しかし人類はそこに上書きして生きてきたのである。桜の木を植えたり、公園にしたり、病院や学校を建てたり、遊園地も出現した。そこには憩いがあり、笑いがあり、新しい恋も生まれ、工場ができれば多くの便利なアイテムが作られて、人類はさらに生活を快適にしようとする。
 つまり、人間は過去に上書きしなければ生きていけない生き物だということだ。ではあなたはどうだろう。別れた誰かと
行ったカフェには行けないということがあるかもしれない。ある場所に行くと死別したり、生き別れた人を思い出すから辛いということがあるだろうか。
 誰でも少しはそうした場所があるのではないかと推察する。何度も離婚を経験した人なら、数えきれないくらい避けたい場所があると思う。だが、しかし、とぼくは言いたい。そんなことを言っていたら行く場所がなくなってしまうではないか。思い出の素敵なカフェに行けないので、どこか違う店で我慢することになりかねない。
 それは大変な損失ではないだろうか。そこで必要になるのが上書きだ。そこに新しい思い出を作ればいいのである。新しい友人や恋人を連れて行けばいいのである。悲しみに包まれていた場所は再び明るい思い出で満たされるようになる。消極的な記憶は少しずつ薄らいでいき、積極的なことが脳裏に刻まれていく。
 さて、上書きをしたのはいいけれど、前よりもっと悲しい別れが訪れることもあり得ることは理解しておこう。でも先のことを心配し過ぎてどうなるだろう。一つもいいことはないとぼくは思う。スタンダールの墓に刻まれた言葉をまっとうできたら思い残すことはないと思うのだが。
 書いた。愛した。生きた。

 

上書き
Overwrite
 上書きほど便利なものはない。どんな文章でも一部を加えたり削ったりして保存をクイックするだけでいいのだから。だが、ぼくがこれから話すことはそういうありきたりなことではない。人生の上書きについて書きたいのである。
 ダークツーリズムというのがある。歴史の悲劇の場所ばかり訪ねる旅行を指している。ナチスの収容所の跡をたどるツアーはことに有名だ。広島の原爆ドームや知覧の特攻隊を記念する建物を巡るのもそうだ。それなりの意義がある旅となるだろう。
 しかし、実を言うと悲劇は至るところで起きている。地震や台風の被害で多くの人が亡くなったり、戦争の被害に遭った土地だったりする。もっと遠い時代にさかのぼればなおさらだろう。もしあなたが霊能者ならさぞかし疲れるに違いない。     続く

 ところが、世の中にはすれ違いを演出するずる賢い人間がいることも忘れてはならない。ストーカーがそうだ。ある人の行動を知り抜いているからわざとさりげなくすれ違う。偶然を装うのである。私の旦那がそうだったという笑いが聞こえてくる。その通り。恋愛とストーキングは紙一重なのだ。
 人間は都合のいい生き物だ。好みの人に追われたら嬉しく、いやな人に追われたらストーカーになるのだ。その辺の判断を間違えると失敗する。いずれにしても、おおくのすれ違いを経て、その一部の恋愛だけが成就するわけだから面白い。それも奇跡といえばそうなのだろう。
 恋愛が成就した結果としてぼくたちは生まれた。100%とは言わないまでもほとんどはそうだろう。悲しい別れもたくさんあったはす。やがて死別という完全な別れがある。だからあなたが墓場に行ったとき考えてみることをおすすめしたい。ここに眠っている人たちの数えきれないすれ違いと、奇跡のような恋愛の結果として自分が生まれてきたことを。

 

