電子書籍で出版した「網走五郎・神社物語」 今日の掲載は 

 

 (7)  尖閣諸島へ手漕ぎボートで渡る

 

   ソ連から帰国した五郎は次の旅先を尖閣諸島と定めた。

<尖閣諸島もハジキ出されているところが俺と似ている>

   尖閣諸島は北方領土と同じように、純然たる日本の領土である。明治28年、それまでどこの国の領土にも属していなかった尖閣諸島は、国際法上認められている占有による領土編入(他国より先に領土を占有すること)により、我が国の領土となった。

   ところが昭和43年、尖閣諸島周辺に海底油田が存在することが判るや、中国は突如として、自国の領土であることを主張し始めた。しかも日本政府は、昭和53812日、領土問題を棚上げして、日中平和友好条約に調印したのである。

   その結果、尖閣諸島は日本国からハジキ出されてしまったのである。

    五郎は右翼団体に属したことはない。五郎の領土返還運動は右翼団体が行なっている領土返還運動とは意を異にする。五郎が北方領土や尖閣諸島を目指したのは、日本の領土でありながらハジキ出されているところが自分と似ているからである。

<日本国家からハジキ出されている尖閣諸島を見殺しにできない>

「誰も排除するな ! 」 の延長だ。尖閣諸島を擬人化したのである。 ドンキホーテのようなものだ。

    しかし、もうひとつ五郎には秘する目的があった。寺山修司に網走五郎が健在であることをアピールしたかったのである。北方領土へ泳いだ時もそうだった。

<寺山さんを驚かせてやろう>

    北海道公演に行く飛行機の中で、寺山修司は新聞に載っている五郎の記事を見付け「これ網走じゃないか ! 」と仰天していたと、後、蘭妖子から知らされた。

<次は尖閣諸島に渡り、もっと驚かせてやろう>

   尖閣諸島へ手漕ぎボートで上陸することは、ある意味で北方領土へ泳いで渡る以上の冒険であった。尖閣諸島周辺の海は波が高く年間の大半が荒れており、過去に多くの船が座礁したり沈没している。レーダーを備えた漁船でも、東支那海に米粒のように存在する尖閣諸島を見失い中国に行ってしまったり、引き返したという話しを時々耳にした。

   そのため五郎は六分儀を買い、大海原で現在地を正確に割り出す勉強に励んだ。この勉強は専門家でも難しいといわれているが五郎はそれをマスターした。

   石垣島で購入した手漕ぎボートには、大波を被っても沈没しないよう、トラックのチューブ四本を括り付けた。連日、石垣島と竹富島を手漕ぎボートで往復し、体力強化も図った。

   昭和55720日午前5時半、与那国島なんた浜を出発、32時間後、尖閣諸島魚釣島上陸に成功した。しかし北方領土へ泳いだ時と違って、どこのマスコミも取り上げてくれなかった。海上保安庁が、「漁船で引いて行って貰った」 と真実を否定したからである。

「いったい何処の誰の漁船が引いて行ったというのだ!」

   五郎の寺山修司へのアピールは稔らなかったが、手漕ぎボートで尖閣諸島魚釣島に上陸した真実は燦然と輝いている。

 

 (尖閣諸島へ手漕ぎボートで渡った体験記も、拙著『網走五郎伝』に詳しく掲載されている)