エッセイ
    夢の上書き     


 そこはたぶん東京のどこかの建物で明るい大部屋だった。ソフトなクッションフロアが敷かれローテーブルがあちこちに置いてあった。ぼくの近くには妻もいて、あとは知らない人ばかりだった

 ところがそこに一人の男性が入ってきた。背が高く、キリッとした整った顔立ちをしているが、どこか疲れているふうで服装もラフなワイシャツと細いジーンズ姿だ。ぼくはすぐに気づいた。そして同時にあるエピソードを思い出した。
「福山雅治さんですよね」
‥‥‥」
 男性は否定もしない。表情はポーカーフェイスのまま。ちょっと迷惑そうだった。ぼくはすぐ言葉をついだ。
「実は前に妻がここで福山さんに会ったことがあると話していたことがあるんです。有名な方なのにとてもフレンドリーで優しく接してくれたいたく感激していたんですよ」
 話しながら妻の顔を見ると、そうだとうなずいている。男性はかすかに笑い、そのときのことを思い出したようだった。ぼくは勢いづいて話し続けた。
「実はぼくは福山さんがあまり好きではなかったんです。才能あふれ、イケメンで、何もかもが整っているのがたぶん気に入らなかったからだと思います。でも妻から東京でのエピソードを聞いて好きになったんです。偉ぶらないいい人なんだと思いましてね」
 福山雅治は笑顔になってぼくたちと同じテーブルに座った。向かい合わせで横に奥さんである吹石一恵もいる。完璧な美男美女とはこういうカップルをさすのだろうとぼくは思った
 そのあとめいめいが忙しくした。ぼくは手洗いに立って再び席について自分の黒いバッを手にとってファスナーを半分ほど開けたときにはっと気づいた。それは福山雅治のバッグだったのだ。
「あ、すみません、間違えました。ぼくのと似ているので、本当にすみません」
 すると、福山雅治は怒ることもなくニヤっと笑って人差し指をぼくに向け、おどけた調子で「やっちゃいましたね」とウインクしたのだった。
その優しい返しを見てぼくはますます彼に好感をもった

 妻も横に座り吹石一恵も向かいにいてしばし語らったあと、帰りぎわに福山雅治はなんとぼくをハグしてすごく楽しかった。どうもありがとうと言ったのだ。ぼくもハグを返し、横にいる吹石一恵にも笑顔を向けて「私たちこそ思いがけない楽しいひとときでした」と礼を言った。
 朝になって夢からさめたとき、ぼくは妻に聞いた。
「きみは前に東京で福山雅治に会ったことがあるって言ってなかたかい? なんか親切にしてもらったとか」
「何言ってるの。そんなことあるわけないでしょう。あったらみんなに自慢するわよ」
「あ、そうか。いま福山雅治の夢を見たんだよ」
 夢の内容を詳しく話した。
「あなたって本当に夢の内容をよく憶えてるわね。感心する」
 どこか楽しい気分で朝を迎えたぼくは外を見た。春が来たと思っていたらなごり雪があたりを白く包んでいた。
 ぼくは理由なく人を嫌うことがある。話し方が上から目線だとか、顔つきが不遜な感じがして気に入らないとか、上品ぶっているとか、自信たっぷりな態度だとか、理由はさまざまだがどれも根拠はない。実際にその人の内面も知らないうちに嫌いだというレッテルを貼ってしまう悪い癖があるのだった。

 それで今回のを見たあとに自分の思いに上書きした
 福山雅治はなかなかいい人物だと。

 

エッセイ    見まちが

 

 若いころは陽のなごりで窓辺の読書を楽しむことができたが今はそうはいかない。カーテンを閉めて照明を点けなければ読書ができなくなった。目が悪くなるととんでもないまちがいを起こす。〇〇さんと親交を深めたという文章があったとする。え? どういう意味だ。〇〇さんとオヤジ(親父)を深めたとは。深い意味でもあるのだろうか。何かの比喩なのか。考えても分からないから読み返すと、なーんだ気づいて苦笑する。

