父のいない世界2 | 負けるが勝ち犬

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40歳を前に突然会社を辞めてしまった女、独身。しかし、ここからが真骨頂の「リアルタイムサクセスストーリー!」…勤労意欲をなくすこと1年10カ月。のち、不惑にして東京デビューの荒技に出るも、2年後の春にリストラに!またまた崖っぷち~!

 

三度目の正直でもないが、父は結局、3回の危篤状態(2019年春と昨年10月と)を経て、先日(20日夜に)亡くなった。

 

1回目は、危篤状態というより、もう数か月の命であろう、という感じで病院から退院し、経管栄養で意識もほぼなく寝たきり状態だったので、近所の特別養護老人ホームに入居し、最後の日々を過ごすことにしたのだった。

 

そこの特養は、父が元気だったときに通っていたデイサービスやショートサービスの施設が併設されていたため、父のことを知る職員さんがたくさんいた。

そのため、父が変わり果てた姿で戻ってきたことにとても驚いたそうで、「みんなでまた元の〇〇さんに戻そう!(元気になってもらおう!)」と、話していたことを 後に施設長さんから教えてもらった。

 

そんな馴染みの職員さんたちの尽力の甲斐あり、父は寝たきりから解放され、鼻から管をとおして摂取していた(経管)栄養を外し、自力で口から普通のご飯が食べられるようになり、しかも、歩行器で自力で歩けるようにまでなった。

そのため、花見シーズンには施設のバスで隣町の公園に花見に出かけたり、コロナ禍ながらも、そうしたドライブに連れて行ってもらえるようになったのだった。

奇跡の大復活である。

 

信じられない思いと、施設のみなさんの尽力に、ひたすら感謝しかなかった。

 

コロナ禍にあって、緊急事態宣言が解除され、いっとき面会OKの時期があった。

その際、職員さんたちに、そうした感謝の思いを伝えたところ

 

「本人がとても前向きでがんばろうとする意欲に満ちているから、自分たちもサポートしたい!という気持ちになるんですよ」

と、おっしゃっていた。

 

そうなのだ。

父は若かりし頃から、人一倍「努力と根性」で生きてきた人なのだ。

 

それは、身障者だったことで、必然的に人一倍の努力が強いられていたからかもしれない。

人一倍、二倍努力して、やっと健常者が普通にやっていることができる人生だったからからかもしれない。

 

小学生のころ海で遊んでいて、不発弾にあたり、右腕を失ってしまった父。

 

周囲や社会を恨み、ひねくれ、ネガティブな人生を生きる道もあったはずだが、父はそうではなかった。

辛抱して努力すれば、健常者と同じことができることに生涯意識を向けて生きてきたのだろう。

今日はできなくても、明日はできるようになるかもしれないと

日々成長の希望と喜びを忘れずに意欲をもって生きてきたのだろう。

 

オラが幼少時代、父はよく(テレビドラマの)「片腕三四郎」の話をしていた。

おそらく、そのネーミングから、片腕(身障者)の柔道だか空手だかの男性の物語だったのだと思うが、いつも「オレと同じだ」といったことを意気揚々と話していた記憶がある。

そのため、小さかったオラは、片腕三四郎がわが父をモデルにしたドラマだと勘違いしていた部分もあった。

すげーな、とーちゃん。強いんだなぁ。片腕でかっこいいなぁ、と。

 

そんなオラ、じつは頭部の一部分に(先天性の)ハゲがあった(いわゆる、10円ハゲ的な)。

当然、それが気にならないわけがない。

まして女の子なわけだから、めっちゃコンプレックスになってもおかしくない。

でもって、それでイジメにあったりして、精神的にも病んでしまったりしてもおかしくなかったと思う。

それで落ち込んだり、いじめられたりしたことはなかった。

おそらくそれは、父の影響ではないかと思う。

 

父はオラのハゲについて、「金太郎と同じですごいんだぞ!」と、いつも言ってくれていたのだ。

たしかに、金太郎と同じように(つうか、あれほど広範囲ではないが)オラの頭部にもハゲがあった。

そのためオラは、「そっか、オラは(ハゲがあって)すごいんだなぁ」「フツーの人間とは違うすごい子供なんだな」と、勝手に納得していたのだった。

 

