「網走五郎・神社物語」ダイジェスト8  網走五郎はかく語りき。

 

 (57)   不良のすすめ

 

 網走族は不良でなければならない。世の中のハジカレ者・出来の悪い劣等生を指して名付けたからである。私は高校に入学した頃から不良になりはじめた。その第一の原因は学校の成績が悪かったことだ。いくら勉強しても劣等生のままだった。他に性格の弱さ、権威権力への反抗、太陽族といわれた石原裕次郎への憧れなどがあった。

 なかでも裕次郎映画の影響は大きかった。中学校三年生の時、初恋の彼女に「裕次郎好き?」と聞いた。「大好き」という答えが返ってきた。それ以来、裕次郎が大好きになったのである。

 「嵐を呼ぶ男」「勝利者」「鷲と鷹」「赤い波止場」「やくざ先生」…何度見たか分からない。この映画の主人公に共通していたのは不良であった。

『俺も裕次郎のような不良になりたい』

 学校では裕次郎の真似をして肩を怒らせて歩き、目があったといって因縁をつけ、肩が触れたといって喧嘩を売った。高校卒業の頃には私も、いっぱしの不良になっていた。

 大学中退後、土方を皮切りに職を転々とし、天井棧敷に入団した。そこで寺山修司から「網走五郎」と命名され不良の素質が開花したのである。肩で風を切って歩き、劇団内外を問わず、誰かれとなく因縁をつけ喧嘩をうった。

 一方憧れの裕次郎は、石原プロダクションのボスとなり、不良から遠ざかっていった。「太陽にほえろ」「西部警察」など、どの作品も不良とは縁遠い役を演ずるようになり失望した。私の大好きな裕次郎は、太陽族と言われた不良の裕次郎であった。

 とはいえ不良で居続けることは、なんと大変なことであろう。本物の不良、生まれつき出来の悪い劣等生のみが不良で居続けることができるのである。

 精神科医・今村正一は「人間性」という著書の中で「傾いた家を支えるには、その傾斜と同じ角度の支柱を反対方向から立てなければならないのと同じように、異状な環境に対しては、精神病になって無責任になるか、それとも異常な性格になって対抗し防御しなければ生きて行くことはできない。かく考えてみれば、不良少年は異常な適応でも順応過誤でもない。むしろ不良少年の多くは頭脳明敏で、一寸した環境の変化にも敏感なのである。環境不良の場合に、神経衰弱になるのは別だが、不良になる者の中には有望な青年や天才的な青年が少なくないことを経験している」と、述べている。

 私が頭脳明敏な少年であったかはともかくとして、最も人格が倒壊しかかっていた高校時代に、最も不良性を発揮していたことは確かである。

 学校をサボってパチンコ屋・ビリヤード・ストリップ劇場・成人指定映画館・ボクシングジムに出入りし、すでに酒も煙草もやるようになっていた。

 当時の校舎は木造だったが、冬の冷えた日には教室の壁を剥いで燃料代わりに燃やした。教室に入ってきた担任の先生は壁板が剥がされストーブで燃やされていることに気付き仰天し激怒した。生徒一人一人に「誰が燃やした」と問い質したが、誰一人私の名を出すものがいなかった。沈黙が続き気まずい雰囲気になったので、自分から名乗り出た。担任は鬼のような顔をして私を睨みつけ「お前はファッショだ!」と怒鳴った。しかしそれ以上のお咎めはなかった。名乗り出たことによる免罪だった。

 試験のカンニングもコソコソと隠れて行なうのではなく、教科書を机の上に堂々と出して行なっていた。先生は呆れ果て見て見ぬふりをした。それでいながら隠れてコソコソ行なう他の生徒は摘発されていた。

 先生を脅したことも多々あった。兄は、すでに別の高校の教員をしていたが、「お前の学校にはN先生(N先生は体育の先生で、生徒たちから恐れられていた)を脅すなど、すごい不良学生がいるんだってな」と話しかけてきたことがあった。よくよく話を聞くと、すごい不良学生とは私自身のことだったので、二人は苦笑いしたものだ。私の悪名は他高校の先生にまで知れ渡っていたのである。

 授業は、ほとんど出なかった。私には三人の悪友がいて、彼等が代返をしてくれていたのだ。お陰で卒業に必要な出席日数をクリアして無事卒業することができた。卒業式を終えた後、三人の悪友と担任の先生の家に遊びに行った。

 先生が言った。

「お前たちが卒業できたのは私が担任だったからだ」

 三人の悪友中、二人は卒業後ヤクザになった。私の高校は札幌西高といって北海道内トップを競う進学校で、優等生のみを尊重していた。あの頃私が最も求めていたものは、人々からの愛情と承認だった。優等生のみが、ほしいままにしている愛情と承認を、私は不良になることによって対抗した。

 あの札幌西高の校風に反逆した気持ちは今も全く変わっていない。今の世の中、金・地位・名声・財産・肩書き・美貌・才能のある者は尊重されるが、無い者は相手にされない。同じ人間として生まれてきていながら、たまたま悪環境に生まれたり、才能や能力や財産のない者は相手にされないようにできている。

 この社会風潮に対し、反逆せざるを得ないのである。私を含めた世の中のハジカレ者が、自由にのびのびと生きられる社会を作り出すために、いわば意識的にスネ者を演じるわけだ。 どんな出来の悪い人間といえども排除されない愛情と理解に満ちた社会、それが私の目指す網走族だ。

 私が天井棧敷にいた頃、「あしたのジョー」が少年マガジンに連載中で人気を博していた。一切の権威権力に反抗し続けたジョーは我々劣等生の心の支えであった。あの反逆児ジョーは今何処へ行ってしまったのだろう。

 私は言いたい。

「ジョーよ、お前は名声と財産ができたことに満足し、小市民になりさがったのではあるまいな。世間の風の冷たさに耐えきれず、いい子になったのではあるまいな。女性たちからチヤホヤされて、骨抜きになったのではあるまいな。お前が反逆するのを止めたため、優等生たちが再び勝利者面してのさばりだし、その結果俺たち劣等生が地獄の苦しみを舐めなければならなくなってきているではないか」

 しかしジョーは漫画の主人公であり実在しない。スネ者は身体を張った世の中の改革者である。俺たちは実在のスネ者として生きようじゃないか。