浅野 内匠頭長矩 切腹し世を去った今日 | bluearrowのブログ

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320年前、沢山の書物や映画で紹介され歌舞伎、落語、講談など伝統芸能でも多く語り継がれて日本人なら知らない人はいない「事件」が江戸城 松の廊下で起きたのが今日314日。

これを発端に赤穂浪士 吉良邸討ち入りで完結する野郎どもの物語。

今回のブログは このプロローグである出来事を紹介します。

書物や映画から取った文章を載せてわかりやすくしたので凄く長いです。

時間ある時に、または分割して見てください。



元禄14(1701

五代将軍 徳川 綱吉の時代、勅使下向の大礼に際し皇后宮使接待役として伊達 佐京之助。

そして東山天皇の院司接待役に播州赤穂 浅野 内匠頭長矩。

この大役は将軍から命じられ大変に名誉な役ではあるが必要な資金は藩が負担するという慣わしで資力のある20ほどの藩が持ち回りのような形で勤め上げた

浅野 内匠頭が治める播州赤穂藩は二度目の大役と相なった。

この式典にあたり式事作法指南役として高家旗本 吉良 上野介。

幕府による賄賂の類い一切禁止の定めにより浅野家は吉良に対し挨拶程度の品物を贈ったが伊達家は山ほどの進物を届けた。

この差に吉良は立腹し以降、内匠頭に数々の嫌がらせを始める。


勅使を迎える前日、通常通り魚類でのもてなしを準備していた公家御馳走屋敷に突如、式事当日は宮家忌み日にあたる故殺生を避け精進料理をとの伝え。

予め準備をしてい浅野家料理人、この伝えは間違いではないか、吉良が嘘を言っているのではないか、と家臣は騒ぎとなる。

内匠頭は「仕方ない、料理は二種類備えればよい」と料理の内容を変え200膳を超える仕込みに追われる事となる。


式事の会場を視察する吉良。

入り口に掲げられた墨絵のつい立ては不心得だと指摘し内匠頭を罵る。

続いて料理視察の段になり伊達家は万端の用意であると褒める吉良だが浅野家の精進料理は晴れの日に不吉だと難癖をつける。

が次いで、備えた魚類の料理を出され納得するも「何ゆえ料理を二通り用意なされた」「生き金に死に金という言葉をご存知か、同じ使うならもっと働かせる道があろうもの」などと内匠頭の機転に負け惜しみとも取れる説教をする始末。


勅使御休息所の畳替えは例年一月にある故に不要との達しをしておきながら前夜になって伊達家側では畳替え完了の報が入り一晩で200畳もの交換に追われる羽目となる。

家臣 堀部 安兵衛が先頭に立ち江戸中の畳職人を束ねる親方に懇願し夜明けまでに成し遂げたエピソードは有名。



運命の日、元禄14314日。

内匠頭は周囲からの「お召し物が違うております」の指摘に愕然とする。

本来、烏帽子代紋の装束であるのに吉良は長裃だと指定した。

左が裃、右が烏帽子大紋長袴。

現代で言えばドレスコードをタキシードにブラックタイが決まりのパーティーにジャケットのみで出掛けたぐらい恥ずかしい。

吉良 上野介による今日までの度重なる嫌がらせを近くで見ていた家臣 片岡 源五右衛門は もしもに備え烏帽子大紋を持参していた。

内匠頭は勅使お出迎えができない最悪の事態を回避させた家臣の機転に感謝する。


烏帽子大紋に着替えた内匠頭は松の廊下で吉良を見かけ不安に思った作法について質問する。

「吉良殿、お教えを仰ぎまする。勅使ご到着の節にはお玄関のお箱段の上にてお迎えするか、お石段まで下がってお迎えするか」と膝まずきお伺いをたてる。

これに対して吉良は「この期に及んでお戯れを」と言って相手にせず更に詰め寄り回答を求める内匠頭に「間もなく勅使を迎える段になりフラフラと。まるでフナですな。フナ侍ですな」と周囲と共に笑い者にした上に頭を下げ続ける内匠頭を蹴り、手に持つ扇子で頬を一撃。

