NHK-E 「100分de名著」#43「荘子」(そうじ)


毎週水曜日 22:00~22:25 
[再放送] 翌水曜日 6:00~6:25、12:00~12:25


【スタッフ】

テーマ音楽: 椎名邦仁
アニメ制作: アダチマサヒコ
CG制作: 牧野惇
資料提供: 糸魚川歴史民俗資料館、天理大学付属天理図書館、カルチュア・パブリッシャーズ、MOA美術館

ディレクター: 平田潤子
プロデューサー: 横山敏子
制作: NHKエデュケーション、制作協力: テレコムスタッフ


【挿入劇】

出演: 古舘寛治、安藤輪子、チョウ・ヨンホ(声)
語り: 細谷みこ



【司会】

伊集院光
武内陶子

 
【ゲスト講師・語り手】 

玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)
 




第1回 「人為は空しい」
第2回 「受け身こそ最強の主体性」

⇒ 私のブログ 「荘子」#1#2あらすじ
 




第3回 「自在の境地『遊』」

5/20(水)22:00~22:25
[再放送]5/27(水)6:00~6:25、12:00~12:25

 
争いや不安に満ちた世で人はどのように生きるべきか?
「荘子」で説かれた教えは、一言で言えば「遊」。
時間や空間に縛られず何事にも囚われない、自在の境地。自在に躍動する生き方の極意。
それは松尾芭蕉・西行法師・良寛和尚などの日本の文人たちに影響を与えた。
第3回は、「遊」の境地について読み解く。


天理に従う無意識の境地の素晴らしさを伝える「牛肉解体の達人の逸話」。
常識では全く無用の存在に、豊かな意味を与える「無用の用」のエピソード。
それらは、世間的な価値では計れない「遊」の境地を教える。
一見役立たずの大木も、舟遊びや昼寝といった「遊」の立場に立てば、一気に「大用」に転換する。
それは「人の役に立つことで却(かえ)って自分の身を苦しめる」状況からの解放だ。
第3回は、「用」から「遊」への価値転換を説く「荘子」から、何物にもとらわれない自在の境地の素晴らしさ、伸びやかに生を謳歌する極意を読み解く。


*


伊集院は考えてみた。
タモリさんは主体的な司会者ではない。偶々行った所に偶々面白いものが在ったということを、「面白いね」と言う。でもあんな多才な人はいない。しかしタモリさんになるのは難しい。


玄侑さんが登場。


「遊」という字は、漢文学者の白川静先生によれば、
神と人が一体になった境地。
人間的な思惑とか分別を超えた世界。
例えば、砂場で子供が遊んでいる。それは何のためにしているのか? と訊かれても困る。代わろうか? と考えても意味がない。


*


■ 「料理人・包丁(ほうてい)の話」


牛肉解体の達人の包丁という男が居た。
或る日、王の前で牛を解体した。牛に刃を入れると肉は骨からスーッと剥がれて落ちて行く。その牛刀捌(さば)きはリズムに乗って音楽的とも言える程、見事なものだ。
王「見事だ。ここまで深く技を極めるとは」
包丁は、自分の求めているのは技ではなくて道なのだと語った。
「最初、牛の解体を始めた頃、目に映るのは牛ばかりだった。しかし3年も経つと、もう牛の存在は目に入らず、近頃では、心の目で牛を見るようになった。自然の摂理に従うと、牛刀は大きな隙間に入り牛の身体の筋目に沿って走る。だから骨にぶつかることもない」。
王「素晴らしい。お主の話を聞いて、人生を全うする術(すべ)を学んだ」と。
包丁は、欲望や雑念がなく、飽くまで自然体で牛と一体になって執刀していた。


人生も同じで、利せず虚心になって行く生き方こそ、人生の達人なのだ。
あーしてやろうとかこーしてやろうとか目的意識を考えてばかりいないで、
虚心になって行っていることに向き合い相手に向き合うと、やるべきことは自ずから決まって来る。無意識になっている。