すれ違い
Passing each other
 すれ違いは、英語を見たら分かるようにお互いのせいなのだ。片方だけのせいではない。しかしすれ違いは恋愛ドラマの定番であることを思うと、視聴者をじらし、はがゆい気持ちにさせる効果がある。そして実際に出会ったときは、やっときたかと安堵する。そうして二人を応援したい気持ちにさせたらドラマの視聴率が上がるのは間違いなしということだろう。
 現実の世界ではすれ違ったまま一生会わないことが多いわけで、なかなかドラマのようにはいかない。ところが、シンクロニシティという言葉がある。日本語に直すと意味のある偶然となる。それが何度も繰り返されると、もしかしたらその人は運命の人かもしれない。
 そういう人がいたら大事にした方がいいかもしれない。考えていたら交差点の向こうから現れたとか。ある人が夢に出てきて、その日に会ったとか、お互いに話をしたら人生のいろんな場面で近くにいたことがわかったなら、その人は大事にした方がいいかもしれない。   続く

(2)

 もう一つ。旧約聖書の中に、神は目配(めくば)せする者を憎まれるという記述がある。互いに目配せする者とは、人をおとしいれる計画を持った連中が使うアイコンタクトなのだ。世の中には悪徳商法があとを絶たない。ひところシロアリ商法というのがあった。シロアリがいるかどうか調べてあげましょうと言って縁の下にもぐり、瓶の中からシロアリを放って、また瓶に入れる。多額の駆除費用を騙しとられることになる。
 中には真面目な業者もいるから見分けるのが難しい。シロアリを使わなくても、似たような手段で必要もないリフォームをされて大金を払わせられるお年寄りが多いから嘆かわしい。オレオレ詐欺もその延長線上にある犯罪であり、彼らは劇団さながら役者になりきり、互いに目配せし合って人を騙すのである。
 それだけの頭脳と才能があれば何かいいことに役立てればさぞかし成功するだろうと思うのだが、彼らの心に楽をして儲けようという性根がある限り地道に働き続けることは難しいのだろう。ましてや、人が騙されて嘆くのを面白おかしく感じるような人間なら、一生こうした道からの軌道修正は難しいかもしれない。
 ところで、ぼくは今イオンに来ている。スタバに入った妻がいつまでも友だちとお喋りしていて、早く帰ろうとアイコンタクトしているのだが、なかなか腰を上げない。チラッとこっちを見るだけで平気で話し続けているのだ。少し腹が立ったから「車に戻るぞ」と怒り顔スタンプ付きでラインしたら「とっくに車で待ってるわ」と返事があった。メガネを変えないといけないようだ。
 

 眼差しについては少し前に書いた。アイコンタクトといえば似ているが、そのおもむきはかなり違っている。ここには複数の人がいて、何かを伝えっている。試合やコンテストが始まるとき、よく会場で監督やコーチが選手たちと目で合図し合う。そこには他者には分からない心の交流があるわけで、これからのぞむ大舞台に気合いを入れる目的があるのだろう。
 しかし、目での合図はいいことばかりではない。映画で心中するシーンがあったとき、男女は意を決したように互いを見つめ、大きくうなずいてから身を投げたり薬を飲んだりしていた。縁起の悪いことを言うと思われるかもしれないが事実はそうなのだろうこんなふうに愛情を交わし合う場合もあるが、ときには敵意をぶつけ合うときにもアイコンタクトは使われる。漫画なんかでは互いの視線の間に火花が飛んでいる絵が描かれるかもしれない。  続く

 まったく違う場所に自分はいて、やはりそこも自宅に違いないのだが、ベッドに腰掛けた私は虫に刺された足を見ていた。発疹が広がっている。見ると左足にも転移していて赤い斑点が爪先から太ももにいたるまで無数にあり、かゆみが全身に拡大していた。慌てふためいて薬を塗ろうと右手を伸ばしたとき驚愕した。腕がすべて赤紫の発疹におおわれ、不気味に光って腫れあがっているではないか。大変なことになったと途方にくれたまま目が覚めた。
 もうろうとした意識のまま思い出そうとする。もう一つ見ているはずだ。何かの建物にいて大水が入ってくるようなイメージだが、それ以上は覚えていない。

