「気疲れ」なんて事を言う人も増えた。
自分なりの解釈なのだけれど
「気使い」と似た言葉で「気配り」って言葉があるが一見似たことのように感じるこの言葉も実際は中身は全然違うと私は思っている。
私からすれば…。
「気使い」は他人基準
「気配り」は自分基準
だと思う。
「気使い」は常に相手にどう思われるか気にして行動している。
どうしたら相手に嫌われないだろうか。
どうやったら相手が喜ぶだろうか。
どうしたら周りは認めてくれるだろうか。
他人から見て自分はどう映るのかを気にしているのが根底にある。
『気』を『使う』なのだから自分の心のエネルギーをドンドン削り使っていく。
そしていつかは心のエネルギーは足りなくなりバランスを崩す。
一方で
「気配り」は
あ、あの人にこのお菓子分けてあげよう。
あ、あの人困ってる助けなきゃ。
このままじゃ後々(自分含め)皆が困るから今のうちにやっておこう。
他人の評価を気にせず自分が行動の中心になる。
書いて字のごとく
『気』を周りに『配る』のだ。
しかしここで気をつけなければならないのは
自分の心がエネルギーで満たされていなければ
周りに『配る』余裕が出来ないということだ。
自分の心がエネルギーで満たされ
そこから有り余るエネルギーがあって初めて周りに『配る』ことが出来るとのだと思う。
だから『気配りができる人』と言われる人達は何処となく心に余裕があるように見えるのだ。
周りに認めてもらいだいか故に『気』を『使い』
誰にでも良い顔をするよりも
誰に褒められることも期待せず『気』を『配り』
優しさを周りにあたえる人になる方がよっぽど素晴らしいと私は思う。
ここまで難しく書いてきたが
『気配り』はそんなに難しいことでは無い。
例えば…
朝の通勤ために電車に乗っていたとしよう。
その電車が終点に着き降りようとした時、椅子に座ったまま寝てしまい終点に着いたことに気づかない人がいた。
アナタはその人の肩を叩き「終点にに来ましたよ」と声をかけその人を起こしてあげたとする。
この声を、かけた行為には相手に褒められたいとかそう言った他人軸の考えは一切無いはずだ。
本当にこんな些細な行動なのです。
と、言っても大概の周りの人はそんなことをすることも無く無視して我先にと電車を降りてししまうんですが…。
でも、だからこそそんな些細な違いが蓋を開けて深く考えると人としての大きな違いになってくるのです。
大きな事をしなくてもいいんです。
ほんの小さな事が大きな違いを産むんです。
だからこそ今のこの時代に
「気使い」ばかりする人じゃなく
「気配り」が出来る人になりたいものです。
