「仏教名言60の知恵」
生老病死の悩みを癒す
おかげさまで生きられる
悲しいときは思いきり泣け
*感動が素直な涙になりにくい時代
それはいつの頃からだろうか、私たち日本人の大人は唄を忘れたカナリアのように、公衆の面前で惜別の悲しさに耐えきれず、大声で泣き叫ぶことを忘れてしまったようだ。
たしかに私たちは、今もって肉体的な苦痛に対しては、その痛さに耐えきれず悲鳴を挙げることはあるが、知らない人の面前で自分の赤裸々な姿を見せることは「恥ずかしい」とか「はしたない」と思いが先行するからだろうか、思い切って素直に自分の本心をさらけ出すことに抵抗があるようだ。
はたしてそれは私たちの人生にとってよいことなのだろうか。
こうしたことを考えるようになったのは今から十数年前、当時東西対立の鉄のカーテンに固く閉ざされていたブルガリアの首都ソフィアへ行ったのがきっかけである。たまたま郊外の共同墓地を訪れたことがあり、墓地内のベンチにしばらく座っていると、亡き親への墓参帰りの兄妹らしい男性一人と女性二人が通りかかり、大の男のほうが大声を出して泣きくずれ、両脇の女性に抱きかかえられて立ち去る様子を見てショックを受けたからだ。
その後、たびたび社会主義圏内を旅する機会があり、各地の葬儀場や墓地でしばしば遺族たちが号泣している場面に出くわし、共産主義や唯物論を標榜する国でも、主義主張はさておいて、やはり血も涙もある人間らしく、最愛の者が亡くなると嘆き悲しみ、その遺骸を丁寧に葬るのか、と驚きを禁じえなかった。
しかし、よくよく考えてみると、それは当たり前のことではないか。
最愛の者に先立たれて、じっくり嘆き悲しむ機会も与えられず、葬儀社や組合などによって手順よく葬儀が営まれ、数日後には納骨・忌明けして、何事もなかったように元どおりの生活に戻る忙しい日本人の生活パターンでは、いくらお金をかけて豪華な葬儀が営まれたところで、はたして故人の霊が浮かばれるだろうか。
◎葬儀・告別式は故人のために行うものであります。
いくら豪華な葬儀をおこなっても意味がありません。
故人の回向供養を第一優先に考えるべきです。
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