2024年2月17日 土曜日

電子書籍で出版した「網走五郎・神社物語」、今日の掲載は (60)ボクシング教室。

 

(60)  ボクシング教室

  私は昭和59年から、沖縄県ボクシング連盟が管理する奥武山ボクシング会館でボクシング教室を開いている。教え子も五百人を越え、医者・教員・県庁職員・自衛官・自営業・プロボクサーと多種多様な職種の者が誕生している。

 私の指導方針は練習生を絶対に罰しないことである。どんなに出来の悪い選手といえども決して怒鳴ったり罰したりしない。即ちスパルタとは正反対の指導を続けている。一般的にスポーツの指導はスパルタが主流である。特にボクシングの場合は怒号や罵声・鉄拳制裁は日常茶飯事である。知り合いの監督は手で叩くと手が痛いので、竹刀で選手を叩きつけていた。

 スポーツで強い選手を作るにはスパルタ教育が必要なのだろうか?私は選手を一度も叩いたことがない。罵声や怒声を浴びせたこともない。私が教える選手は高校生が主流だが県大会では度々チャンピオンが出ている。九州チャンピオン、全国チャンピオンになった者もいる。チャンピオンになるには、本人のチャンピオンを目指す情熱プラス素質と科学的トレーニングである。怒声や罵声、鉄拳制裁は必要ない。

 ボクシング教室を始めた初期の頃、沖縄県護国神社に暴力団員が多数参拝に来ていた。その中の一人と親しくなった。昔ボクシングをしていたからだ。コーチをお願いすると快く引き受けてくれた。ボランティアにもかかわらず、毎日ジムに顔を出し熱心に指導してくれたので最初は感謝していた。ところが20名ほどいた練習生が除々に少なくなりはじめた。原因は彼の指導方法にあった。

 徹底したスパルタ教育だった。練習生に怒声罵声を浴びせ、駄目な選手には鉄拳制裁も加えていた。床に正座をさせ長時間説教もしていた。これは駄目だと思った。しかし私からコーチを依頼しただけに、止めてくれとは言い出せないでいた。練習生が十名を切った時、ついに彼に怒声や罵声、鉄拳制裁をしないようお願いした。しかし一向に彼のスパルタ教育は改まらなかった。

 そんなある日、ジムの中を遠方から覗いている高校生の姿が目にとまった。ジムの練習生で、彼が居るかどうかを確認して居なければ練習しようとしていたのである。私は暴力団員と練習生のどちらを選ぶかの選択にせまられた。暴力団員を選べば練習生はゼロに近付いていく。練習生を選べば暴力団員を排除しなければならなくなる。

 私が天井棧敷で主張し続けたのは「暴力団員も精神異常者も劣等生も犯罪者も、この世に生を受けた者は誰も排除するな」 であった。私は暴力団員の彼を排除したくなかった。しかし練習生がジムまで来て、じーっとジム内を見続けて帰っていく姿を目の当たりにした時、彼に出て行ってもらう決心をした。

 「俺からコーチをお願いしておいて、申し訳ないが、今日限りでコーチから手を引いてもらえないか」

 一瞬沈黙が走った。理解してもらえたかなと思った。しかしそうではなかった。

「お前からコーチをお願いしておきながら、手を引けとはどういうことだ。舐めるんじゃねーよ!」

 神主になる以前の私だったら、この時点で相手が反撃不可能になるほど殴りつけて勝負を決めていた。

「すみません」

 私はひたすら謝り続けた。彼さえ手をひいてくれれば、どんな恥でも忍ぼうと思った。しかし彼の怒りは納まらなかった。

「練習生の前で俺の顔に泥を塗りやがって!お前はいつから俺に指図するほど偉くなったのか!」

 私をジムの外に呼び出した。やる気なのかなと思った。ところが

「話し合いは神社でつけよう」    とだけ言い残し帰って行った。 

 一週間ほど過ぎて本当に神社やって来た。しかも大勢の仲間を連れてきた。丁度その日は建国記念日(211)で、別グループの右翼団体も参拝に来ていた。沖縄の右翼団体は名称こそ右翼団体だが、メンバー全てが暴力団組員で構成されていた。総勢百名余りの組員を前に彼は、私が彼等を暴力団呼ばわりしていると罵った。ところが意外な展開が待っていた。

 別グループの親分が言った。

「またその話か」

 聞き飽きたとばかりに一蹴した。北方領土まで泳いだ五郎は、一部の右翼団体からは神のように崇められていたのである。その後彼はジムに来なくなった。練習生は復活し県チャンピオン・九州チャンピオン、更には全国チャンピオンまで出るようになったのである。