これまでの度重なる扱いの上に殿中の廊下、人前で笑い者にされては五万石を預かる殿様としてのプライドが許さなかった。

立ち去る吉良に小刀を抜いて「吉良 上野介待ちや、この間の遺恨覚えたるか」と襲いかかる。

振り返る吉良の眉間に斬りつけ倒れ込む背中目掛けて一撃。

ここで内匠頭は後方から羽交い締めに押さえられ止められる。この人、梶川  与惣兵衛。

誰でも知ってる有名なシーン。

「浅野殿、殿中でござる。刀をお納めくだされ」と。

内匠頭は「お放しくだされ、城も捨て家来も捨て覚悟の刃傷にござる、今一太刀  、武士の情けに今一太刀とどめを」と叫びながら吉良に追い縋るが結果、思いは叶わなかった。


周囲に取り押さえられる内匠頭の元に騒ぎを聞きつけた幕府目付役 多門 伝八郎(おかど でんぱちろう)が駆けつけ「おのおの方、お手を離されよ」と内匠頭に近付く。

「お上に対しては何の恨みもない、ただ上野介に対する遺恨やみがたく」と叫ぶ。

多門は「浅野様、既に事は終わってござる、あまり声高では いかがかと存ずる」と いさめ内匠頭から鞘を、梶川 与惣兵衛から刀を預かる。


多門 伝八郎と大久保 権右衛門により江戸城、蘇鉄の間に於いてのお取調べ。

多門 伝八郎、お役目によって言葉を改めます。その方儀、お場所柄もわきまえず上野介儀に刃傷に及んだは故意か乱心か。つつまず申し述べよ」と切り出す。

対して「けして乱心ではございませぬ」と答える内匠頭。

「いや、乱心とあらば公儀に於いて酌量の余地があるが どうだな。さだめて乱心であろう」 と水を向ける。

「お心づかい かたずけのうござります。が それがしも播州赤穂の城主。

乱心の上、殿中お場所柄も忘れ刃傷に及んだとらあればこの上もない笑い草。ひとえにわたくしの遺恨やみがたく上野介に刃傷致したに相違ございませぬ。よろしくご報通りのお裁きを願いたてまつる」

「では言い分は何もないと申されるか」

「さればただ一つお伺いしたき儀が」

「なんなりと」

「上野介はいかが相成りましたでしょうか、斬りつけましたる傷の具合は」

大久保は「傷は二箇所、眉間と背中でござったが、いづれもほんの浅手でござった」

「未熟、不鍛練、恥入ります」

「いや、浅手にはござれど吉良は高齢。事に眉間の急所にござれば出血甚だしく一命のほど おぼつかなしとの事でござる」。

多門は内匠頭の心情を思って言った。


多門と大久保は吉良にも事情を訊くが「礼をいうのならともかく逆恨みも甚だしい」と返答したとされる。 

双方の話を将軍御用人 柳沢を通して綱吉に伝える岡戸。

「内匠頭殿においてはやみ難き遺恨との事。その辺りの心底、全くお心あたりがないとは」。

報告を聞いた綱吉は激怒し「浅野長矩、なんの恨みがあって我が式典に泥を塗る、勅使渡りの廊下を血で汚す。

田舎大名が、思い知らせてくれようぞ」と言ったと伝えられる。


将軍御用人 柳沢は多門と大久保に綱吉からの裁きを伝える。

「上様より御意がくだされた。

内匠頭儀、殿中お場所柄をもわきまえず わたくしの恨みを以ての刃傷におよびし候段不届きにつき本日ただちに田村 右京大夫様にお預けの上、切腹申し付けよ、とのおうせである」