だから、たしかに「ハゲ」と、クラスメートに言わることはあったが(つうか、ニックネームが”はげ”とか”なまはげ”だった)、単なるフツーのニックネームと思っていたし、むしろ、金太郎みたいでスゴイ自分を再確認していたくらいだった。

 

と、そんなふうに、父は一見ネガティブなことも、明るく前向きに受けとめて生きてきたし、おかげで自分も(家族も)、何一つ卑下することなく、他人や世の中や社会を妬み嫉むこともなく、けっして裕福ではないが、普通と変わらないない家庭を築いて生きてこれたように思うのだ。

 

でも、そんなことは考えもしないでフツーに生きていたのだが
4年くらい前、父の担当だったケアマネさん(いまは定年退職した)に、「身障者のいる家庭のようにみえない」と言われたことで、フツーじゃなかったってことに気付かされた。

 

身障の方の家庭にも多く訪問してきたケアマネさん曰く、そうしところは家庭内が暗いお宅が多いのだとか。

メンタル面もそうだが、室内も実際に荒れていたり、どんより暗い感じがすると。

しかし、わが家のみんなは明るいし、娘息子さんたちも物腰柔らかく、しっかりしていてると。

 

これはひとえに「おかあさんが明るくてしっかりしているからだ、おかあさんが一生懸命がんばってきたから」だと、母はケアマネさんに褒められたと、後にオラに嬉しそうに教えてくれた。

 

たしかに、そうだ。

母のチカラも超絶大なのだ。

 

そんな母のがんばりもあり、人一倍の努力を続けてこれた父だったのだろう。

 

父は、最後の最後まで努力を惜しまなかった。

昨年10月に倒れて救急搬送された父は、その数日前まで、飲み込む力をつけたりするため、風車をフーフーする筋トレをやっていたようで、オラとのオンライン面会のときも、片手に風車を持って登場したのだった。

 

吹いてみせて!

と、父に言ったら

 

まさに、虫の息という感じで、風車は回っているかどうかわからないぐらい、かすかにゆれていた。

 

努力によって片腕でも人並みにできるようになれる、という人生を送ってきた父。

最後の最後まで 日々成長の希望と喜びを失わず意欲をもって生きる、それは父の最後の雄姿でもあった。

 

父は昔から、努力と根性が大事だ!ということをオラと兄によくよく言っていたけど

父にその努力ができたのは、その先に成長や喜びがあることを知っていたからではないかと。

つまり父は、けっして辛い思いばかりで努力を続けていたのではなく、日々成長できる喜びを知っていたから、努力が喜びというか、ある意味、努力オタクみたいな域に達していたのではないかと思う。

 

2度目の危篤となった父の様子をたまたま仕事で出会った看護師さんに話したところ(冒頭リブログ記事)、そうした大変な容体で、それだけ話をしたりすることは普通はあり得ないことだと教えてもらった。

それは奇跡みたいなものだと。そして、それができるのは、人徳がある人だったからだとも。

人徳がある人には、最後に神様がプレゼントしてくれるのだと。

 

じつは、人徳というのがオラにはあまりピンとこなかったのだが(・・・いえ、人徳ワクもあったのかもしれないが)、後にストンと自分なりに腑に落ちたのは、身障者でありながらもポジティブに前向きに努力を惜しまずに人生を生き抜いてきたことへの神様からのご褒美だったのではないかということだ。

 

言語不明瞭ながら、父は最後のチカラをふりしぼり(昨年10月に2回目の危篤で駆けつけた際)、オラと母にたくさんたくさん何かを話してくれていた。

そして、このときを最後に、以降 父は言葉を発することはなかった。

 

何をいっていたのか、何を伝えたかったのかは何もわからぬままだが、大切なのは、本人が伝えたかったことを言い切って旅立てたということにあると思う。

 

だから、オラにも後悔はない。