昔の文学書はやたらと字が小さい。だから誰もが分厚いメガネをしていたのかと思ってしまう。山奥にある農家を訪ねたときに羊羹が出されて、という記述を読んだときは、ほうほう、酪農をしている農家で羊の糞が出されたのか、まさか、と真面目に悩んだから笑える。恋人と変人の区別もつかない。人口を数えるは入口を数えるに見える。沖縄を舞台にしている本で、基地で待ち合わせたとあるのも墓地で待ち合わせたと理解してしまう。

かつて若い人の恋愛小説を読んでいてルーズソックスが出て来たときは、なるほど、この若い主人公はセックスがルーズだったのかと読みちがえるくらいだからかなり前から視力は問題だったわけだ。評判のルーペメガネをプレゼントしてあげようかと娘に言われても、まだまだいらないと虚勢を張ってきが、買ってもらえばよかった。
 見まちがいで深刻なのは冤罪をうむことだ。これは許されない。目撃者の証言がかなり重要視されるのはいつの時代も同じなわけで、笑えないまちがいとなる。人の名誉にかかわる話は絶対にいいかげんな記憶で書いてはならない。もしあなたがかなり高齢になり、ときどき交通標識を見まちがえたとするなら、意地を張らずに免許を返上した方がいいだろう。近い将来、これは自分に言わねばならなくなりそうだ。

 

 

 私たちは睡眠によって一日の疲れをとるわけだが、夢は意識の深い部分に眠っているものを掘り起こしてくれる。たぶん箪笥の中に乱雑に詰め込まれていたものを引っ張り出して収まりよくしてくれる作用でもあるのだろうか。カフカは夢を克明に記録して創作に役立てたという。たぶん人間がある日とつぜん昆虫になってしまう『変身』などは夢をモチーフにしたものかもしれない。私が数日前に見た夢はなかなかユニークなもので、それが自分の潜在意識のいかなる部分を掘り起こしたのか考えてみた。以下はそのときの夢の記録である。
 森の山小屋で寝ていたら、いつの間に入ってきたのか階のロフトから黒い毛の動物が落ちてきて、の背中にドーンととまった。野良仕事で疲れきっていたのでそのまま眠っていた。朝に目覚めたら黒い動物はの背中におおいかぶさったまま眠っている。なんとそれは野生のチンパンジーだった。びっくりした私は起き上がろうとするが動物は背中から離れない。きっと父さんか母さんからはぐれた子どもなのだろう。私はロフトに寝ているはずのに声をかけた。
「おーい、起きろ。いいもの見せてやるから」

 と言ったぐっすり眠っている妻は気がつかない。そうしたら背中のチンパンジーが小声で言っ

「おしっこしたい」
「そうか、よしよし、待ってろよ」
 私はその子を背中におんぶしたままベランダの引き戸を開けてあげようと歩き出したとき目が覚めた。
 この数日、この夢を分析してみた。それはこの話を材料にして童話の一編でも書いてみたいと思ったからだが、もとより日本には野生のチンパンジーはいないから日常の身近な話としては簡単に書けない。考えてもまとまらないままだったが、そのかわり自身の中に眠っていた意識をさぐる機会になった。
 あの背中で甘えていたチンパンジーは何を意味するか。幼いときに生き別れた息子か娘だろうか。その子たちを抱いたり背負ったりした記憶と照らし合わせてみる。
そんな動物が背中に落ちてきても平気で眠っていた自分はどういう人間だろう。肉体労働で疲れきっていたのは現実と符合する。無類の動物好きな点もそうだ。自分が若いときから人間嫌いな部分があり、その反動で余計に動物たちの無垢な姿に愛着を感じるのだが困った部分もある。

