核オブなかよしさ | rrのブログ

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2018年4月22日(晴れ)
土曜日。夜。楽器の練習行く。自宅から。異例。基本、会社やどこかからの帰りに寄るとゆーふーなため。店はお客がたくさんいて楽器の練習はマンドリンな若男子な人が小さい音で同じパッセージを繰り返し練習してた。まことさんが同性のお友だちとカウンターにいてそのとなりの席に座ってビール飲んだ。まことさんの同性のお友だちな人はまことさんより年下な後輩的ポジションらしくそのよーな口のきき方で、まことさんはやや先輩的口調で話してた。カウンターの中はバラクオバマさん似なバイトなバラクくんがいて忙しそうに酒やらつまみやら作ってた。ひとりで。さだめくんやご主人は?たずねると、今日は僕ひとりなんですよー、諦観的に言った。

お友だちの人が、手を繋いで公園をゆっくりとした足取りで散歩してる老夫婦のように将来なりたい、とか何とか言ったとき、それについてまことさんは、おまえは何もわかってない、て全否定してた(だってとなりだからきこえちゃう)。

いい?あれは牧歌的な仲良しの象徴などではない。ふたりは互いに妥協に妥協を重ね、諦めに諦めを重ね、もうお互い差し出せるものはない、ゆずり合えるものは何ひとつない、とゆう完全ぎりぎりなところで寄り添って歩いてるに過ぎない。もちろん腹の中はどろどろだ。いやどろどろなどというゆるい言葉では言い表せないものが納まっている。それは長い年月積み重ねられたあらゆるできごととそれについての感情だ。長い年月だ。もちろんかなりきわっきわなところなこともあっただろう。挫折、裏切り、誤解、懐柔、誘導的楽観、見て見ぬふり、誰にも言えないこと、そのようなものが積み重なり混ざりあい発酵しどろどろになったものだ。そしてその中にものすごーく小さく硬い核がある。あらゆるものをすり減らし、諦め、放置できるものをひとつひとつ時間をかけて選択し、そのよーなことから生き残った核だ。粒だ。それがあの仲良しのさの姿の核だ。その核がどのような手触りのものなのか?価値あるものかのか?美しいものなのか?は今のわたしごときではわからん。ゆえにおまえではもっとわからん。ただわたしたちは敬意を払わなければならない。本来おまえたちはそのとき(←お友だちの人はお年寄りたちを目撃したときカレシな人といっしょだったらしい)、ぬるい寝言のようなふたりの将来などを話すのではなくその場で襟をただし敬礼しなければならなかったのだ。最後までしぶとく生き残ったラブを微かーなオーラとして見せつける先駆者にな。←本当はもっと普通な女子な人的にしゃべってた。こんな戦場の鬼軍曹的なふーにはぜんぜん言ってなかった。が総意としてはこんな感じ。

1時間くらいいて帰る。帰り道サンマルクで冷たいコーヒー飲んだ。習慣的に。夜はまだ肌寒かった。でも涼しいとゆーふーまであと一息といった感じ。早くも。