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NHK-Eの「100分de名著」シリーズは、#38「菜根譚」(さいこんたん)以来だ。


【私の関連ブログ】

■ NHK-E「100分de名著」#38「菜根譚」あらすじ(2014/11/06)

■ 中国古代の「諸子百家」思想をスタディしました。(2014/12/23)
[道家](どうか)
★ 老子(ろうし)
春秋・東周
無為の治、反権力主義・小国寡民、自給自足
→ 日本への影響・・・黒田官兵衛「上善如水」
★ 荘子(そうじ)
戦国・宋
無為自然、価値/ 尺度の相対性、胡蝶の夢
→ 日本への影響・・・松尾芭蕉「散人」





NHK-E 「100分de名著」#43「荘子」(そうじ)


毎週水曜日 22:00~22:25 
[再放送] 翌水曜日 6:00~6:25、12:00~12:25


【NHKテレビテキスト】

「100分 de 名著」「荘子」4/25(土)発売。




【スタッフ】

テーマ音楽: 椎名邦仁
アニメ制作: アダチマサヒコ
CG制作: 牧野惇
資料提供: 東城書店

ディレクター: 平田潤子
プロデューサー: 横山敏子
制作: NHKエデュケーション、制作協力: テレコムスタッフ


【挿入劇】

出演: 古舘寛治、安藤輪子、仲井陽(声)
語り: 細谷みこ



【司会】

伊集院光
武内陶子

 
【ゲスト講師・語り手】 

玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)
 
・・・臨済宗妙心寺派慧雲山福聚寺(ふくじゅうじ): 住職・小説家(2001年「中陰の花」で第125回芥川賞を受賞)。

福聚寺(福島県田村郡三春町字御免町194)。

1956/4/28福聚寺住職の長男として生まれる。カトリック系の三春幼稚園。地元の公立小中学校。
福島県立安積高校、この間にモルモン教・統一教会・天理教などに触れ、高校時代は毎年のように家出、高3時に出逢った哲学者・星清から出家への動機付けを得た。
18歳で上京し予備校。慶應大学文学部中国文学科現代演劇を専攻、在学中にイスラム教・ものみの塔に触れ、山梨県向嶽寺などで坐禅を組み、この頃に小説も書き始め同人誌「いんぐ」に参加。台湾・輔仁大学華語研究所に私費留学。
埼玉県川口市のゴミ焼却場に勤めながら小説を書く。ナイトクラブのマネージャー、英語教材のセールスマンなどの職を転々とする。
1983年(27歳)冬に京都のヨガ道場、3月に天龍寺専門道場に入門、3年弱で退山。神戸・山梨などを行脚してから帰郷。
1988年、実家の福聚寺副住職、妙心寺派教化委員。1991年、結婚。
2000年、デビュー作「水の舳先」で芥川賞候補作。2001年、「中陰の花」で第125回芥川賞を受賞。2007年、柳澤桂子との往復書簡「般若心経 いのちの対話」で文藝春秋読者賞を受賞。
2008年、福聚寺住職(35代)。
2009年、花園大学客員教授。2011年、東日本大震災復興構想会議委員。
『アブラクサスの祭』が映画化・2010年に公開。2011年に公開された映画『無常素描』に出演。
2014年、『光の山』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。



関連著書
「荘子と遊ぶ」




【番組あらすじ】


5月放送の「100分de名著」では、肩の力を抜き、自然体で生きる術を語った名著を取り上げる。

完全な受け身――それこそが自由なのだ。
今から約2,300年前の中国戦国時代・・・日本は弥生時代・・・に成立したとされる思想書『荘子』。鉄器が発明され農機具が進歩し貧富の差が出て競争社会になって格差が広がって行った。その中でいかに"個人"が幸せに生きるのか?を語る。
この時代に個人の幸せを模索するのは相当に非常識と言える。

一切を無いがままに受け入れるところに真の自由が成立すると説く。
あらゆるものに縛られて生きる現代人に訴え掛ける。人間の心はいかにして、その存在から自由になれるのか? と。

後の「禅」の成立に大きな役割を果たす。
また、思想書でありながら"物語"としての面白さを持つ。
日本では西行法師・松尾芭蕉・夏目漱石など多くの人々に影響を与え続けている。