 例えばこうだ。誰かが鹿と衝突したというニュースを聞くとすぐに鹿は大丈夫だったのか。そのあとどうしただろうと、人間より動物のことを心配してしまうのだ。人には残酷で動物にはメロメロになるというのも褒められることではない。私の場合は残酷とまではいかないが人間関係においてはクールな部分がかなりあり、積極的に友人を作るタイプではない。可愛い猫とたわむれたり、忠実な犬たちと仲良くなりたいと思ってしまうのだ。
 考えたら子ども時代から絵を描くことにたくさんの時間を費やしていたのも、その間はひとりでいられるからという理由もあったかもしれない。それにしても背中に落ちてきたのが犬でも猫でもなくチンパンジーだったのはどうしてなのだろう。あの愛らしいつぶらな瞳をもつ甘えん坊の生き物が背中にびったりひっついて「おしっこしたい」とささやいたとき、私がひどく幸せな気分だったことは間違いない。人間もあんなに無垢になれたらどんなにいいかと思うのだが、とにかく厄介な生き物であり、私ももう少しのあいだ、その厄介さを抱え込んで生きていかねばならないようだ。

 

 エッセイ
           思い込み                                  

 

ぼくには霊感があるんだと氏は言った。

どうしてそう思うのかと私は聞いた。
「書きものをしていてコーヒーがこぼれる夢を見たんだ。朝に目覚めてから朝食のためにテーブルについたとき、うっかりコーヒーをこぼしてしまったんだ」

「それだけ?」

「うん、他にも似たようなことがある」
 私は友人が語るのを愉快な気持ちで聞いていたが、おおらかな氏の日常を知っているものだから、とも霊感が鋭い人とは思えなかった。事実ははっきりしないが、人はおうおうにして思い込むときがある妙な生き物かもしれないと、そのとき私は思ったそんな例を幾つか考えてみた。
 若いときの苦い経験から男はみんな嘘つきな狼だと思い込んでいっさいの男性と個人的に親しくなるのを避ける人がいるという話はときどき聴く。それも生き方のひとつには違いないが、どこか悲劇的なものを感じてしまう。

 男でも女でも、自分は美人、あるいは美男だから異性にもてると思い込んでいる人は態度にそれらしいものが出る。自信過剰からくるセクシャルハラスメントにも繋がりかねない。媚びを売って仕事面で有利な立場につこうと画策する人もいる。それが周囲から鼻持ちならないことがあるのにも気づかないということもあるわけだ
 逆に自分には何のとりえもなく魅力のかけらもないと思い込んでいる人もいる。そういう人は自の欠点ばかりに思いが向かい、長所に気づかない。世の中に長所が一つもない人間などいないのだが、自分には生きる価値がないとまで考えてしまうことがあるから困ったものだ
 多くのストーカー行為についても考えてみたい。やはりそこに根差しているのは思い込みである。この人は運命の人だそれを向こうは気づいてないだけなのだ。だから私はけっして諦めない。必ず時がくればこちらの気持は通じるし、分かってくれるはずだ。
 こんなふうに思い込んで相手の迷惑も考えずにエスカレートしていくこれもまた厄介なことと言わねばならない。
 思い込みは差別を生む重大な原因ともなる。自分の人種だけが優っているという思い込みくらい恐ろしいものはない。ナチスのおぞましい虐殺は誰もが知るところだが、黒人差別や世界中に起きている小数民族への差別はいまだに数えきれない悲劇を産んでいる。
 宗教もまた人の思い込みに強力な(よろい)を着せ、鋼鉄の兜と諸刃の剣を与えて武装させる役割を果たすから怖い。そうやって容赦なく人を攻撃する。例えば、黒人はアダムの息子アベルを殺したカインの子孫だから呪われているととなえた世界的な宗教団体がある。人種差別に聖書や神からおすみつき証文をかざすわけだから恐ろしい。信者はもれなくそうした考えの影響を受ける。差別は彼らにとって神の意志にかなった善行とみなされてしまうのだ。それと似たようなことが世界のあらゆる場所で起きてきた。
 金や地位があれば幸せになれるという考えも、へたをすれば思い込みとなり人生の真の意味を見失う結果をもたらす。そのために悪どい手段をろうしたり、友人をけおとしたり、寝るひまも惜しんでそのことばかりに邁進する。周囲の人たちの気持も無視して、利己的な目的のみを追い求めてしまうから犠牲にされた人たちがたくさんいても気づかない。