無意識になるにはどうしたらいいか?
無意識とは私が無くなること。
現実的な解決方法は、反復練習しかない。すると身に付くから意識を忘れていい。

お前の話には遊びが無い。アドリブをしろという意味ではなく、次はあれしようこれしようという段階は詰まらない。完全に自分のものにし自然に出て来る段階になること。
無意識であることが「遊」に繋(つな)がる。
無意識でやっている方が、例えば、お袋の味のように、今日は湿気が多いと感じて塩味を変えている。マニアルには書き切れないノウハウ。
無意識の方が実は、よーく知っている。意識的だとどうしても臭みが残る。青臭く、茶人臭い学者臭いなど。本当の学者になると学者臭く無くなって来る。
よく濯(すす)ぎができた状態。洗っただけでは石鹸臭い。


*


■ 「役立たずで生きる」
(人間世篇)


就活に悩む隣人。「私ってアピールポイントがない。きっと社会から役立たずの人材なのよ」。


大工の棟梁(とうりょう)・匠石は、或る土地でクヌギ(檪・椚)の新木を見掛けた。それはそれは大きな木で高さは山を上る程。匠石がそのまま通り過ぎようとすると、弟子が「親方、私は未だかつてこのように見事な木を見たことがありません。親方は何故、目もくれないで通り過ぎてしまうのですか?」「これは役立たずの木。舟を造れば沈むし棺桶を作れば直ぐ腐る。道具なら壊れ門なら脂(ヤニ)が溢れ柱にしても虫が湧く。とても材料にはできない使い物にならない只の大木だ」。
しかしその後、匠石の夢の中にクヌギの木が現れ、「お前は一体、私を何と比べているのだ? まさか人間に役立つ木と比べている訳ではあるまいな!? 梨や柚子(ユズ)の木を見てみるがいい。実が熟せば捥(も)ぎ取られ枝は折られてしまう。私ももし役に立つ木だったらとっくに斬り倒されていただろうよ」。

なまじ、人や世の中の役に立とうと思って返って自分を苦しめることもある。それだったら役立たずのままでいたらいい。
役立たずで生きることは凄く勇気が要ること。そんなことできるのかな??

落ち込んでいる時には元気が出そうな考え。劣等感に苛(さいな)まれ自分には器用な生き方ができないなあと悩んでいるならば、有難い教え。


世間的に役に立つかどうかという物差し(価値観)だけじゃない。
荘子が考えるように、命を大事にして行くようにすると世間的には役立たずに見えるかもしれない。
戦国時代には、屈強な体力を持った人間が戦争の前線に駆り出されて戦死して行く。

老子曰く「曲なれば則(すなわ)ち全(まった)し」・・・曲がっていた方がいい。そのお陰で命が長らえてこんなに巨木に成れたんだ。世間的に言えば、曲者(くせもの)に成れ。
何かと何かを比べてしまいがち。
禅では、「柳は緑、花は紅」という句がある。柳は葉っぱが美しく桃の花は可憐で美しい。これを比較する物差しは無し別の物差しで見ること。つまり比較できないままでいいではないか。二つの異質の物を安易に比較していないか? 

比較はお金に換算される。
東日本大震災が勃発して間もない頃に、直ちに損害額試算が出た時には、本当にビックリし怒りを覚えた。死者一人を幾らで計算したのか ! 
私見 <そして、放射能を洩らしていて安直にどうして計算できるのか!!> <復興が緒につくかどうかの段階で、どうして嘘まで吐いて、しかも新しいオリンピック投資の方に腐心できようか!!> 


「人は皆 有用の用を知るも 『無用の用』を知ることなきなり」(人間世篇)
役に立つということは知っている。だが、何を用とするか? 自分が生きることにとってどうなの?という観点。
大震災の例で言うと、動産不動産の価値が先ずありき。失ったものの中に金銭に贖(あがな)えないものが一杯あるではないか。
禅の世界の例でも、座禅はGDPゼロだし食べることは食べているし、何の役にも立っていないとの世間的価値がある。座禅は世間的には無用と見られがちでも、個人一人一人の命にとって大事(有用)ではないかと考えている。


