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ポール・オースター氏の「闇の中の男」(柴田元幸訳)を読んだ。


不眠症に悩む男は、心にダメージを負った自分の娘と、その孫娘と暮らしている。暗闇の中で夢想しながら眠りにおちるのが男を現実から逃避させてくれる。


男はオーエン・ブリックという男を想像し、男を穴の中に入れる。穴の中で目覚めたオーエンは、自分が軍服を着て戦争が起きているアメリカにいることを知る。それもどうやらアメリカ国内で内戦しており、ある男をオーエンが殺すことで戦争を終わられることができるとサージ軍曹に命令される。


状況が混乱している夢の中で、オーエンの絶望的な冒険が始まる。


そして、夢と現実が混じり合う中で、娘と孫娘たちの再生も図られていく…というストーリーであります。

絶望的な心の傷、心の闇を負った者たちが、絶望を受け入れ、幸せとは何かを掴もうとする物語であります。


個とは何か、個を取り巻く家族の歴史、家族につながるアメリカの歴史を再確認しながら、物語は進んでいきます。それは、アメリカという国に住む家族のあり方の物語、家族の悲劇からの立ち直る、立ち直りたいとする再生の物語でもあります。


9・11がなかった世界の中で、アメリカは内戦状態という設定もエグいものがありますが、その夢の中の戦争より、現実の戦争のリアルがオーエンたちの心の闇を広く、深く浸食していきます。


孫娘のカーチャの恋人タイタスは戦場となっているイラクに行き、悲劇的な死をとげてしまいます。


9・11以来の対テロ戦争という泥沼の中で、アメリカのどこかで、どこかの家族が晒されているだろう沢山の悲劇にどう向き合うべきなのかが、淡々としたストーリーの中で展開していきます。


アメリカは現実に直面し、夢の中という逃避所に逃げることはできなくなってしまったのです。男の抱える傷、娘が抱える傷、孫娘が抱える傷を時計を巻き戻すように戻して、現在を、過去を、未来を変えることはできません。


物語の無力感が全体を包み、それに抗おうとします。

男が夢の中に逃避するように、カーチャは逃げ込むようにDVDで映画を観ます。「大いなる幻影」「自転車泥棒」「大樹のうた」「東京物語」などで、その視点は命なき事物を映像の中から拾い出すことでした。


人間の感情を表現する象徴的な事物をどう表現するか。「自転車泥棒」のバケツ、「大いなる幻影」の皿、「大樹のうた」のカーテンとヘアピン、「東京物語」では懐中時計でした。


人間の記憶につながる命なき事物の想い出、それに込められる人間の感情の偉大さ。優しさや労りが事物を通して我々に訴えかけてくるものとは何か。その大切さの意味。カーチャにとってのタイタスとの命なき事物は何なのか? 命なき事物に命を吹き込む人間の意志の力のようなものが、映像という虚構の中から浮かび上がってきます。


9・11でアメリカ国民が目撃した非現実、それに続く悲劇の連鎖をどう受け止めてきたか、小説の中では「けったいな世界が転がっていくなか」と表現されます。


バランスを保つ命なき事物に対して、現実は大きな振幅を見せます。


いまアメリカは大統領選でトランプを候補としようとしていますが、まさにもし、いまトランプを選ばなければ、その後の世界は変わっていたかもしれなかったのに、というけったいな世界に転がっている気がしてなりません。
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円城塔氏の「プロローグ」(文藝春秋)を読んだ。


小説の連載を頼まれた主人公は、エクセシオールカフェやドトールに入って、愛用のMacAirでテキストを打っている。先ずは連載小説の設定や登場人物たちを決めなければならないが、なかなか先に進まない。


それよりも先ず、この連載が何語で書かれなければならないか、言語とは何なのか、日本語とは何かという問題に絡み取られ息詰まる。


そんな状況に置かれた主人公のごとき作家にとって物語を生成していく意味さえ怪しくなってくる。


取り敢えず、「新撰姓氏録」を参考に登場人物たちの名前を決めていく。一応の語り部は雀部曽次。


しかし、登場人物たちは雀部の意識にあるテキスト生成の試みをも離れ、勝手気儘に物語世界を動いて冒険しちゃうのです。


平行世界的に繰り広げられる物語=テキスト生成の海の中で交錯する登場人物たち、語とは、書くとは、テキスト生成とは、という人間の根源的営為と世界(物語、生、時空の歪み)が触れ合い、化学反応を起こしちゃう驚天動地、摩訶不思議なストーリーであります。


現実世界と想像世界の融合と分裂、「泣くな、はらちゃん」のような作品世界やなぁ~、と思いました。誰の世界で、誰のための世界なのか、誰が求めている世界なのかが、円城塔手法で縦横無尽に描かれています。


言語の確信性をめぐる物語で、最新の人工知能をめぐる機械学習や日本語形態素解析システムであるMeCabによるテキスト生成などが出てきますが、このあたりなかなか面白い洞察と展開で、このあたり個人的にはフムフム、にやにやしちゃいます。