 冤罪の多くは思い込みから起きると言って間違いない。被害者の思い込み。目撃者の思い込み。刑事や検察の思い込みがある。その幾つかが絡んでとんでもない苦しみを無実の誰かにもたらすから取り返しがつかない。それを意図的に画策した小説がデュマの『モンテクリスト伯爵』だが、それから生じる悲劇と復讐劇はあらゆる映画やドラマ、舞台の材料になっているわけだ。しかし現実世界でこれが起きると関係者は不幸のどんぞこに突き落とされるから怖い。

 他にも数えきれないくらいの例があるだろうがこれくらいにしよう。朝早くからこんなことを書いていたらすっかり遅くなってしまった。今日は全国ミリオネア宝くじの発売が時からエオンで始まるのを忘れていた。私は慌ただしく起きてパンを食べて準備した。青い財布をバッグに入れ。ワイシャツも青にする。帽子も青いのがいいのだが持っていない。確か隣の旦那がかぶっていたから借りて行こう。今朝の占いで一月生まれのラッキーカラーが青だと出ていた。しかも発売日が自分の誕生日と重なるとは運命的なものを感じる。今日は大量に買うことにしよう。きっと当たるだろう。間違いない。
 私はそう思い込んで笑いを押し殺し、いそいそと家を出た。

 

エピソードを鏡に映してみる

 

 私がひとむかし前、あるお客様の庭で作業していたときのことでした。塀の修理に関わることだったと思います。目の前に誰かが車を停めました。エンジンはかけっぱなしです。臭い排気ガスが鼻先に容赦なく流れてきて私はひどく咳き込みました。その人がしばらく帰ってこないのです。暑い日でした。誰が停めたのかはわかりません。私は腹が立ってきました。いっそ排気管にぼろきれでも詰めてやりたいと思ったくらいです。もちろんしませんでしたが、このあと帰宅してから考えました。それを実行していたらどうなるだろうと。
 こうして書き始めたのがアスファルトの片隅でした。どんどん筆は進み、気が付いたら五百枚を超えていました。
 それで私は思うのです。何か印象的なエピソードがあったときは鏡に映して見るのがいいと気づいたのです。鏡の中の世界は虚像であり、それをイマジネーションで紡いでいけば面白い小説になりえることを知ったわけです。

 作品集を出版して
                                           
 若いころから小説を書きたいという願望をずっと持っていましたが、なかなかそれを形にすることができませんでした。自己流で詩のようなものを書いて手作りの本を二、三冊こしらえたのは二十代から三十代にかけてだったと思います。

 もっぱら仕事のかたわら私は絵を描いていました。それは中学、高校と美術部で熱心に活動していた名残りみたいなものです。どこへ行くにもスケッチブックを離さない時期は長く続きました。

 しかし書きたいという欲求は心に眠っていたらしく、昔のスケッチブックをめくると、セピア色になった絵の裏に小説の筋書きみたいなものが走り書きされていて、それが青春の痕跡みたいに残っています。

 そんな私がいっさいの画作から遠ざかり小説や童話を一気に書き始めたのは五十四歳のときです。それにはきっかけがありました。三十三年ものあいだ生死が不明だった父と再会し、長きにわたって横浜の施設を訪ねていましたが、その父が亡くなったのです

