『今を生きる』

 

喜びは苦難のはて

我は海の子

「我は海の子白波の、磯の浜辺の松原に」

寄せては去り、去っては寄せる砂浜の白波を見ていると、いつとはなしに心がなごんでまいります。

砂浜ではサンサンとふりそそぐ太陽の光の中で、子供たちが大はしゃぎで泳ぎ、砂遊びにたわむれています。

なんとすがすがしい光景でしょうか。黒ぐろとしたその肌は、健康そのものです。

丈夫だな!元気だな!明るいな!と思わずにはいられません。

そして私はふと、過ぎ去りしある日の親子の姿が目に浮かんでまいりました。

 

 

勢いよく流行歌がボリューム一杯に流れ、大人は同じ方向に向い、横一列にならび、タバコをプカプカとふかし、空気は汚れきっています。

そしてチーン、ジャラ、チーン、ジャラとあちこちにけたたましい音がします。

そんな中に子ども連れの母子がおりました。子どもは母親につかまり、つまらなそうに、あつちこちを眺めていました。

そんな子どもにおかまいなしに、玉を打ち続ける母親の姿。何ともむなしく、心さみしいかぎりでした。

 

 

ああ、あの時の子どもを、この海に連れてきてあげたいなあ、つくづくそう思いました。

その時ふと横を見ると、松の木陰で老婆が話していました。

「わしらは子供を七人も八人も産み、仕事に追われる中で育て、一人の子どもにかかりっきりになっている暇はなく、ろくな教育もしてやらなかったが、元気に育ち、親孝行だよ。今は子どもは一人か、せいぜい二人。

目も届き、教育も充分なはずなのに、どうして親や先生をなぐり、へ理屈を言う子どもがおおいのかな。」

老婆の言葉を聞きながら、なるほど、教育とは教えることよりもまず、子どもの育つ環境づくりが大切なんだとつくづく感じたのです。

日蓮聖人も千葉の砂浜で、太陽の光の中、大自然の恵みを体いっぱいにうけて育ったことを、心新たに思い出しました。

 

◎現代においても公園で遊ぶ子供たち、可愛いですね、でも側で見ている父母は子どもの姿を見ていない、見ているのはスマホの画面、残念です。