*


僧侶にして芥川賞作家である玄侑宗久が、『荘子』の魅力を存分に語る。
これを読んじゃうと他に戻れない面白さ、本当は内緒にしときたかった(笑)。
玄侑さんの愛読書の一つ、森三樹三郎・訳「荘子Ⅰ/ Ⅱ」。
ランダムに開いて数行読んだだけで、気持ちが解放される。
諸子百家と言われる人たちの教えは大体、国の在り方を述べたものが多いが、荘子はこの時代にあって"個人の生き方"に焦点を当てている。従って現代にも十分に通じる。



制度を整え競争を煽(あお)り管理や罰則を強めれば、社会はうまく行くという考えが主流を占める現代。


その考え方に巨大な「否」を突きつける本がある。
「荘子」
今から2,300年前の中国戦国時代中期に成立したとされる古典。
「荘子」を書いたのは荘周。「老子」とともに諸子百家の中の『道家』(どうか)の教えの一つ。
内篇・外篇・雑篇の3つに分かれ、現代に残るのは33篇、荘子自身の文章の他に弟子たちが後に書き継いだものも含む。
老子は論文だが、荘子は小説的な物語・・・小説という言葉は荘子が発祥。
論理は記憶されにくい、記憶に鮮烈に残るのは描写。描写に満ちた本が荘子。


荘子の物語の3つの特徴
寓言(ぐうげん)・・・他事にこと寄せて(一見関係ないような話を引用して)語られた物語、
重言(じゅうげん)・・・古人の言葉を借りて重みを付けた物語、
巵言(しげん)・・・相手の出方次第で臨機応変に対応して行く物語。


「言は風波なり」(当てにならない)、「言は常なし」(状況によって変わる)、あの時こう言ったでしょ!!は空しい。
言葉は常に主観が語られるので言語の限界を痛感していた。


なぜ、そのような考えに至ったのか?
戦国時代の小国(落人の集落)・宋の民は差別を受けていた。
荘周は、その宋の国で漆園を管理する役人だったが、やがて貧しくも自由な隠遁(いんとん)生活に入った人物。
卓越した才能と徳の高さを買われ宰相になるよう口説かれるが、世に出ることを良しとせず、在野の自由人として生涯を終えた。
「泥の中でも自由に生き長らえる亀でいたい」。


その背景には「万物斉同」という根本思想がある。
姿かたちは様々でも、万物は全て「道(タオ)」と呼ばれる根本原理が変化したものであり、元より一体であるという思想。
広大無辺な「道」からみれば、物事との是非・善悪・美醜・好悪などには本質的な違いなど無い。
それなのに、世間の人々は自分の価値観を絶対視し、愚かな争いを止めようとしない。


荘周は、そうした愚かさから身を引き離して、全てのものをあるがままに受け容れ、「道」と一体化する自在な境地の素晴らしさを説き続けた。

社会が複雑化し息苦しさを増し続ける現代。
「荘子」を読み解くことで、様々な柵(しがらみ)から抜け出し自由になるヒント、
あるがままを受け容れ伸びやかに生を謳歌する方法
---を学ぼう。







第1回 「人為は空しい」

5/6(水)22:00~22:25
[再放送]5/13(水)6:00~6:25、12:00~12:25

「渾沌(こんとん)王の話」
渾沌とは、何が生まれて来るか分からないけれど活発に渦巻いている状態、秩序側から見る無秩序のことを指しているではない。
その渾沌に秩序を無理矢理与えようとする、人間の小賢しい知識が生き生きとした豊かな生命を奪ってしまう渾沌の死。無いがままでいい。
動物にまで人間の躾けを無理強いしようとしている。


「はねつるべの話」
機械(からくり)を用いる者は、必ず機事(からくりごと)をするようになり、機事をする者は、必ず機心(からくりごころ)を巡らすようになり、やがては心が乱れて道を踏み外す。
機械の便利さに感(かま)けると純真な心を失ってしまう。
効率をやたら目指すということは競い合っているということ。効率⇒競争⇒機心(策略)⇒もっともっとと果てしない欲望(精神不安)、自分に合ったスピードではなくなってしまう。
なぜそんなに速くやりたいのか? 時間を作るためだと言うが、どんどん短気者になっていないか? 待てなくなっている、手紙⇒FAX⇒メール、返事が遅いとイラつく。


