「名僧とは何か」

永遠なる救いを

歴史を動かした名僧

 

「日奥」

正義を守るための果敢な行動

日奥は不受不施公許継目の証文をもらって妙覚寺に還住すると、再び勢力を広げようと活動した。

池上本門寺の日樹や中山法華寺の日賢ら、関東の有力な僧侶たちもこれに協力したため、この動きは、より大きな影響力をもつようになった。

 

しかし京都諸山の中には、大仏供養会出仕問題以来の対立が依然として残っている。

それゆえ、身延山の日乾や日遠ら、為政者と事を構えることは注意せねばならぬとする教団護持の立場に立つ不受不施派の僧侶たちは、こうした動きを憂慮し日奥とその門下の禁圧を幕府に訴えた。

 

寛永七年、家康は不受不施を唱える池上本門寺の日樹ら六人とこれに反対する身延山久遠寺の僧侶六人を江戸城に呼び対論させた。

結果は、幕府が不受不施派にきびしい弾圧をもって臨み、日樹らは流罪、その指導者として大きな影響を与えた日奥は再び対馬流罪となった。

しかし、日奥は、その二十日前に六十六歳の波瀾に富んだ生涯を終えていた。

 

◎師の教え固く信じ貫き通し生涯をとじられました。

私も師の教えを信じ生涯現役として信行を続けさせて頂きます。