*


■ 「『もちまえ』とは何か」


「今度の面接がダメなら田舎に帰る覚悟です。最後に何かアドバイスを」「自分のもちまえを受け容れたら自在に成れる」。


或る日、孔子は、魚やスッポンでも泳げない程の激しい水流の滝壺で泳いでいる男を見つけた。慌(あわ)てて弟子たちが助けようとしたら、男はスイスイと泳いで上がって来ると鼻歌を歌っている。驚いた孔子が「こんな激しい水流を御(ぎょ)する=操るには、何か秘訣でもあるのか?」「秘訣なんぞありません。私は只、渦巻いたらその水と共に沈み水と共に浮かび上がり、水自身の法則に従って私自身を挟(はさ)まない、それが秘訣と言えば秘訣ですかね。『故に始まり 性に長じ 命に成る』ということです」。

その男には自分なりの生き方があり、自然の流れに逆らわない。そこではじめて持ち前が発揮される。
「故に始まり 性に長じ 命に成る」
故・・・生まれつきの下地。何処に生まれて幼い頃を過ごしたか。
性・・・無意識の領域 = 持ち前。慣れ親しんで習慣化して来ると無意識でするようになっている。
命・・・全体からの逆らえない流れ。


猫に例えるなら、顔を洗い脚を上げて全身を嘗(な)めるは先天的な「故」、ネズミの捕り方は親猫に習わないとできないが段々に無意識に捕るようになるから後天的な「性」。

人間の場合は、「性」の領域が非常に多く習慣によって持ち前になっており、生きるのが大変。
しかし、自分の持ち前って何? と考えることが少ない。寧(むし)ろ、会社から求められていること(目標達成)や家族のために稼がねばならないこと(収入)を優先して生きている。
だが、時には自分の持ち前とは何か? を考え、修整することはできる。

今、個性ということが求められがちだが、あっちの方が厄介だ。スパイラルに陥(おちい)る危険性がある。
一方、こっちの持ち前の方は、習慣によって無意識化したものを含み、新たに習慣化したものも持ち前に加えてもいい。気が付かないうちにして来たこと染み付いていること、今後はこうしようと考えたものでも継続できればそれも持ち前になる。
他人から見れば特殊・特異であっても、自分にとっては無意識なフツー。
他人に代わってもらえないことは全て「遊」。そうやって楽しんで行く。
そもそも好きなことだったのに、今、何でそれに苦しんでいるの?


私が生きることを誰かに代わってもらう訳には行かない。
だから、生きることを「遊」にしたい。



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第4回 「万物はみなひとしい」

5/27(水)22:00~22:25
[再放送]6/3(水)6:00~6:25、12:00~12:25


私たちは時に、未来への不安に押し潰されそうになる。
しかし、荘子は、先のことに思い悩まず、常に変化し続ける状況に身を任せようと説いた。
そこに在るのは、「万物は皆、斉(ひと)しい」という、途轍(とてつ)もなく大きな思想である。

最終回は、荘子の教えの根源に迫る。

「道」(tao)とは、老荘思想における「物事の真理」。
老子では、「道」とは、「無為自然」。

荘子では、「道」とは、「万物斉同」。
自らは安らかで居ながら、触れ合うことで活発にする在り方、
即ち、「混沌」(こんとん)。
水が激しく渦巻いているような状態があり、そこから様々なことが生まれて来る。
生まれて来た万物の元を辿(たど)れば、混沌に行き着く。
この段階で見れば、万物は斉同ではないか。


*


■ 「道」はどこにあるのか。


学者の東郭子(とうかくし)は荘子に尋ねた。「いわゆる「道」とはどこにあるのか?」
「どこにでもある」「具体的には?」「じゃあ、オケラやアリかな」「下等な物だな」「いぬ稗(びえ)にもある」「もっと下等だ」「瓦や
甓(しきがわら)、屎尿(しにょう)にだってあるぞ
「道は物がある限りどこにだってあるのだ。それを限定してはいけない」。

人を食ったような答えだが、
何にでも宿る"道"だから、道から外れた物はない。

人は上下で物を考えているから、これは立派、あれは賤(いや)しいと差別する。
荘子は、物の上下を悉(ことごと)く否定している。

私も伊集院さんもそして武内さんも、現在、身体の中に屎尿や唾液(だえき)を持っており、持っているうちは汚(きたな)くない。ところが身体から排泄(はいせつ)してしまうと、屎尿も唾(つば)も汚い物となる。私という媒体を通さなければ皆、斉しい。

