「名僧とは何か」

永遠なる救いを求めて

歴史を動かした名僧

 

『天海』

家康との強い結びつき

慶長八年二月、家康は宿願の江戸幕府を開設するが、この年の十一月、天海は亮弁権僧正の懇請によって、今度は下野国芳賀郡久下田の新宗光寺を管理することになった。

さらに翌九年になると、同郷真岡の般若寺三世能海の遺命によって、長沼に移って二十世の法統を継いで檀林の復興に尽力している。天海は講席を開帳するや、その義解がきわめて簡明で評論も的確であったことから、多くの参集した聴聞者に深い感銘を与えたということである。

 

この年、比叡山において、山門大衆の間に争論が起こっている。このとき家康は施薬院宗伯からその裁断の依頼をうけて、山門の宿老を駿河に招き、争論の解決をはかっている。

家康はこの機会に一山を治める名僧はいないか宗伯に尋ねているが、このとき大衆の総意によって下野国の天海の名があげられたのである。

 

かねてから家康自らも天海の名声を聞いていたから、早速、天海の比叡山東塔南光坊への在住を命じている。

このように天台宗総本山である比叡山への移住は、何といっても天海にとって破格の抜擢であった。

 

◎天海さんは天台宗の僧侶で徳川三代に仕えられ名僧としての名を高められました。

私は生涯、法華行者として行学に励みます。