人工知能の書いた小説と人間の書いた小説、どちらが優れていて、読み手は違いが分かるでしょうかね、という問題に行き着くと思いますが、あるいは読み手は誰であるか、あり得るのかという問題もあります。


プログラミング言語でプログラムを実行させることと、人間が無意味から意味を生成できる仕組みは同一性と異同性はもちろんあるものの、それがこの世界にあり、あり得るという可能性の濃淡、狭間にあることを作品は教えてくれます。


時間と空間がつくり出している世界に抗うように人間は痕跡をモノ=ことばで遺していますが、作品では勅撰和歌集のカテゴリー化と分析というカタチで提示されたりしちゃています。


詠み人の世界は十人十色の解釈を持ちますが、その解釈に確信性を与えるものはいったい何なのか?


名前はまだない私小説に名前を、意味を与えられるのは誰であるのか、登場人物たちが、自分は登場しているのか、登場してないのか、これは原テキストか、輻輳化されたテキストなのか、もうドタバタにもがく様子がなかなか秀逸なのであります。


小説を書くというのは、その確信性をめぐる果敢な試みであるのかもしれません。


その着地点は、いままさにテキストを読んでいる、知覚している目覚めた意識と無意識の中に存在している存在そのものであるかもしれません。
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M・ウエルベック氏の「プラットホーム」(中村佳子訳)を読む。


主人公の僕(ミシェル)はフランスの公的機関で芸術家、現代アーティストたちの助成などを担当しているが、仕事にも、人間関係にも熱くなれないでいた。そんな時、最後の人生を謳歌していた父親が殺害され、かなりの額の遺産を相続する。


生きることの意味に醒めていた彼は休みを取り、タイへのツアー旅行に参加する。さまざまなツアー参加者との距離と関係に辟易した彼であったが、マッサージサロンでの若い娼婦とのセックスに格別の想いを懐く。さらに、ツアーに参加していたヴァレリーという女性に惹かれ、パリで逢う約束を交わす。


ヴァレリーは、旅行代理店に勤めるキャリアウーマンだったが、ミシェルに惹かれ肉体的にも精神的にも彼に尽くしよく奉仕する。人生に飽き疲れていたミシェルだったが、ヴァレリーとの性的生活と彼女との関係に生きる希望を見出だす。

ヴァレリーは、上司のジャン=イヴと大手観光会社にヘッドハンティングされ、リゾート観光部門を任されることになる。他社との優位を獲得するために売春をシステム化したリゾートツアーをミシェルの提案で売り出し、予約を殺到させ成功させる。タイでのオープニングパーティがあり、ミシェル、ヴァレリー、ジャン=イヴは出席するが、イスラム過激派によるテロ攻撃に晒されることになる…というストーリーであります。


本書の発表の後、イスラム過激派による9・11同時多発テロが発生し、イスラム教世界vsキリスト教世界を予言している書として話題になった小説であります。

イデオロギーによる価値基準が崩壊した後に残ったのは、貨幣、金銭を基準とした価値によるあらゆるモノ、ヒトの流動的な取引であり、経済システムは大小の市場を人間関係システムに置き換えた。買春ツアーも、社会的な批判を浴びながらも欲望の市場を形成するだろう。


本書の主人公は、娼婦との手軽で、簡潔なセックスを肯定しながら、愛の介在するロマンスによって人生の積極的な思考を獲得していく、自己再生をはかる。しかし、グローバルに遍在する悲劇がその幻想を打ち砕く。


システム化へと向かう市場の創造には、それを許さない反システムへの動きがつきものである。価値や意味の付与は、人間の数だけ存在する。


それを犠牲や、涙で片付けるのも一つの人間の距離だ。みんなが僕を忘れるように、テロによる悲劇も忘れ去られるだろう。忘れ去られるというより、あらゆる事態は物語化していく運命を辿るしかない。


主人公は人生の無意味に対して抗おうとするステレオタイプ化したさまざまな人たちとすれ違っていくが、その登場人物たちの誰にも共鳴することができない、冷めた視線を向ける。そこには、性的欲望を満たそうとする肉体そのものによる制限が存在しており、人間の奢りが見え隠れする。


人間の無意味性を転換させるものには宗教や権力があるが、そこには強力な浄化作用、カタストロフィーが横たわっている。レイシズム、選民思想による繰り返される歴史的悲劇はもちろん、人間性を剥奪した身体の取引、あるいは生存競争自体に悲劇は内包している。


綺麗事て建前を身に付けた人間たちが、ただその役割を無表情で演じていくだけだ。イスラム過激派による自爆テロや暴力も、経済システムとして売春システムを構築し、人間が人間を服従させていく行為も通底にあるものは同じなのではないか、歪んだ儀礼的宗教と歪んだ権力への意志が世界を覆っているだけだ。


徹底的な絶望と哀しみは人間の人間らいし再生をさらに許すことはないだろう。