電子書籍で出版した「網走五郎・神社物語」、今日の掲載は (79) 駐車場の確保

 

 

(79)   駐車場の確保

   もう一つ初詣参拝者を大幅に増やした要因は駐車場の確保だった。沖縄県護国神社は奥武山運動公園の中央に位置し、公園内を駐車場として自由に利用できたのである。

  ところが平成元年、沖縄県は突然、公園入り口にガードマンを配置し、公園内への車両乗り入れを禁止した。公園内で車やオートバイを傍若無人に乗り回す暴走族を締め出すことが目的だった。

   しかしこれを契機に神社関係者の車両乗り入れも禁止した。神社を住居としている五郎にとって、このような措置は飲めるはずもなかった。五郎の粘り強い交渉の結果、神社職員及び神社参拝者の園内乗り入れは今までどおり許可されることとなった。

   沖縄県護国神社は戦前、国営で県が管理していた。したがって神社と公園は一体であり全く摩擦がなかった。戦後、沖縄県護国神社が県管理から離れ、法人として独立したため、県との間に摩擦が生じるようになった。しかし公園を県が管理している間は、元々が一体だったので、さしての摩擦には至らなかった。

  ところが平成15年、奥武山運動公園にも民営化の波が押し寄せ、公園は県管理から離れ社団法人(現在は株式会社)として独立した。

   この時点で神社側と公園側との激しい対立が始まったのである。お互いが自己の利益を主張し始めた。神社側は神社前まで車の乗り入れができなければ、車のお祓いや赤ちゃんのお宮参り、高齢化した遺族の参拝に支障を来し死活問題である。公園側は公園利用者の安全面を重視し、公園内への一切の車両乗り入れ禁止を主張した。

   終戦までは国道から公園中央に位置する神社境内まで参道があった。しかし戦後、護国神社が法人として復興した時、なぜか参道は神社から外されてしまった。神社は公園という海に囲まれた離れ小島になってしまったのである。しかし県は戦前からの経緯が分かっているので、護国神社を兵糧攻めにするようなことはなかった。

   公園が社団法人として独立してから、ガチンコのぶつかり合いが始まったのである。公園側は公園が自分たちの敷地であることを盾に、神社関係車両の一切の乗り入れを禁止してきた。

   話し合いが持たれた。神社側からは五郎が、公園側からは奥武山公園管理事務所主査の泉朝昭が出席した。ところが話し合いとは名ばかりであった。泉は話し合いの途中で、「神社側の要求は一切飲めない」と言って席を立ったのである。

   五郎の闘争心に火が点いた。

『この戦いは必ず勝つ!』

   五郎は神社に戻った後、ボクシング仲間で沖縄シークレット警備保障㈱社長 宮城伸行に相談した。偶然、宮城の兄が奥武山公園管理事務所の副所長をしていた。神の導きであった。副所長の一声で、再び公園内の車両乗り入れが可能になったのである。

   正月初詣参拝者は、その後も増え続け、平成20年には県内神社断トツ1位の22万人になっていた。靖国神社の初詣参拝者が25万人、東京都の人口が千三百万人、沖縄県の人口が十分の一の百三十万人、いかに沖縄県民が護国神社に馴れ親しんだかが窺えるのである。第二次世界大戦で沖縄県民の四人に一人が亡くなっている。身内の誰かが、沖縄県護国神社に祀られているのである。

   宮城副所長が転勤になった平成20年の暮れ、奥武山公園管理事務所担当者が、再び公園内車両乗り入れの禁止を伝えてきた。

   五郎は言った。

「所長の判断に委ねなさい」

   五郎の一言で乗り入れ禁止は撤回された。奥武山公園管理事務所の新所長は、寺山修司の早稲田大学の後輩で「演劇軍団・変身」の創設者・寺田柾に変わっていたのである。