『衆生への慈しみ』

釈尊が三十五歳で成道して仏陀となられたのは、この世の生涯における修行だけではなく、限りない過去世からの修行がくりかえされた結果であるという信仰があります。

このように数限りない修行は過去世から積まれたもので仏陀になったという考え方を「報身仏」といいます。

こうした信仰がされたうらには修行というものが一朝一夕に成就するものではないという考えがひめられていることはいうまでもありません。

また、釈尊はあらゆる生きとし生けるものが計りしれない苦相に沈んでいるありさまを洞察する三明の智慧を得られて、ついにさとりに到達されたというのは、やがて成道後に釈尊のさとりの智慧が生けるものすべてに対する救いと導きとの慈悲のはたらきとなってあらわれていることと無関係ではありません。

さとりの世界がおのれひとりのものではなく、生きとし生けるものへの限りない慈悲のかたちをとるところに、大乗仏教の局致が認められます。

釈尊のさとりの智慧は衆生愛のはたらきそのものとして顕現しているのです。

もし梵天勧請を受けることなく釈尊がそのまま入滅されたならば、仏教はおそらく単なる智慧の哲学にとどまったかもしれません。

何ものをも大きくあたたかくつつみこんでいる慈悲にあふれた釈尊の姿を仰ぐとき、私たちは生きた血のかよっている修行の果報というべきものを感じないではいられません。

 

「仏教伝道協会の人生は丹精より引用させて頂きました」

 

 

◎修行は一日一日の積み重ね釈尊の衆生愛の学び教えを広めます。