古代中国では、世界のエネルギーが最も荒々しい(混沌とした)状態を、「精」と言う。
それがもう少し純化され、細分化された状態を、「氣」と言う。
「氣」は、私の目・耳・鼻・口という感覚器を通して、「心」(喜怒哀楽)や「物」(消化・副産物)となる。
感覚器は既に私に染まって(制約を受けて)おり、勝手な物。
しかし、感覚器を通さなければ、万物の「精」は「斉同」になる。

例えば、一杯のカレーライスを誰かが作った。それが好感を持っている人だったら美味しく感じる。
美味しいとか奇麗だとかは、好き嫌いに左右され、積み重ねて来た価値観にも左右される。
変なフィルターに掛けられている。
私という物は実に信用できない。私の中に発生している心も物も信用できない。

そのような私を無くすため、座禅・読経・瞑想したり行をしたりすることによって、「神」(こころ)となる。
「精」 ⇒ 「氣」 ⇒ 「神」 へとエネルギーを純化し、エッセンシャルな存在となる。


*


■ 「胡蝶(こちょう)の夢」


「昔者(むかし)、荘周、夢に胡蝶と為(な)る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。自ら喩(たのし)みて志(こころ)に適(かな)うかな。周なるを知らざるなり。俄然(がぜん)として覚むれば、則(すなわ)ち、蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るかを。周と胡蝶とは、則ち、必ず分あらん。此れをこれ物化(ぶっか、もののか)と謂(い)う」。

訳 「或る時
、私=荘周は夢の中で一匹の胡蝶になっていた。ひらひらと空を舞う。心行くばかりに空に遊んで、自分が荘周であることを最早、忘れ果てていた。ところが、ふと目が覚めてみれば、紛れもなく私自身、荘周以外の何物でもない。一体、荘周が夢で胡蝶になっていたのか、それとも胡蝶が夢を見て荘周になっていたのであろうか。世の常識では両者は明らかに別の物。だがそれは万物の変化の有りすまではないのか」。

夢から覚めた現実が、もしかしたら蝶が見ている夢ではないか? 
今、現実と思っていることも、全く様子が変わると夢のようだったと思うことがある。
そういう目覚めを、人は経験し続けるのではないか? 人生は、覚めた夢を見ているだけだ。
新しいことに気付くと、それまでの気付かなかった時のことは夢のようだ。

「物化」=物の変化、物が変化し続けて行く状態。
それによって、現在の状態が夢だったと思う時期が必ず到来する。今、苦しい状態であっても、いつかはそんなこともあったなあという時期が来る。喜怒哀楽に翻弄(ほんろう)されている人々に捧げる。状況が変われば、現在の出来事の意味も変わるよとアドバイス。

そう思えない人が、自分は生きてても一生、いいことはないと思い込んで自死したりする。


*


■ 「大夢」(だいむ) = 人生


禅の世界では、人が死ぬことを「大夢にわかに遷(うつ)る」と言う。
生は夢、死は夢から覚めた瞬間、死後に目覚めがあった筈だ。

全てが連続の変化に過ぎない。隔てが無い = 「万物斉同」。

我々は、できた! やった! と隔てることに生き甲斐を持つけれど、そんな喜びは刹那(せつな)の出来事、直ぐに変わって行くから、糠(ぬか)喜びしなさんな。
逆の場合も、できない! だめだ! と隔てて悲観することなかれ、必ず好転するから待ちなさい。


*


■ 「万物はみな斉しい」


「荘子」冒頭の話

「北冥(ほくめい)に魚あり、其の名を鯤(こん)と為す。鯤の大いさ其の幾千里なるかを知らず。化して鳥と為るや、其の名を鵬(ほう)と為す。鵬の背(そびら)、其の幾千里なるかを知らず。怒(ど)して飛べば其の翼は垂天(すいてん)の雲の若(ごと)し。是の鳥や、海の運(うご)くとき則ち将(まさ)に南冥(なんめい)に徙(うつ)らんとす。南冥とは天池(てんち)なり」。 

