電子書籍で出版した「網走五郎・神社物語」、今日の掲載は (80) 那覇軍港使用依頼 。

 

 (80)   那覇軍港使用依頼 

   正月三が日で20万人以上も参拝者が押し寄せるようになると、さすが公園内だけでは駐車場不足になった。国道58号線の渋滞は那覇市内を通り越して、隣の浦添市城間まで続くようになり、参拝するまでに二時間も三時間も待たなければならなくなり、近隣からの苦情も多くなった。

   レンタカー会社からは「客がレンタカーを返せなくて、飛行機に乗り遅れた」、隣接するマンションの住民からは「帰宅したくても、帰れない」と抗議の電話が殺到した。

   そこで五郎が考えたのが、那覇軍港の使用であった。

   奥武山運動公園の隣には、米軍管理の那覇軍港がある。ここには広大な空き地があり、那覇祭り・産業祭り・NAHAマラソン・空手道世界大会等奥武山運動公園で行なわれる大きなイベントの時、米軍は駐車場として利用させている。ゆうに5千台は停めることが出来、これが沖縄県護国神社で使用できるようになると、初詣参拝者数が30万人を越えることも夢でなくなる。神社の年間総収入の8割以上が正月初詣で占めおり、神社の栄枯盛衰は正月初詣参拝者にかかっていたのである。

   五郎には、参拝者をここまで増やしたのは俺の力だ、という強い自負があった。退職が決まったとはいえ、参拝者を増やそうという意欲は衰えなかった。

   平成20年の正月あけ早々、那覇市泊にある那覇防衛施設局を訪ねた。米軍との交渉は直接行なうことができず、窓口である沖縄防衛局を通さなければならなかった。施設部施設企画課 連絡調整室 連絡調整第一係長の前泊元が応対にでた。前泊の隣の席には、記録係が座り、話し合いのやり取りを、一字一句書き留めていた。前泊は神社側の要望を反論することなく聞いてくれた。那覇防衛施設局側が神社の要望を全て了解してくれたものと五郎は思った。

『これで来年の初詣参拝者は三十万人を越える!』

   五郎の那覇防衛施設局を出る足取りは軽やかだった。

   四月に入って、五郎は確認のため那覇防衛施設局へ電話を入れた。なんと名称が防衛省沖縄防衛局に変わっていて、場所も那覇市から三十キロ離れた嘉手納町に移転されていた。担当者も企画部 地方調整課 連絡調整室 連絡調整第一係長の桐山励次に変わっていた。 

   再度、同じことを説明しなければならなかった。しかも桐山は前泊と違って、許可される可能性は低いと言った。理由は沖縄県護国神社が宗教法人だからであった。上司の許可が下りたら連絡するとのことであったが、待てど暮らせど連絡が来ないので七月初旬、再度沖縄防衛局を訪ねた。

   まだ沖縄防衛局として結論が出ていないとのことであったが、「東京の防衛省本省及び外務省の審査に委ねる」と云う言葉をもらって五郎は帰宅した。

   三ヵ月過ぎた十月初旬、桐山励次が護国神社を訪ねてきた。

「軍港の使用条件は、地方公共団体等による地域の融和や活動を目的とした公的イベント開催のため暫定的、一時的な使用である。これらに照らして神社の軍港使用は不適切。初詣参拝者に軍港を駐車場として提供することは、布教活動および収益に繋がらないとはいいきれない」

と、いうものであった。

   しかし全く道が断たれたわけではなかった。

「申請者が地方公共団体であれば百%可、後援になってくれても使用許可大」

と、桐山は言った。

   五郎は、元ジュニアウエルター級世界チャンピオン平仲信明が、奥武山運動公園内にある県立武道館でボクシングの試合を開催した時のことを思い出した。当時、総理大臣補佐官だった岡本行夫と面識があった平仲は、岡本行雄を通し、即軍港使用許可を得たのである。

   五郎は桐山が帰った後、沖縄県遺族連合会長・仲宗根義尚に相談した。仲宗根は参議院議員の尾辻秀久に電話を入れた。尾辻秀久は日本遺族会副会長をしていて仲宗根とは懇意にしていた。秘書の松尾から折り返し五郎へ電話があり、防衛省と交渉してくれることを約束した。

しかし返事が来ないまま日時が過ぎた。

   仲宗根は次に参議院議員・水落敏栄(日本遺族会常任顧問)に相談してくれた。秘書の倉本祐司から五郎の元へ電話があった。

「参議院議員、佐藤忠久(元イラク先遣隊長)にお願いするので、今までの経過報告書を送って欲しい」

   五郎は経過報告書を送った。しかし、これも返答が来ないまま過ぎた。

   五郎は県庁の担当部署である都市モノレール課及び沖縄県警に出向いて協力を依頼した。しかし理解は示しつつも断られた。

   次に五郎が相談したのは沖縄県護国神社代表役員 座喜味一則だった。座喜味は衆議院議員仲村正治のところへ五郎を同行させた。五郎は仲村正治に、沖縄県護国神社が宗教法人であることがネックになって使用許可が下りないことを説明した。仲村正治は「私の身内も沖縄県護国神社に祀られている。護国神社は宗教ではない」と、言って協力を約束してくれた。

   仲村正治は那覇市長翁長雄志のところに行き交渉、さらに在日米軍本部がある東京の座間キャンプまで足を運び交渉してくれた。