 父の生涯は幸せの積み木を自ら崩して孤独に生きてしまった男そのものでした。「北海道に帰って来たいかい」と私が聞くと、「夢のまた夢だ。時の流れには勝てないな」と父は遠くを見つめて言っていたものです。

 父の遺言どおり遺体が横浜大学に献体されて研究材料となり一年後に私のもとに遺骨として帰ってきました。そのとき私は「日だけの長い旅」という父に関する小説を書き上げたのです。

 それからは溢れてくるストーリーを書きまくりました。そうして二十年がまたたくまに過ぎ去り二〇〇作ほどの小説や童話、エッセイが完成しました。今回は一つの節目として三七〇ページ前後の本にぎっしりと作品をつめこみ、年かけて冊を出す予定です。

 作品集の最初には登別と室蘭を舞台にした長編作品収められています。それ以外は小樽、札幌、東京、広島など、広範囲に舞台は広がります。どこに出しても恥ずかしくない作品にするために練り直し、磨き上げ、数えきれないほど推敲と校正を重ねて形にしました。それは私が生きた証の一つになることでしょう。地方都市に生まれ育った私が人知れず運ばれた種として北国の路傍に落ち、そこで小さな花を咲かせたと思っていただけたら本望です

エッセイ

これでよし

 

                                                      高岡啓次郎

 

 いつもなじみにしていたガソリンスタンドが閉じた。感じのいい女の子たちが何人か勤めていて、よく訓練された応対が気持ちいい。ガソリンを入れ終わると必ず、ある方向を指差して「ロッポッキ、トッポッキろ」と言う。ぬかりなく仕事をしたかを確かめる掛け声のようだそういえば浅田次郎の小説を映画にした『ぼっぽや』で、高倉健演じる老駅長が汽車が出るときにあちこちを指差してチェックしていた映像を思い出す。

 女の子がロッポッキーと言っていたのはロックオーケーという意味なのはわかった。給油口を指差していたから、きちんとフタを閉めたかチェックしているのだろう。しかしトッポッキはわからない。韓国のおもちに似た食べ物の名前をとなえているはずはないし、何の略なのだろう。トップオーケーなのか。ならばトップとは何ぞやとなり、疑問は深みにはまる。そのうち尋ねてみたいと思っていたのに閉めてしまったから答えは見つからないままとなった

 話はそれだけでない何かをしたあとに、これでよしとチェックする習慣は大切だ子どもは全員バスから降りたかをチェックしていたら悲劇は起きなかったのだからある芸能人が手術を受けた後に小さな針が体に残っていたという話を数日前インスタに書いていたガーゼを取り忘れたとか、ひどいのは手術ハサミを入れたまま閉じてしまったこともあるというからあきれる。
 それで、そそっかしさにおいては自信があるぼくも、これではいけないとスタンドの女の子に見習うことにした。何年かぶりで娘がいるオーストラリアに十三日の日程で行くときもチェックを綿密にした。戸締まり。鉢植えの水対策。ゴミ出し(これらはほとんど妻がやるのだが)ぼくは自分なりにいろんなチェックをした。仕事関係の連絡はぬかれない。

 最後に番組をチェックしてあらゆるお気に入り放送を録画予約した。どういうわけか見たい映画やドキュメンタリーが幾つもあり、連ドラも面白くてハマっていたものが三本くらいあったから十三日分といえばかなりの量だった。それを抜かりなくやったときは、これでよしと自分をほめた。
 最後にもういちど戸締まりを確かめ、家を出るときにムダなコンセントを抜いて行こうという話になった。
「わずかでも電気代の節約になるし、火事対策にもなるんだ。雷や何かで停電したあとにいきなり電気が通ったときは火事になることがあるからね」
「さすが電気科卒ね」
「いっそのこと、ブレーカーを落としていこう。いちいちコンセントを抜くよりいい」
「そうね」
「あ、でもダメだろう。冷蔵庫の中のものが全部だめになるよ」
「空にしたから大丈夫よ」
「おう、そうか。さすがだな。やるじゃないか」
 お互いに褒め合ってから早回しのビデオみたいに動きまわり出発の用意はととのった。
「これでよし」
 ぼくは満足げにほくそえんで二人はゆうゆうとオーストラリアへ旅立ったのである。
 あわただしく異国の地での楽しい日程をこなし、はしゃぎすぎたせいか最後は疲れきって日本に戻ってきた。帰宅してからの楽しみは日本のラーメンを食べることと録画した映画や連ドラを見ることだった。
 こうして誰もいない家に「ただいま」と言って帰って来たのだが、ブレーカーを落としてしまったら録画されているはずがないのを思いつかなかった。
 さすが電気科卒!
 多くの時間をテレビでつぶさず何かを書くか仕事をしろということか。
 これでよし!