 私は夢見体質で幼いころから一晩で五本も六本も夢を見る。空を飛んでいるものが多く、夢の中でしか出てこない景色もあって、それが繰り返し現れることがあるから不思議なものだ。宗教家や霊能者なら意味づけすることはできるのだろうが、私はもっと現実的で、睡眠時の脳がリラックス状態であちこちの記憶の引き出しを開けたり閉めたりして遊んでいるのだとしか考えない。

 もちろん近年になってから研究されてきたことも興味深く受け止めている。夢は潜在意識から来る人間の隠された内面の解放であるという考えだ。もしかしたら夢の中の自分が現実より真実に近いことがあるのだろう。人前では隠している野心や欲望が赤裸々に現れて夢から覚めても心臓の高鳴りが続いて困ることもあり、それは多くの芸術作品のモチーフにもなってきた。

 ある文学サークルに出ていたとき、地元の重鎮がこう言った。

「高岡さんが言っていたように夢を記録したり書いたりすることはやめた方がいいと私は思う。だいたいが体によくない」

 少し前にカフカが夢を克明に記録していたことを私が話したことへの反論だった。それに対して私はとやかく返しはしなかったが残念に思った。彼の書いている小説に深みが感じられない理由がわかった気がしたからだ。少年時代のエピソードを扱った短編だったが、どれも無難な出来栄えで、じょうずにまとめてはいるが印象には残らなかった。

 そもそも夢というものは謎めいていて不思議な世界である。時系列にも支配されず、場所や空間も自由に飛びこえる。作為的な結末もなく、物事の進展には繋がりもない。泡のように水面に現れ、消えていくが波紋だけは目覚めても残るのである。古今の芸術家はそれをモチーフにしないではいられなかった。幻想的な音楽がうまれ、詩や文学が躍動しながら動き出す。映画や戯曲にも欠かせない要素となった。

 すっかり目覚めた私はあくびをしながらベッドから立ち上がる。カーテンの隙間から朝の静かな陽射しが部屋を満たしている。今日もありふれた朝から始まり、どんな一日になるのかは誰にも分からないが、不穏な夢をきっかけに掌編の一つも書いてみたいと思うのだった

 

 (1)

 不穏な夢を立て続けに見た。どうしてだろう。体調が悪いのだろうか。思い当たるとすれば一昨日に芝刈りをしていて虫に刺され、ひどく足首が腫れて熱と痛みがあることくらいだ。
 いや、もしかしたら突然の訃報だろうか。20年来の心の友を失くし、彼の通夜に出かけたが、ため息ばかりが出て、私のマインドはあまりよくはない。いずれにしても昨夜の夢を見た理由にはならないかもしれないがここに記憶のために記しておくことにする。
 薄暗い部屋に私はいた。たぶん眠っていたのだろう。我が家なのだが、ぼんやりとした目で床を見下ろしたとき、小さな虫が絨毯を歩きまわっていた。しかもその数が半端ではない。蟻か蜘蛛か、あるいは別の種類の虫なのかはさだかではないが、糸をひくように群れて絡み合い床をはっていたのである。
「おい、霧子、起きろ」
「どうしたの」
「見ろ、大量の虫が床をはいずりまわっている」
「あら、たいへん」
 二人ともベッドから飛び出した。私は枕元にあるメガネをかけた。見ると床も壁も無数の虫で埋めつくされていた。
 妻は隣の部屋も見てくると行って寝室から出て行ったがすぐに叫んだ。
「こっちも同じよ。大変だわ、すぐに駆除しないと」
 私は虫がいない部分の絨毯をめくってみたが、そこにも大量に隠れてうごめいていた。どうしようとパニックになる。
「おーい、掃除機だ。強力なやつがいい」
 叫んだが返事がない。私は掃除機がどこにおいてあるかもわからない。普段なにもかも妻にまかせっきりにしているからだ。妻もパニックになっていて聞こえないのだろうと思って隣の部屋へ行くと妻はガムテープで床をパタパタ叩いていた。
「何をやってる? そんなやり方じゃあ幾ら頑張っても無理だぞ。掃除機だよ。あれで吸い込んでやろう」
 ところが二人で探したが掃除機が見当たらない。大量の虫はベッドにまで這い上がってきて絶叫したとき場面が変わった。

