小栗上野介が日米修好条約に随行した時のアメリカの歓迎ぶり | ab5fcのブログ

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日本の近代国家の始まりは1853年のペリー来航から始まる。開国は和親条約を締結するが貿易を始めるには修好条約を締結する。1860年に日米修好条約の批准をするために徳川幕府は

 

外国奉行の新見豊前守正興を正史として総勢77名の団体で米国に出発した。乗船した船は米国の軍艦パータハン号で、サンフランシスコに到着。パナマ鉄道に乗りワシントンDCに到着。

 

この時に乗車したパナマ鉄道は驚きを持って乗車した。小栗は豊後守で「目付」の立場で随行。批准書交換後はニューヨークなどを歴訪したが、ニューヨークでは大パレードで迎えられる

 

チョンマゲに袴と帯刀の姿は興味の大対象だった。当時の新聞にその様子のイラストで描かれている。歓迎のパーティは使節団は二階に鎮座して見物。

 

パーティに参加して談笑、ダンスはしていない。この歓迎会は有料開催で如何に日本人の姿を見たいと思う背財界人で埋め尽くされている。

 

ニューヨーク港から大西洋を。喜望峰経由でパタビア(インドネシア)に寄港して、約9か月後に日本に戻ってきた。

 

明治の初期に岩倉具視も使節団をアメリカ。欧州に派遣した。これは日本との不平等条約を交渉する以外に欧米の国体や文化技術を視察が目的で2年間要している。随行者には後の明治時代

 

代表する人物が同行している。木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、5000円札の津田梅子も同行している。

 

ここで不思議に思うのは通訳である。誰が通訳をしたのか外交であるから相当語学が堪能でなければならない。ジョン万次郎である。彼は奇跡的に遭難した高知の漁民であったが米国船に

 

救助され、船長の好意にて語学・公開学などを学び沖縄経由で日本に帰国した人物である。堪能な語学能力は外交に大変重要である。一語一語の意味を正確に訳さねばならない。徳川昭武(

 

徳川慶喜の弟)を正史とした遣欧使節団(1867年)は薩摩が先に万博に日本代表として出品したがその時は幕府側の通訳の不手際で日本国は徳川幕府と薩摩の二つの国と誤解される報道

 

がされた。「Goverment] の意味を徳川幕府は理解していなかった。

さて、小栗は万延元年の遣米使節団で何を感じたか。小栗はワシントン造船所の見学の際、

 

小さなネジを持ち帰った。小さなネジが人の手を掛けずに螺旋状に加工され機械の素晴らしさに感動、鉄の船が作られるのを見て日本に近代的造船所の建造が不可欠との確信を得たこと

 

である。勝海舟は軍艦奉行として軍艦は購入することで外国勢力に対応できると主張。小栗は

国内に造船と修理が出来るドライドックの造船所の建設を強く提案。大規模な予算でその予算

 

を誰が負担するかが課題であった。勝海舟は幕臣の中で下層の御家人であったが、軍艦奉行まで出世した。また江戸城無血開城など、政治力を発した。咸臨丸で初の太平洋横断に成功

 

した人物として歴史に残っているが、行きは船酔いで米国背人にてサンフランシスコに到着

帰りは日本人の手で操船し、日本に戻った。咸臨丸の船長が勝海舟である。

 

勝海舟は明治政府に出仕したのでその評価が高く歴史に残されるが、一方の小栗は横須賀製鉄所(造船所)を作り日本近代化をプラットフォームを造ったが、明治政府にて逆賊として斬首

 

された悲劇の人物である。この違いは何か。小栗は政治家ではなかった。有能な官僚だった。

徳川慶喜に使えて、明治政府には出仕を断り、群馬県の所領地にて余生を過ごすつもりで

 

あった。世界を見て日本は国内で争うことは欧米にスキを与えて侵略されることを理解していたと思う。彼は明治政府に反逆の意思は全くなかったが、功名心を持つ下級明治政府の官軍

 

に断罪された不運な人物である。横須賀製鉄所(造船所)は徳川幕府であろうと明治政府でも、土蔵のごとく、その遺産を継承するものと考えていた。

 

この考え方が最も小栗の偉い所で、自分の功名のためでなく、日本の国益を既に描き切れた人物であった。それも勝海舟は同じであったが、明治政府に出仕を断ったことが人生を分けた。

 

この点はNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」にどのように描かれるか興味あるところである。

 

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