電子書籍で出版した「網走五郎・神社物語」、今日の掲載は (5)五郎は犯罪者。

 

(5)  五郎は犯罪者

 

 当時の新聞を見れば分かるとおり、五郎と一緒に帰国した漁民には敬称があり五郎には敬称が無い。魚を捕って拿捕された漁民も領土返還を訴えて拿捕された五郎も、ソ連が定めた領海を侵犯した点では同じである。

    日本政府は「北方領土は日本固有の領土である」と言っている。すなわち拿捕された漁民も五郎も日本国側からみれば、領海侵犯は犯していないのである。

    北方領土へ泳いでから29年過ぎた平成18年8月16日、五郎が拿捕されたほぼ同じ場所で、日本漁船がロシア警備艇に襲撃されて漁船員一人が死亡する事件が起きた。

    この時の日本政府の対応は早かった。その日の午前中には外務省の原田親仁欧州局長がロシアのガルージン駐日臨時代理大使を外務省に呼び「北方領土は日本固有の領土」と指摘した上で「事実であるとすれば日本領海内で銃撃を受け、拿捕されたことを意味する。到底容認できない」と厳重抗議、その日の夕方には麻生外務大臣もガルージン駐日臨時代理大使を外務省に呼び厳重抗議している。

    十八日午後には塩崎恭久外務副大臣がモスクワ入りし、直ちに、アレクセーエフ外務次官、ロシュコフ国境警備局第一副長官と個別に会談し、乗組員と漁船の引渡しを要求した。 

     一方山中政務次官は「遺体を引取り、乗組員三人ともに帰れれば理想。とにかく連れて帰る」と決意を語り、漁民が収容されているクナシリ島に向かい、翌十九日午前、死亡した盛田光広さんの遺体と共に根室港に帰港している。船長以外の二人の乗組員は十一日後の八月三十日に、船長は一ヵ月半後の十月三日に無事解放された。

    しかし五郎の場合、外務副大臣がモスクワ入りして引渡しを要求したとか、現地に政務次官が来たという話は聞いたことがない。

    帰国した五郎は、しばらく札幌の両親の元で暮らしていたが、その間、定期的に刑事が訪ねて来るようになった。五郎の監視が始まったのである。

    23ヶ月過ぎた昭和5536日、五郎は再び沖縄に渡った。5月まで沖縄県護国神社に宿泊した後、竹富島の民宿「豊荘」、石垣島の民宿「移民館」、与那国島の「入船旅館」、岐阜県大口町での土方生活、北大東島でのキビ狩り、那覇に戻ってホテル「なじみ」、ホテル「日証」と移り住んだが、移り住む度に刑事が五郎を訪ねて来た。犯罪者(過激派右翼)として尾行される生活が始まったのである。