  続く

 騒がしいベルからチャイムが学校に導入されたとき、全校生徒が体育館に集まって試音式が始まった。あれは確か中学生になってまもなくだった気がする。なんてきれいな音だろうと、そのときは思ったが、いくらもしないうちにぼくはその音に飽きてしまった。授業が始まったり終わったりを告げる合図にすぎなくなり、感動はすっかり跡形もなく消えてしまったように思う。
 時は流れて、高校に入ってまもなく、ぼくは恋に落ちた。新入生の全員が講堂に集まる入学式の日に隣り合わせた女の子がいた。クラスは違うが少女雑誌の表紙から飛び出してきたみたいな美少女でひどくドキドキしたのを覚えている。それから数時間後に運命的なことが起こった。

 ぼくは美術部に入ろうとして校内を歩き、奥まった場所にある美術室に着いたわけだが、なんと戸口の前にあの女の子がいたのである。入るのをためらっているようだった。「入ろう」とぼくは言った。その子は安堵したみたいにほほえんで一緒に入った。そこにはたくさんの部員が待ちかまえていて新人を歓迎してくれた。

 その学校は九割が男子生徒で占められていたからなおさらだが、その子は美貌ゆえにとびきり目立っていた。その子はときどきぼくに会いに来た。それは部活に関することで、たまたまぼくが詳しかったから聞きに来るのだ。展覧会にはどんな作品を出したらいいか。スケッチ旅行には何を持って行けばいいのかと質問しにくる。
 そのとき、クラスにはひやかしの歓声が上がる。教室の窓を開けて興味しんしんの顔が並ぶのである。男子だけのクラスに女生徒が来るだけで大興奮なのだ。ぼくは恥ずかしくてたまらなかった。廊下で話しているときも、早くチャイムが鳴ってほしかった。
 淡い初恋の思い出である。結局は彼女とはそんなに親しくならないうちに三年になってしまった。学校帰りに、いつの間にか体育会系のイケメンと二人で歩いているのを見かけたときは正直悔しかった。
 ぼくはため息をついた。遅かったのだ。告白しないまま卒業が近いのがうらめしかった。そのとき、山の上にある校舎から帰宅をうながすチャイムの音が聞こえていた。あのときの詫びしい音は今も耳についている

(2)

 カポーティは続けてこう言う。
「古い肖像画の埃をはらったとき、再び艶めいた姿が現れる」
 ぼくたちも、そうありたいものだ。知らずに溜まってしまう埃を定期的にはらってきれいにすることが大切なのだろう。何かのことでプチうつを抱えこむと、それがいつのまにか厚く積もって本当のうつや、ひきこもりにならないとも限らない。
 コロナ騒ぎに続いて、いっこうに終わらないロシアのウクライナ進攻と、それがもたらした物価高があり、今はイラン問題で物資不足が起き、仕事を失った人もたくさんいる。人がかかえるストレスはさまざまな形で増大している。しかし今の状況がいつか終わるにしても、片隅の影の問題はずっと続く。ぼくたちに必要なのは、古い肖像画に溜まった埃をはらう行為だろう。それは散歩であったり、音楽を聴くことだったり、いい読書をすることだったりさまざまだろう。
 カポーティはLGBTで悩んだ作家だが、ひたすら書くことによって前に向かって歩いていたのかもしれない。『ティファニーで朝食を』という明るい小説を書いたかと思えば『冷血』という暗くて重い殺人者の心理を描いたものも書いた。時間のある方は一読されるといいだろう。