママの親友、西平守政(自衛隊員)であった。

    沖縄の暴力団の残虐性は全国でも知れわたっている。五郎が沖縄に来た直後、ホステスから「沖縄のヤクザは皆ハジキを持っている。気をつけたほうがいいわよ」と忠告を受けた。

    沖縄には在日米軍基地の74%が集中しているため武器がそこから流れるのである。昭和50年代の武装力は半端ではなく、コルト45口径などの大型短銃のほかにカービン銃や手榴弾・ダイナマイトまで登場した。

    五郎はホステスの忠告を甘くみすぎていたのである。止めに入った西平を組員の一人が、突然、刃物で切り付けた。西平の顔面は鮮血で真っ赤に染まった。その顔はまるで赤鬼のようであった。血に染まりながらも制止をつづける続ける西平の姿に、さすがの暴力団たちも攻撃の手を緩めた。

    一方、西平を気づかったママは即救急車を呼んだ。このサイレンをパトカーと勘違いした組員達はそそくさと退散していった。到着した救急車に五郎も同乗しようとしたが、ママから制止され店に残った。

    まもなくして病院のママから電話があり、西平の傷は額の切傷一ヶ所のみで命に別状はないとのことを知らされた。五郎はホッと安堵の胸を撫でおろした。

「馬鹿なことをしてくれたわね」

店に戻ったママからの叱責に、五郎は首をうな垂れた。

    暴力団員を店から追い出すため、善かれと思ってやったことが、裏目に出てしまったのである。

   人生にはこのようなことがよく起こる。北方領土へ泳いだ時も、漁民から喜んでもらおうと泳いだが、結果は「迷惑だ」と恨まれた、国からも恨まれた。だからといって五郎に後悔はなかった。

<失敗は成功のもと、次の喧嘩は必ず勝つ!>

  五郎にとって、敗北は勝利のステップに過ぎなかった。

  しかし神様はその後、五郎を喧嘩とは無縁の世界、神職へと導くのである。

 

      写真は五郎の命の恩人西平守政さん。