「哀駘它(あいたいだ)の話」
顔が醜いのに不思議な魅力がある男。醜いのを変えようとするのでなく天命として自分を肯定し受け入れる。何も主張しないという物凄い個性。
自分の考えを主張することがなく相手に同調するばかりの愚鈍な「和して唱えず」。
接した人が皆、春のような気分になる「物と春を為す」。対話するのは、正しいか否か判断してほしい訳でなく最終的には気持ちを分かってほしいのだ。


「無いがままに」であって、現状を肯定する「有るがままに」ではない。
何かを感じる感覚も既に"私"に染まっている、"他"は別の感覚を持っている、相対的な価値に過ぎない。
自然が最高の価値なのであって、そこに人為を加えることによって生命を失う。
「荘子」は至る所で、本来の自然を歪めてしまう「人為」の落とし穴を指摘する。

その背景には、「荘子」の「無為自然」の思想がある。
人為を離れ、自然の根源的な摂理に沿った生き方こそ、人間の最高の境地だ。
自分のサイズ、自分のスピード、身の丈に合った生き方。

第1回では、「荘子」の全体像を紹介しつつ、人間の小賢しい「人為」の空しさと、人為の働かない「無為自然」の素晴らしさを伝える。





第2回 「受け身こそ最強の主体性」

5/13(水)22:00~22:25
[再放送]5/20(水)6:00~6:25、12:00~12:25


周囲に振り回されるマイナスなイメージがつきまとう「受け身」。
だが「荘子」では、「片肘が鶏に変化してもその姿を明るく受け止めようとする男」「妻の死を飄々(ひょうひょう)と受け止める荘周」といったエピソードを通して、「受け身」にこそ最強の主体性が宿ると説く。

玄侑宗久さんは、こうした境地が「禅の修行」と共通性していると言う。
「荘子」では、主観や知の働きから離れて、大いなる自然を受け容れ合一する「坐忘」という方法を説く。
これは、坐禅により宇宙大に広がった「我」と「自然」が和した状態と共通するあり方、究極の「受け身」だ。


第2回は、「荘子」が説く「全てを受け容れた時、人は最も強くなれる」という、「受け身」の極意を禅と比較しながら明らかにする。


*


荘子は逸早く、「個人の幸せ」について考えた。
中でも最大のテーマは、人はどうすれば「主体的」でいられるか?

荘子は、全てを受け容れると人は最も強く成れると説いた。
この思想は、仏教の禅の教えに強い影響を及ぼした。


*


蛇のように、いかに外側のデコボコに合わせられるか?
地に足の着いた生き方の美学。それは禅にも生きている。

荘子の教えと仏教の関係---

荘子が生きた混乱の戦国/宋時代から約300年後、国としてまとまった漢の時代に、インドから仏教が伝わった。
国政において儒教優位の世の中では当初、個人の生き方を説いた仏教は浸透しなかった。
しかしやがて、政治の世界で出世できず敗北した者たちが、心の拠り所として文学・哲学・宗教を求めるようになり、老荘思想が広がったところに仏教が入り込んで、両者は爆発的に広がって行った。
この時、インドの仏典を翻訳するに際して、老子や荘子から多くの言葉・・・e.g. 衆生(しゅじょう、生きとし生けるもの)、解脱(げだつ、悩みや迷いなどから解き放たれ自由の境地を悟る)・・・が用いられたことにより、国家が仏教や荘子を重んじるようになると、次第に神格化されて行った。

主人公(主役)の原義は、どんな役であろうと成り切れる人 (自分を無くしてそこに没頭できる人) 、無我(小我を捨てること)によって結果として主体的に成れる(大きな我に溶け込む)人格。役者本来の姿。
元々のルーツは、乱世では人間一人の存在がちっぽけ → それは天命だったと思えば誰かを恨まずに居られる(恨む状態は不自由) → 自由になりたいから究極の受け身として "已むを得ず"の思想へ。

