さて、ご存知の方はもちろんいらっしゃるかと思いますが、私の職歴を書いてみます。

新聞配達奨学生として、(株)ユースで、新聞配達、集金、営業など、働きながら学校に通ったのが社会人としてのスタートになります。

その後、法務教官の試験に合格したものの、採用枠そのものの少なさから就職が叶いませんでした。

それで、網走のセブンイレブンで働いていましたが、学校法人光輪学園網走幼稚園に拾っていただき、教諭として約6年お世話になりました。

娘の誕生と死。それに伴う諸事情から退職し、その後はへき地季節保育園浦士別保育園で保育士として3年間お世話になりました。

その間、男女共同参画の推進をはじめとする様々な市民活動や、手話の会でのボランティア活動、オホーツク寒気団などの活動を通じて、NPO法人や地域通貨、そしてたすけあいの大切さと障がいのある方々の現状などを知る中で、保育園在職中から準備を重ねたNPOの設立作業を、オホーツク寒気団や、網走市手をつなぐ育成会、北海道網走養護学校の教職員の方々や知友人、そしてさわやか福祉財団などのご協力もいただきやり抜くことができました。

その結果設立した夢の樹オホーツクは、オホーツクにおける福祉NPOの先駆けの一つとなりました。

私自身は夢の樹オホーツク設立当初は、常務理事兼事務局長(あわせてさわやか福祉財団のインストラクターに委嘱され、福祉NPOの設立と運営の支援を行うようになり、現在はネットワーク構築を含めた活動をインストラクターとして行っています)を務め、途中から専務理事兼事務局長に昇格しましたが、若いスタッフに道を譲りながら力をつけてもらうことも考えて、事務局長を退き専務理事として業務に携わりました。

その間、マイスペース美幌の設立や、北見のこばとなどのNPO法人設立に参画しながら理事としてお手伝いさせていただき、親友で北見のNPO法人とむての森の理事長をしていた平泉くんと共に理事としてとむての森の活動のお手伝いもさせていただきました。そんな状況の中で平泉くんが逝去され、万が一の場合を本人から託されていた関係で私がとむての森の理事長に就任し、現在に至ります。

また、2007年には市議会議員に初当選しさせていただき、夢の樹オホーツクの理事職については一旦退く形をとらせていただき、アドバイザーとして現在に至ります。

この間から現在に致まで、私は終始一貫として現場の介護スタッフでもあり続けています。

私にとって夢の樹オホーツクは、妻と共に自分たちの仲間と一緒に生み出した子どものようなもの。

大切に、時には厳しく見守りながら、いつか役割を終えるその日まで、志ある仲間たちと力合わせて歩んで行きたいと考えています。

また、とむての森と夢の樹オホーツクには労働組合も結成され、労組として必要な活動も行うようになりました。

労働運動でなければ行政などに対して働きかけにくい事もたくさんあります。

無理のない範囲で労働運動としてさまざまな活動を今後少しずつ行っていってくれることでしょう。

もちろん労働運動に対してなかなか理解していただけない方もいらっしゃいますが、労働組合はきちんと法律で認められたもので、その活動については労働者の権利として保証されているものです。

信頼ある企業のほとんどには必ずといって良いほど労働組合があり、それぞれ労使が力をあわせられる部分はしっかりと力をあわせ、使用者側が至らない時には建設的な提言しなをがら活動しているのが現状です。

もちろん不当な行為があればそうはなりませんが、そこまでの事態になることはまれですから、適度な緊張感を持ちながら活動していただければと思っています。

最後に今日もやったんたんの切れのあるコメントを期待しています。