2024年 元旦

謹賀新年   今年もよろしくお願いいたします。

 

電子書籍で出版した「網走五郎・神社物語」、今日の掲載は(38)  沖縄ジャンジャンに出演。

   神社に勤め始めて10年が過ぎた時、元演劇実験室・天井桟敷俳優 昭和精吾が沖縄ジャンジャン公演のため来沖した。昭和精吾は五郎が天井桟敷に居た頃の看板スターで、寺山修司の長編詩は、いつも彼が朗読していた。寺山修司死後も寺山演劇を継承し続けていた男である。五郎は彼の依頼で沖縄ジャンジャンの舞台に立ち、寺山修司の思い出を語った。内容は以下の通り

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   私にとりまして寺山修司は青春そのものでした。寺山さんとの最初の出会いは寺山さんの本でした。「書を捨てよ 町へ出よう」「家出のすすめ」「みんなを怒らせろ」「フリーセックスのすすめ」「悪徳のすすめ」「青年よ 大尻を抱け」「君もヤクザになれる」など寺山さんの反社会的行為を勧める本を夢中になって読み漁ったものです。

   ちょうどその頃、新宿駅東口広場に「ふーてん族」と呼ばれる、フリーセックスを標榜する髪の長い男女の群れが現れました。シンナーをビニール袋に入れて吸い続けているんですね。よく見物に行ったものですが、そのふーてん族の教祖が寺山修司だということを、たまたまラジオの深夜放送で聞きまして、急に寺山さんに会ってみたくなり劇団を訪れました。

   劇団は当時、渋谷の並木橋にありまして、まだ建築中で、自動車修理工場跡を地下が劇場、一階が寺山さんのお母さんが経営する喫茶店、二階が劇団事務所・楽屋・寝室等になっていました。寺山さんは、すでに放送記者クラブ賞や芸術祭大賞を受賞するなど非常な有名人でしたが、訪ねて行くと気さくに会ってくれました。

   会う前は会って話しをするだけと思っていましたが、会った途端「天井桟敷に入りたい」と口をついて出てしまいました。普通、劇団に入団するには入団試験を受けてパスした者のみが入団できるんですが、よほど寺山さん好みに映ったのでしょう、この一言で即入団が許可されました。

   入団して間もなくして、寺山さんから「網走五郎」という芸名をもらいました。網走五郎の網走は網走刑務所から、五郎のゴロはゴロツキから取りました。網走五郎と命名されてから、私は週に一度は必ず殴り合いの喧嘩をすることをノルマとして自分に課しました。 

   劇団で最初に殴りつけたのは、幹部劇団員の空手竜でした。入団してまもなく、我々新入劇団員は幹部劇団員から演技指導を受けましたが、空手竜が「網走は態度が悪くて生意気だ。前に出て来い」といって私を前に呼び出し、いきなり殴りかかってきました。私は咄嗟に身をかわし、反対に彼の顔面にパンチを浴びせて倒し、さらに馬乗りになって彼が動かなくなるまで顔面を殴りつけました。彼の顔面は血だらけになっていました。

   それから数日後、寺山さんが「網走、ボクシングしよう」と言ってきました。私は普通のボクシングのつもりではじめましたが、寺山さんはいきなり喧嘩腰で殴りかかってきました。明らかに空手竜に対しての報復攻撃でした。当時、私はプロボクサーを目指し協栄ボクシングジムに通っていましたので、寺山さんのパンチをウィービングやダッキングで交わし、寺山さんが疲れたところを見計らって、空手竜の時と同じように、寺山さんをめった打ちにして倒しました。倒れた寺山さんの顔を覗くと目から涙がこぼれていました。よほど悔しかったものと思います。

   翌日私は、劇団の壁に

「懲罰はよせ! 我々犯罪者に必要なのは愛と理解だ、懲罰を用いるものは全て敵とみなし徹底的に戦うぜ」

という張り紙を掲げました。除名処分を免れるための苦肉の策でした。

   数日後、劇団総会が開かれましたが、その席で寺山さんが「網走が懲罰はよせと言っているが、みんなはどう思う?」と劇団員に問い掛けました。ところが意外なことに、何名かの劇団員が私を庇ってくれたのです。お陰で私は除名処分を免れました。

   この時、私を庇ってくれた仲間たちで網走族というグループが出来上がりました。網走族のモットーは「懲罰はよせ」でした。どんな犯罪者も罰するな、「誰も排除するな」でした。 その後仲間が一人増え二人増えていき、「網走族」は劇団内最大の派閥へ成長していき、寺山さんから劇団の管理をまかされるようになりました。

(ここで、ふところから紙を取り出す)

 

   この紙は寺山さんが書いて劇団の壁に張ったもので、今では私の大切な宝物の一つです。

読んでみます。

 

『網走五郎及び網走族諸兄、最近ひんぱんに盗難が起こるので、この際、人民警察を組織して犯人を逮捕し、然るべき処理のうえ退団させることにしたいと思うのですがどうでしょうか?      寺山修司』

 

   しかし「懲罰はよせ!」をモットーとしている網走族が寺山さんのこのような要求など吞めるはずもなく、そのまま放置していました。ところが、その内に地下劇場に置いてあった楽器一切が盗まれてしまったのです。当時、劇団には「監獄隊」というロックバンドが組織されていましたが、その楽器が一夜にして盗まれてしまったのです。損失額は数十万円、あるいは数百万円にのぼったかと思います。その後はやむをえず地下劇場には鍵を掛けることにしました。