多門は聞く

「して上野介儀は」

「お場所柄をわきまえ手向かいを致さず神妙である。よってなんのお構えもなし。手傷療養致せ、との上意であった」。

多門は納得しない。

「恐れながら内匠頭は五万石の大名。

こんにちお預け即刻切腹とはあまりにもお手軽なおうせ渡しかと存じまする。殿中に於ける喧嘩両成敗は家康公以来のご上行。

しかるに上野介儀につきましてはまるでお褒めの言葉かと見紛ごうばかり。

敵に面体を傷つけられながら ただうろうろと逃げ惑い刀を抜き合わす事もなかった卑怯者を神妙であるとは笑止千万にござりまする。

わたくしの恨みを以ての刃傷とありますからはその恨み、よくよく究明の上、万人が納得のゆくご採決をくだしおかれますようお願い申し上げます」。

柳沢は

「そのような事を言ってももはや上様のご決着に相成ったり上にはご返来には相ならん」

「が、しかし」

「ひかえ 上意であるぞ」

というやり取りがあったとされる。

これで内匠頭への処遇は決まってしまうが切腹の場が設けられたのは田村 右京大夫下屋敷の庭先。

それを見た多門は憤る。

「内匠頭殿は一国一城のあるじ。盗賊盗っ人同然の庭先での切腹は武家の作法にもとりませぬか。手厚くても庭は庭、座敷に設けるべきではござらぬか。あれではあまりに内匠頭殿が哀れでござる」と詰め寄るが聞き入れらなかった。


常のお供回りが遺体引取りのために田村 右京大夫のお屋敷に向かう。

屋敷裏門に案内された一行の中から家臣 片岡 源五右衛門は いとまごえに一目内匠頭に逢いたいと願い出る。

田村家御用人は大久保 権右衛門に伝えるが「いや、何人なろうとも それはまかりならん」と突っぱねる。

「しかしながら たっての願いと申し出ておられまして。殿のお情けにすがりたいと」

「いや なんと申そうとご上法が」

といったやり取りを聞いていた多門 。

「かまわぬ、多門 伝八郎 承ってござる。

刀を持たず無頭、無言であればよろしかろう」と責任は自分が持つとの信念で片岡 源五右衛門を通す。

ここで多門が言った「刀を持たず」は武士の魂を置いて行けという意味の他に自分が仕えた殿に切腹という最期を遂げさせるより家臣に斬り殺された事実にすりかえようと内匠頭に斬りつける事件を起こさせないため。


田村家御用人は片岡 源五右衛門を庭に案内し

「ここでお待ちくだされ」と花びら散る桜の木の下を示す。

「間もなくこのお廊下を内匠頭様がお通りになられます。最期のお姿をご覧なされ。

ただしけしてお言葉を掛けてはなりませぬぞ。お許しをくださった 多門 伝八郎様の罪にもらなりますゆえ。けしてお言葉をな」

「承知つかまつってござりまする。

ありがとうございます。

お心づかいは生涯、生涯忘れませぬ」


内匠頭を従え廊下を先導する多門 伝八郎、内匠頭の後方には田村家御付人が続く。

先導の多門は桜の木の近くで立ち止まり

「ご覧なさい、春の名残の桜でござる」

内匠頭は桜を見るが その根本には片岡 源五右衛門が膝まずき黙って見上げていた。

内匠頭は

「田村家御付人にお願い申す。

国元の大石 内蔵助に我が形見として肉通しの小さ刀を。

そして最期の言葉として書状を願い申す。

兼ねて知らせおくところなれど、そのいとまなく、こんにちの成り行き さだめし不審に思うであろう。

ただ無念じゃと」。


浅野 内匠頭は切腹の場に赴き

「風誘ふ 花よりもなお我はまた

春の名残を いかにとかせん」

という辞世の句を残す。

その頃、浅野家 本所 下屋敷で妻 阿久理の長い髪は腰元 戸田局の手により切り落とされた。

内匠頭の生まれは16679月。

切腹し命を絶ったのが1701314日。

34歳の生涯だった。




これが320年前の出来事。

このプロローグ、映画など見る度に内匠頭の悔しさを思い涙が出て止まらない。

現代で言ったら事件当日に裁判から判決で当日結審し執行という考えられない速度で出た結果。

語り継がれて曲げられたところもありましょうが概ね事実であってフィクションではない。

五代将軍の綱吉は「生類憐れみの令」を発布して動物保護に尽力したが人に対してどうだったのか?と考えさせるものが。 

また吉良 上野介は良い人だった、浅野 内匠頭が短気なだけ、との説もあるが研究者の論文などを読むかぎり吉良 上野介の人柄に問題があったとしか思えない。


これから討ち入りの日までの事を時々書いていきます。

どうぞお付き合いください。