海の歌

              高岡啓次郎

 

海は存在そのものであり自在に成るものに成る

海は涙である

海は苦闘の汗である

海は血である

我々は海を所有し、同時にその一部となる

雨となって大地を潤し 全生命の老廃物を吸収し 

腐敗や汚濁をも呑み込んで巨大なスープとなる

人はその滋養を味わい その中で泳ぎまわり 永遠に漂う魂である

清濁も善悪も光陰も愛憎もあるがままに

光と酸素に満ちた浅瀬の煌めきを

暗い深淵にひそむ淀みを

ときに疲れて横たわり波にたゆたい

再び怒涛の中でもがき苦しむ

 

エッセイ
面接  

 


高岡啓次郎

 

 

 書類審査や筆記試験を通っても、やはり最後の関門は面接試験だろう。高成績の人が落とされ、ギリギリの成績でも好印象を与えて採用されることはよくある。それは人物を売り込むプレゼンテーションに成功したということになる。

 面接に通るためのノウハウが書かれた本は売れるし、そういったサイトもたくさんある。そこでは面接で必ず聞かれる五つの質問なんかが出ていて、それを事前に準備していくよう助けてくれる。どの職業に就くかはその人の運命を左右するという点では異論をはさむ人は少ないだろう。住む場所も変わるし、接する人が変わる。当然ながら結婚相手も変わりえるし、その人の健康や寿命にまで影響が及ぶと言っても大げさではないだろう。ある土地に移ったせいで災害にまきこまれて亡くなることもあるし、労働にまつわる事故から一生にわたって重荷を背負うはめになったりもする。

 人間万事塞翁が馬という故事はあらゆる人に当てはまる普遍的な原則みたいなもので、面接に失敗したからといって、それが不幸とはかぎらない。むしろ前より好条件の会社に入れることもあるし、素晴らしい出会いがあったりするから悲観し過ぎることはないだろう。今日は面接に関わる何人かのエピソードを書こうと思う。

 北海道の厚真町で米農家をしているHさんはもともとは九州の人だが北海道に憧れて北大の農学部に入り、そこでびっしり四年間学び、いよいよ就職試験を受けるときが来た。希望した会社は東京にある農業関係の出版社で、一次二次三次試験を通過し、いよいよ面接のときがきた。ひととおり質問されたが、最後に読書傾向を聞かれたという。

「趣味の一つに読書とありますが、あなたはどんな本が好きですか」

 そのときHさんは北海道開拓の草分けだった坂本直行の本を読みあさっていたのだが、影響を受けた本は他にもあって、そのときは頭でどう答えるべきか迷った。少し考えてからゲーテの『ウィルヘルムマイスター』の名前をあげたのだった。確かにその本からも精神的な影響を受けたのは間違いないからだった。ところが残念ながら不採用になってしまった。

 別の道に進まざるをえなくなったHさんは、結果として北海道で農業の道を選んだわけだが、後日こんなことを知ったという。三人いた面接官の中心的な人は、なんと坂本直行に心酔していた人だったというのだ。それは彼が米作りや山里の保全に関するレポートを書いてその出版社に送り、何度も掲載されるようになってから小耳にはさんだわけだが、その出版社が開いたセミナーに参加したときに面接官だった本人から確かめたというから間違いないだろう。

