実のところ、登美江には思い当たる人物がいた。そのころは警察が念入りに調べていたのであまり大きくは考えなかったし、それよりも自分を守ることで精一杯だったから想念の中に埋没していたように思う。

 しかし事件が暗礁に乗り上げ、警察の動きがぱったりとなくなってから気になっていたことが日に日に大きくなった。大波のときに見逃していた岩のひとつが静かな海面から顔を出したのだった。

 富美江がひっかかっていた人物は上司の一人なのだが、あとになってから不自然な動きが幾つか思い出された。挙動不審という言葉を使っていいかどうかも分からない。しかし仕事中に妙に視線が泳いでいて、意味もなく周りを見ていたり、富美江がふり向いて目が合うと、急にドキッっとしたように手を机の下に入れたことがあった。

 あとになってから思い出したが、そのことを母親以外には口に出せなかった。自分が気になったくらいだから、他の人もそうだったのではないか。誰かがとっくに警察に話したかもしれないし、あるいは自分の思い過ごしかもしれない。いずれにしても富美江は沈黙を守っていた。

 その上司がしばしば競艇に出入りしているのも聞いたことがあるし、女性との噂もあった。客から受けとった四十二万円を決済してその上司に渡したとき、いつも順番に並べるはずなのに、なぜかそれを隅の方に置いたのも、あとで考えると奇妙に感じらる。

 事件の後もその上司の目つきがおかしく感じたが、やはり予断は禁物なのだった。全員が調べられてるのだから目つきが悪いのは自分も含めて誰もが同じかも知れない。人生経験も浅く、銀行員としても二年にしかならないのだ。自分の憶測が違っていたらそれこそ大変なことになると富美江は思った。

 事件は結局のところ伸展がないまま過ぎていった。しばくしてから登美江が気になっていた上司が一身上の都合で銀行を退職した。こうして大きな疑念を残したまま現金行方不明事件は迷宮入りとなった。しかしこのときの経験は登美江の心に生涯にわたって何か釈然としないものを残す結果となった