「網走五郎・神社物語」ダイジェスト8  網走五郎はかく語りき。

 

 (58)  フリーセックスのすすめ

 

   演劇実験室・天井棧敷はフリーセックスの集団だった。入団すると、すぐ寺山修司指揮のもと新入団員の男女がペアになって全裸で抱き合う演技指導を受けた。照明を落とし薄暗くした地下劇場の中で、好き嫌いに関係なく隣にいる男女が全裸になって抱き合うのである。セックスまでいかせては法的に問題が起こるので、抱き合うだけにとどめさせていたが、全裸での肌と肌の触れ合いは、その後劇団員同士を抵抗なくセックスに導くには十分だった。劇団の寝室ではセックスしている光景がよく見かけられた。皆おおらかにセックスを楽しんでいた。

 寺山修司は「さかさま恋愛講座・青女論」の中で次のように述べている。

 

私がここでくり返して言いたいのは、たかがセックスだということです。そのことにまつわる幻想も迷妄も捨てて、ボウリングやフォークソングのようにセックスを楽しむことを考えるべきだということです。そうしなければ、潜在的な性の抑圧が、あなたと社会との関係を歪で暗いじめじめしたものにしてしまうでしょう』

 

   地方公演に行った時は、宿泊先に押し掛けたファンも加わってセックスを楽しんでいた。

鎌倉市で、「犬神」のヨーロッパ帰国凱旋公演が行なわれたことがあった。経費節減のため劇団員はお寺の経堂に泊めさせてもらった。みな雑魚寝状態だったが、ここでもフリーセックスは健在だった。お釈迦さまは、あの光景をどのように見たことだろう。

「現世も極楽浄土になりつつある」 と、微笑んだことと思う。

   しかし、あれから五十年以上過ぎた今、性解放はどれだけ進んでいるというのだろう。未だに性器は恥部と言われ、隠すものと教育されている。人前で性器を露出すると、猥褻物陳列罪で即逮捕されてしまう。嫌がる人に無理遣り性器を見せるのを禁ずるならまだしも、ストリップ劇場で踊り子が見たがる客に性器を見せることさえ法律では禁じている。

   文章にしても写真、映画にしても同じである。姦通罪こそなくなったが、複数の男性と性交渉を持つ婦人は貞操観念がない、だらしがないとされている。

   私が女性との性交渉を最も望んでいた時期は高校生の頃だった。旺盛な性欲を手淫で処理していた。本来異性との性交渉によって満たさなければならない性欲を、手淫で処理しなければならないとはなんと馬鹿げたことであろう。

   最近の新聞に、高校生のセックス体験調査が載っていたが、男女とも経験者は、まだ半数にも達していない。一度だけの経験も含めてである。おそらく性欲を手淫なしで満たしている生徒は1%にも満たないだろう。しかもその少数の生徒は非行少年少女と呼ばれている。

   そもそも少年少女のセックスを禁じたのは、性衝動が発動するとともに子供を作ったのでは、文明社会を維持し発展させることが出来ないからであった。しかし現在は避妊器具も文明と同じ程度に進歩してきている。

   もし若者たちの幸福を願うなら、学校ではセックスの禁止や制限を説くかわりに、避妊の方法と性病予防を徹底的に教え込むべきである。

若者のセックスを禁ずる大人たちは、若者を苦しめて喜ぶサディストか、若者の幸福を嫉妬する捻くれ者か無知者に過ぎない。

   若者に性を解放するとセックスのみに明け暮れして、勉学が疎かになると心配する御仁がいるかもしれない。しかし性欲は食欲と同じで満たされればなくなるのである。食物が豊富に手に入るからといって、四六時中食べ続けている者がいるであろうか。食物に飢えた人間のみが、食物に執着し続けるのである。

   性が解放されれば手淫を行なう若者はなくなり、真に性の執着から解放され勉学に励むようになる。

   フロイトは次のように述べている。

 

『ある民族の性衝動を制限すると、それとともに一般的現象として、不安な生活感情と死の恐怖とが増大してきて、その結果個々人の生享受能力に機能障害がおこり、何らかの目的のため一命を堵するという覚悟が失われ、そういう民族あるいは、そういう人間集団は未来から締め出されてしまうのである』

 

   性を解放したら性犯罪が増加すると心配する声がある。たしかに性の捌け口を与えず、ポルノを町に反乱させれば、性犯罪は増えるかも知れない。しかし性が解放された時、人びとはポルノやストリップなどに興味を持つであろうか。

 性犯罪は、性の解放によってのみ撲滅できるのである。

   ちなみに天井棧敷劇団員が性犯罪を犯したという話を聞いたことがない。