   寺山さんは綺麗好きでもありました。劇団が汚れていると「網走、お前のせいだ」とよく文句を言ってきたものです。私は清掃当番表をつくり、劇団員全員に割り振りしました。寺山さんも当然組み込みました。『寺山さんは果たして、便所掃除などするのだろうか』と私は見守りました。なんと、ただの一度もサボることなく行なっていました。それだけに他人がサボった時は「除名にしろ」と私に迫って来たものです。もちろん私は誰一人除名にはしませんでした。

   また玄関に靴が脱ぎ散らかされていると「ゴミ箱に捨てろ」とも言ってきました。ある日、新品の革靴が一足、靴箱に入れられないまま放置されていました。『こんな高級な革靴、寺山さん以外に履く者がいない』と思いつつ私はゴミ箱に捨てました。しばらくして「靴がない」と騒いでいる人が現れました。映画監督の篠田正浩さんでした。二階から慌てて寺山さんが下りてきて、ゴミ箱から革靴を探し出し篠田さんに渡しました。なんと篠田さんは私のところに来て「私が悪かったです」と深々と頭を下げ謝りました。私のほうが反対に恐縮してしまったことがありました。

   やはり寺山さんとの思い出で一番は競馬の思い出です。私は天井桟敷に入団する前も競馬場には度々行っていましたが、天井桟敷に入団してからは寺山さんのお供として行くようになりました。寺山さんと一緒に行くと特別観覧席に入ることができました。床には歩くとニ、三センチは沈むのではないかと思われる絨毯が敷かれており、中には有名人がゴロゴロしていました。春日八郎・北島三郎・五月みどり・大橋巨泉などもいましたね。

   ある日、寺山さんが「劇団員全員で競馬場に行こう」と言ってきたことがありました。寺山さんの持ち馬「ユリシーズ」が出走するからでした。ユリシーズは、どこの競馬予想紙も二重丸の本命になっていました。寺山さんは自分の持ち馬が一着でゴールするのを劇団員全員に見せたかったのです。行きの電車の中では「帰りにはキャバレーに連れていくからな」と意気揚々でした。しかし結果はドンジリでゴール。キャバレー行きはパーになりましたが、帰りの電車の中では、寺山さんの落ち込みをよそに、劇団員皆はユリシーズのドンジリゴールの話題で花が咲きました。

   競馬の思い出としてもう一つ、中山競馬場からの帰りの電車の中でのことです。電車の中で立っている時は、普通吊り革に掴まりますが、寺山さんは、わざと吊り革には掴まらず、電車が停車する時、ドドーッと前の乗客にぶつかって行きました。ぶつけられた乗客が「やめてください」と文句を言うと、「俺を誰だと思っているのだ!」と凄んで見せました。寺山さんの回りには私とか番外地豪など人相の悪い武闘派網走族が取り囲んでいたため、電車内は水を打ったように静まり返りました。もちろん寺山さんはユーモアでやっていたのです。

   寺山さんは参議院選挙に立候補しようとしたこともありました。昭和4511月、市街劇「人力飛行機ソロモン」を上演した後、寺山さんは体調を崩し入院しましたが、私がお見舞いに行った時、

「石原慎太郎から参議院選出馬の要請があってね」

とニコニコしながら話しかけてきました。プロスキーヤーの三浦雄一郎の出馬を予定していかが、三浦雄一郎がノイローゼででられなくなったので、急遽、寺山さんにお願いしてきたという。私は即座に反対しました。

「選挙は人に勧められて出るものではありません。もし寺山さんが本当に選挙に出たいのなら、天井桟敷党総裁として出てください」

   すると寺山さんは「創価学会の池田大作になれって言うのか」と言ってきました。「違いますよ、アドルフ・ヒットラーですよ」と言ったら寺山さん、口をつぐんでしまいました。

結局、石原慎太郎からの要請は断り、寺山さんの代わりに出馬を引き受けたのは、のちに総理大臣となった細川護煕でした。当然、当選しております。

   劇団の退団は突然にやってきました。新高恵子さんが経営する「童子(よるぽっこ)」というバーで飲んでいた時、たまたま隣りに座った客と話しが弾み、酒のツマミとして寺山さんと九條さんの離婚原因は九條さんと東由多加が出来たからだと話したのです。二週間ぐらい過ぎた時、なんと週刊現代に私の談話として、その時の話したことが載ってしまったのです。隣りに座った客は週刊現代の記者だったのです。

すぐ寺山さんから電話があり、劇団に呼び出され「九條さんが可哀相じゃないか」と厳しく怒られました。それにより劇団への足が遠のくようになりましたが、新高さんの店へは、まだ毎日通っていました。ところが些細なことで新高恵子さんを日本刀で脅してしまい、そのことが寺山さんの逆鱗にふれ、さらに激しく怒られて劇団を家出し放浪の旅に出ました。

   北は北方領土から南は尖閣列島の旅でした。北方領土へ泳いで渡り、ソ連政府に領土返還の抗議文を手渡し、半年間ソ連の監獄に入っていました。尖閣列島へは手漕ぎボートで渡り、魚釣島に日の丸の旗を掲げ、1ヶ月間無人島生活を送りました。

   劇団を離れてから10年過ぎた時、寺山さんが亡くなりました。その時、私は那覇署の留置場に入っていました。留置所から出てきて初めて寺山さんの死を知り、目の前が真っ暗になりました。いずれ俺は天井桟敷に戻ると思っていたからです。

   帰る家が無くなった私は、その後、神主資格を取得し神主になりました。神主になってからというもの、酒場で喧嘩を売ることも、女遊びをすることも、放浪の旅に出ることもなくなりました。寺山さんの死と共に私の青春は終わりました。

   御清聴、ありがとうございました。