現代でも就活がうまく行かない、計画と目標がうまく表現できないのをどうしたらいいか?
計画とか目標とか孔子のように厄介な点。


☆ 「感じて而(しか)る後に応じ、迫られて而る後に動き、已むを得ずして而る後に起ち、知と故とを去りて天の理に循(したが)う」(刻意篇)
・・・迫られてそうするしかなかったので立ったのだが、小賢(こざか)しい知恵や意志を捨てて天道・自然の理(ことわり)に従った方がいい。計画や目標が大事に思われ過ぎているが、予想外のことが起こらなければ充実感が無いし自分の人格が広がらない。

自分の意志で動いたり変化したりするのではなく、周りに迫られて已むなく行動するのが最良の道。究極の受け身。
無理して就職内定を取ろうとすれば命が縮まるだけ。

僧侶は(今月は葬式何件やろうなどというような)計画を立てない、已むを得ず対応している、それが最高の行動原理。
計画や目標が何か良いものに見える、予断(予め判断してしまうこと)だ。なるべく天気予報は見ない、外れるとムッとし余計な気分になる。

日本語の"幸せ"という言葉は、奈良時代には"為合"だった。天がそのように為さるのでそれに合わせるしかない、運命。→ 室町時代には"仕合"に変化した。人がそのように為さるのでこう応じた、受け身。

自動車のナビゲーターを使い始めると目的地まで途中から止まらなくなってしまうが、途中の出合いが損なわれる、道に迷って已むを得ず入った場所で運命の経験ができるかも。


*


或る時、本体の影に向かって薄影(影の影)が、(お前には主体性がないと) 問いかけた。
薄影 「さっきは歩いていたのにもう立ち止まっている、座ったと思ったらもう立っている、何とも節操がないのではないか?」。
影 「私は別に自分の考えでそうしているのではなく、本体の動きのままにしているだけ、それに私が従っている本体だってどうも何かに従って動いているらしいし」。
薄影 「お前の生き方って蛇の蛻(もぬけ)の殻みたいなもの」。
影 「だったとしてもそうじゃなかったとしても理由なんか分からないね」。

脳科学では、「状況に関係のない自由意志というのは、人間にあるのだろうか?」 というテーマで研究した。結論を「それはない」などとしているけれど、
荘子では、「状況に任せ切れることの強さ」のことを主体性と言っている。

荘子は、妻の死という最も悲しい出来事に遭遇した時でも、天命として受け容れるとした。
歌を謳い鼓を叩いている荘子。悲しいに違いないが、命というものの始まりを考えてみれば、元々、朧(おぼろ)で捉えどころのないもの。変化して生となりまた変化して死へと帰って行く、日の巡りと同じ、それが命の道理なのだから泣くのを止めた。

「就職浪人・万年フリーター・貧困女子となって孤独死することになるかもしれないけど、頑張るしかないわね]「あんまり過去・未来のことをかんがえるな」「今のことだけ考えて生きられるの?」


荘子流の未来への態度 = 究極の主体性

☆ 「不測に立ちて無有(むう)に遊ぶ」(応帝王篇)
・・・生も死も無限の変化の一部に過ぎない、悲しみ過ぎても何も生まれない、四季の巡りのように受け容れて季節に合った暮らしをしなければならない。
先のことを予測せず、未来のことが分からない状態で、遊々と生きる。
どんなことが起きても、落ち込んで病んだりクレーマーに明け暮れたりするよりも、運命だと受け容れて、今に没頭して楽しむように生きた方が賢明なのではないか。
ビジョンという勝手なものを描かないで、先のことが分からないまま進んで行くことこそ、勇気の要ることだ。
未来を憂(うれ)えない、予測しない、計画しない。

それでは何に頼ればいいのか? 「気」だ。
気持ちの気、直感的な気---それが薄れ過ぎていないか!?
右折すると何かが起こるのでは? というような胸騒ぎ・予感も何も感じなくなってしまっている。グルメのネットでチェックしたら★が少なかったからと、食べもしないで食べた風に終わらせてしまっているではないか!? もしかして美味しいかもしれない。





第3回 「自在の境地『遊』」
第4回 「万物はみなひとしい」

⇒ 私のブログ 「荘子」#3#4あらすじ