 この話を私にしてくれたとき、Hさんは八十歳を超えており、最近は長かった人生を振り返って感慨にふけることが多くなったようだ。

「あの面接のときに愛読している本を聞かれ、ぼくが坂本直行の本に感銘を受けていると答えたら、おそらくは採用されていたような気がするんです。そうしたらまったく違う人生になっていたと思うんです」

 まったくそのとおりだろうと聞いていた私は思った。優秀で人格的にも申し分がないHさんと同列の評価の人がかりに何人かいたとして、もし彼がそのとき愛用書としてゲーテの本ではなく坂本直行の名前を出していたら、面接官からの評価のバランスは違う傾きを見せた可能性は大いにあると思うのである。そうなれば彼は北海道で結婚して農業に従事することはなく東京で出版社勤めとなって今とはまったく違う人生を歩んでいたことになる。おそらく別の人と家庭を持ち、子どもも違っていて、今あるほとんどすべての人間関係は別なものになっていただろう。どちらがよかったかは誰も分からない。ただ間違いないことは、彼がこの地にいてくれたおかげで私は素晴らしい友人を持てたわけで、そう感じている人は他にもたくさんいると断言できるのである。

 

続く

うわさ


 現代ほどうわさが暴走している時代はない。悪いうわさをSNSで拡散されると、いともたやすく企業はつぶされ、個人は死においやられる。怖い時代になったものだ。うわさは集団いじめにつながり、冤罪を生み出し、差別を誘発してきたが、人間がもつうわさ好きという性質はいつの時代も権力者や企業の宣伝に利用されてきた。あらゆる機関や組織から発せられるコマーシャルは、心理学の先端をいく手法で人々を煽りたて、購買意欲を刺激してきた。気がついたらあらゆる物に囲まれている。本来ならなくてもいいものがたくさんあるはずだが、持ってしまうとそれに依存して、なくてはならない物と錯覚してしまう。CO2を減らそうとしても、大量のエネルギーを消費してしまう生活に乗せられてしまった。
 女性はうわさが好きらしい。旦那の話やら子どもの話やら、彼氏の話やら、職場の上司のこき下ろしやら、話題は尽きなくあり、半日でも一日中ても話していられるというから驚く。私はそんなことありませんよという声がいま聴こえてきた。男だって変わらない人は幾らでもいる。人のうわさの輪には入らない人も、週刊誌の愛読書なら、たぶんあなたはうわさ好きの部類に入るかもしれない。いやいや、私は紀行文や連載小説だけをよんでいるという方はごめんなさい。
 世間体を気にする人は多い。すべての人は程度の差はあっても気にはなるものだ。それはうわさの怖さを知っているからに他ならない。しかし何かでうわさされてもあまり気にせず、普通にしているのがいいだろう。人のうわさも七十五日ということわざはまんざら嘘ではない。ひとつの季節が過ぎ去るころは普通に戻っていることが多いのだ。同じ努力をひたむきに続けている人にはうわさは大きな敵とはならないことを覚えておきたい。
 ぼくも最近あらぬうわさを流された。一回もデートしたこともない異性と付き合っていると言われたのだ。思わず笑ってしまったが、いい歳になってそういううわさが出るのは悪くない気もする。ましてうわさされた相手の女性は孫みたいに若いからなおさらだ。うわさけっこう。大いに広めてくれと思ったくらいだ。
 さあ、自分はまだまだ若いという気になれたからには、もっといい小説を書くぞと自らを鼓舞し、言い聞かせる。そうだ。あしたコメダコーヒーかスタバに行こう。しばらく座っていれば周囲からうわさ話が聞こえるのだ。それを拝借して面白いものを書いてやろう。