「北の果ての海に魚がいて、その名を鯤という。その大きさは、一体、何千里あるのか見当もつかない。この巨大な魚が姿を変えて鳥となる。その名を鵬という。その翼の広さは幾千里あるのか見当もつかない。この鵬という巨大な鳥が、ひとたび満身の力を奮って大空に飛び立てば、その翼の大きさはまるで青空をおおう雲のようだ。この鳥は、季節風が吹き海が荒れ狂う時季になると、その大風に乗って飛び上がり、南の果ての海、即ち天へと飛翔するのである」。 


この冒頭の話から、いきなり入ると理解しにくいと思い、玄侑宗久氏は、最後へ持って来た。
鯤(こん)は魚の卵のことなので小さい筈なのだが、ところがそれが大きくなって、しかも魚が鳥になって飛び立ったならば、大きさも高さも尋常ではないスケール。我々の常識を笑い飛ばすが如く、凄まじく変化して行く。
どんな風に変化しても可笑しくないんだよと、いきなり最初にかます。

万物を生み出し、その働きを支配する「道」を根本原理ととらえた「荘子」。
「道」からみれば万物は一体であり、人間世界の価値は全て相対的で優劣などない。
「万物斉同」思想は、世俗的な価値に囚(捕、とら)われ、つまらないこと、ちいさいことで争いを続ける人間の愚かさを笑い飛ばす。


玄侑氏は、荘子の思想を、「道枢」(どうすう)という熟語に置き換える。
物事は360度に変化する。「枢」(とぼそ)とは回転ドアの軸のこと。天の穴~地の穴を差しており動かず安定している。
その軸に居て、道は全てを見渡しているから、魚が鳥になり大きくなって変化するのは当たり前と、超然としている。

我々の心を自由にしておけば、こんな風に遊べるんだよ。


★ 今、荘子を読む意味とは-----

授業ではなかなか教えてくれない

「常識」という桎梏(しっこく)=柵(しがらみ)が、いかに自分を苦めているか、その原因がいかに自分の中にあるか、を知らせてくれる。

「進歩」という考え方に、相当、翻弄(ほんろう)されている。荘子には「退歩」、ちょっと行き過ぎたんじゃないかという見方も出て来る。命が安らかに暮らすためには、行き過ぎてはいけない、と警鐘を鳴らしてくれている。


*


荘子で驚くのは、「魚類⇒(恐竜)⇒(鳥類)への進化」、「地球は青かった」、「宇宙の起源」を示唆する記述(眼差し)があることだ。


 



【付録】 私のスタディ


「万物斉同」(ばんぶつせいどう)

全ての物を斉(ひと、等)しく同一と見なす。

☆ その思想のプロセス

社会の常識・正否(是非)・善悪・貧富(貴賎)・美醜といった認識(考え方)は、人間が後から考えて出して来た礼法・秩序であり、相対的な概念(価値判断)である。
人間界で、人と人とを比べることによって生まれる優越感・虚栄心・名誉欲を求めてしまう心にある。

その欲求によって、自分の生命・人生を消耗させてしまっている。

本来、限りない自然界にはそのような考え方はない。在るのは区別・差別のない同質・等価な世界である。

上下・左右などの空間的位置の相違、過去・現在・末来の時間的位置の相違、善悪・美醜などの価値の対立は、
無限の考え方に立てば、その判断の正当性は、結局は不明であり、一方が無限の彼方に消滅する。ならば他方も存立し得ない。全てが消失する。

自分が絶対者であるという意識を持って、万物に区別・差別を設けない。絶対者の自分もまた万物の一つに過ぎないのであるから。

生も死も万物の変化の一つに過ぎず、従って同一である。

輪廻転生の思想。

全ての現状を受け入れ、何事も肯定すれば、平穏・平和な人生が送れる。 
精神的な自由を求めて、悠々自適な生き方をすればよい。

混沌からの流出を説く宇宙生成の思想。
万物を調和ある有機体と見る万物一体の思想。


 なんとシルバー世代に適した考えであることよ。



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