電子書籍で出版した「網走五郎・神社物語」、今日の掲載は  (56)懲罰はよせ!

 

(56)  懲罰はよせ!

  演劇実験室・天井棧敷は不思議な劇団であった。劇団でありながら演劇に疎い者も沢山在席していたのである。寺山修司が若者に「家出のすすめ」「書を捨てよ、町へ出よう」「不良のすすめ」「フリーセックスのすすめ」「みんなを怒らせろ」「悪徳のすすめ」「きみもヤクザになれる」等を訴えていたため、全国各地から家出人や不良少年少女が集まってきた。劇団員募集要項には「怪優・奇優・魔人・強奪魔・男色家・革命家・扇動家・裏切り者・夢想家・堕落者・預言者・思想家歓迎」と、書かれていた。

 私など演劇に疎い典型で、芝居には全く興味がなく、単に寺山修司に憧れて入団してきた一人だった。舞台公演が近付いても稽古に顔を出さず、たまに顔を出すと、演技がなってないと怒鳴られた。演劇に疎い私にとって、怒鳴られたり殴られたりしながらの演技練習は、苦痛以外の何ものでもなかった。

「懲罰はよせ!」は劣等劇団員・網走五郎の心の叫びであった。

 イギリスの教育家A・Sニイルは「問題の子ども」という著書の中で次のように述べている。 

 

「悪をなす人々は実は不幸な人々である。非社会的になることは決して人間の本性ではない。幸福な人は決して協調を破壊したり、戦争を主張したり、黒奴を厳罰に処したりはしない。幸福な女は決して夫をののしったり、子供をいじめたりするものではない。幸福な人はいまだかつて泥棒をしたり、人を殺した例がない。すべての罪、すべての憎しみ、すべての争いは不幸にもとづくものである」 

 また

「処罰は病気を作る。しかしこれに対し、いや必ずしも病気を作るとのみ限らないなどという者は、その結果をはっきり見ようとしない者である。わいせつな行為で拘留されている露出狂の多くは、子供の頃性的習慣に対して、あまりにも厳しく罰せられたためである。罰せられれば憎しみがおこる。憎しみは巡り巡って幾年かのち再びあらわれる。罰せられた子供は大きくなって罰する父になり罰する母になる」

 

 A・Sニイル著「問題の子ども」を、兄の書棚から見つけて読んだのは高校の時だった。高校教師をしていた兄の書棚には、教育に関する本が沢山並べられていたが、何故かこの本だけが目にとまった。私自身、問題の子だったからである。

 ニイルはサマーヒル学園という問題の子を扱う学校を経営していた。そこでは生徒に一切の強制を排し、悪事を働いても罰することはせず、自主性を重んじ自由に生活させていた。その結果、放火癖、盗癖、うそつき、夜尿症、癇癪持ち、空想に生きる子供等さまざまな問題の子が治っていったのである。

 犯罪者・神経症者・性倒錯者等いわゆる不幸な人々の多くは、幼少の頃きびしく罰せられたところに原因が潜んでいた。罰せられた子供は潜伏期間を経て大人になって発症する。また他人を厳しく罰する者の多くは、子供のころ厳しく罰せられたところに起因する。

 私が懲罰に反対したのは、懲罰とは悪事をはたらいた者に対する憎しみの行為だからである。暴力・窃盗・詐欺・強姦・裏切りをなした者が憎いから罰するのである。練習をサボったり、下手な演技をする劇団員が憎いから罰するである。そこには、むき出しの利己心があるのみで、相手に対する愛情や理解のカケラも感じられない。

 連合赤軍の懲罰は厳しかった。ヤクザ社会の懲罰も厳しい。下劣な社会ほど懲罰は厳しいのである。

 テレビで「実録・夜回り先生」を見た。水谷修という教師が、学校の授業を終えた後、歓楽街を巡回して、深夜徘徊をしている非行少年少女を善導していた。薬物中毒・引きこもり・リストカットなど生きることに戸惑っている子供の相談に、親身になって乗ってあげている姿には感動した。

 水谷修が言っていた。

「私は教員になってから22年になるが、ただの一度も生徒を叱ったり、怒ったり、怒鳴ったりしたことがない。恐怖で導く教育は教育ではない」

 懲罰が危険なだけで用のないことを、いみじくも言っていたのである。