電子書籍で出版した「網走五郎・神社物語」、今日の掲載は(76) 参集殿の解体

 

(76)  参集殿の解体

  新社務所造営計画は、金城事務局長が健在だった平成125月の役員会で発表された。

    五郎を蚊帳の外に置き、和輝主導で計画は着々と進められた。測量が始まり基本設計が出来上がった。アーチ型でとても神社の建物とは思えない代物であった。下地宮司も陰で反対したが、金城事務局長が健在中は正面きって反対しきれないでいた。

   しかし金城事務局長の死により和輝の力は一気に消失し、アーチ型社務所案は白紙撤回された。すでに土地の測量や設計料が支払われていたため、神社が被った損失は数百万円にのぼった。

   平成19年、和輝に代わり宮司の鈴木が主導権を握り、新たな設計で新社務所造営計画が推し進められた。

  その中に五郎の住居、参集殿の取り壊しが含まれていた。

   平成21328日の役員会議で、参集殿を解体すべきかどうか話し合いがもたれた。出席者は役員と職員計14名。五郎は役員会での発言が許されていないため、次の文書を役員たちに配った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・  参集殿解体に対する私の意見

    今次大戦で沖縄県護国神社の建造物は壊滅状態になりました。その中で唯一破壊を免れた建造物があります。参集殿がそれです。この記念すべき建物が今、解体の危機に瀕しています。

 理由は新社務所を建設するにあたって、身障者用車椅子専用通路を確保するためと報告を受けています。

   確かに車椅子用の通路は必要です。遺族が高齢になると車椅子生活になる確率は高くなります。沖縄県護国神社の御祭神は戦争で亡くなった御英霊です。その戦友や遺族が車椅子生活になったとたん参拝できなくなるような施設では困りものです。現状でも貧弱ではありますが、車椅子で参拝できる通路は確保されています。この車椅子通路を更に整備充実させなければならないことは当然なことであります。

   他の解体理由として新参集殿まで車を乗り入れできる車道の確保と聞いています。新参集殿まで車が乗り入れられるようになれば、車のお祓いを奉仕する神主の仕事は、ずっと楽になります。正月初詣参拝者の帰りの通路としても利用でき混雑が緩和されます。
 だからといって参集殿の解体と引き替えにしてよいのでしょうか。参集殿は解体しないという大前提のもと、新社務所造営計画を考えるべきです。たとえば現在の正面参道幅員を二倍に拡げ、半分をスロープにして車両や車椅子専用通路にするとか。知恵を絞れば参集殿を温存したままの妙案はいくらでも出てきます。
 この建物は昭和15年に神社社務所として建立されましたが、当時、県職員として例大祭に祭員として奉仕した我喜屋汝揖元監事は私に「参集殿が未だに、シッカリしているのは建物が桧で作られているからだ。沖縄風建造物として、当時、目を見張る立派なものであった」と、語っていました。この建物は敗戦までは、社務所として使用され、その後沖縄財界の四天王といわれた国場幸太郎一家が住んでいました。

   平成二年那覇市と国場家との間で、米軍と取り交わした建物使用に関する契約が有効かどうか裁判で争われ、国場家が敗訴したため神社に返還されました。返還後、神社では六百万円かけて建物の補修工事を行ない参集殿として使用しています。
 この記念すべき建物を解体してよいのでしょうか? 

   私の意見は「ノー」です。あまりにも代価が大き過ぎます。壊すのはいつでも壊せます。しかし一度壊してしまったら、もとに戻すことはできません。
「後悔先に立たず」 

ちなみに神社本庁憲章第十条二には「境内地、社有地、施設、宝物、由緒に関はる物等は、確実に管理し、みだりに処分しないこと」 第十条三には「境内地及び建物その他の施設は、古来の制式を重んずること」と書かれています。

   現在私はこの建物に住んでいます。住み心地は満点です。だからといって私が住み続けるために解体に反対しているのではありません。退職したら即、退去することは申すまでもありません。               以上

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   遺族会長の仲宗根義尚が口火を切った。

「保存するほどの価値がある建物とは思えない」

「私も解体はやむをえないと思う」

   代表役員の座喜味和則までが解体に賛成した。退職の決まった五郎の意見に耳を傾ける役員は、もはや一人もいなくなっていた。

   参集殿の解体は奇しくも五郎の退職と同じ、1年後、平成223月と決定した。