ナツが居酒屋のサンヤスをやめてから、次に就職したのはフジモトという海産物問屋だった。事業が成功してからは家具や雑貨なども扱って、その建物は五階建て煉瓦造りで、見るからに立派なものだった。
この建物はやがて市の文化財となって保存されることになる。ナツがここに勤めたのは生活のためなのはもちろんだが一種のカモフラージュでもあった。それは新山咲子の誘いをかわすためだったのだ。
あれいらい咲子はなんどもナツを訪ねてきた。
「ねえ、ナッちゃん、いっそ新山呉服店に来てよ。悪いようにはしないからさ」
サンヤスでナツが如才なく仕事をこなし、真面目な働きぶりで評判がよかったのを知っているから咲子は熱心だった。
だがナツは気が進まなかった。呉服店に勤めていたことがある姉のセツから内情を聞いていたし、富美江もなんどかアルバイトに行って様子を知っているのだった。そのドケチぶりは聞いていてあきれるほどのものだった。
安田家でナツが奉公していたときの苦い思い出がある。五円の給料を七円にしてあげると雪乃奥様が言ってくれたのに新山咲子の横やりで取り消されたことがあったのだ。
「うちで働いている姉のセツが五円ですから妹のナツにそんなに払われたら困ります」
咲子のひと言で昇給は見送られてしまった。まったくナツにとっては迷惑な横やりだった。あのときの悔しさがよみがえってくる。だから咲子の再三の誘いに乗る気は毛頭なかった。しかし、従姉妹でもあるし、むげにも断れず毎日悩んでいて具合が悪くなった。ナツは咲子の誘いを断るのが辛くなり、とりあえずフジモトに働きに出たのだった。